top of page

2026年7月5日 聖霊降臨後第六主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2 日前
  • 読了時間: 15分

聖書交読 ゼカリヤ9章9~12節(旧約p1489)

司)9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

会)9:10 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。

司)9:11 またあなたについては/あなたと結んだ契約の血のゆえに/わたしはあなたの捕らわれ人を/水のない穴から解き放つ。

全)9:12 希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる。

 

聖書朗読 マタイ11章25~30節(新約p20)

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

説教 「荷は軽い」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

皆さんおはようございます。2026年も7月に入りました。礼拝の回数も27回を数えております。ちょうど一年の折り返し地点です。今年は「思い煩わない一年」ということで、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」とのフィリピの信徒への手紙4章6節の御言葉を掲げております。先日6月21日、創立70周年記念の音楽発表会がありましたが、最後に参加された皆さんで、この御言葉を一緒に読むことができ、御言葉に触れていただけて感謝でした。

 

普段私たちの教会の礼拝では、ほとんど聖書日課に基づいて聖書の箇所が選ばれており、この「思い煩わない」という今年のみことばに基づいて、それに沿って聖書の箇所を選んでいるわけではないので、週報には毎週記載しているものの、それほど毎回毎回の礼拝がこの御言葉に沿っている、ということでもないと思います。しかし、今日お読みいただいた福音書の箇所は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11:28)とあり、思い煩いに悩む魂にとっては、イエス様のもとに来て安らぎをいただける、という希望をいただけるのではないでしょうか。

 

とりあえず、先週の説教の福音書の箇所から、今日の福音書の箇所に至る流れを確認しておきたいと思います。先週はマタイによる福音書10章の最後の部分を読みました。イエス様によって派遣された弟子たちを受け入れる者はイエス様ご自身を受け入れ、なおかつその背後におられるお優しい天の父なる神様をも受け入れる、という箇所でした。そこから、「現代において預言者として生きる」というテーマでお話ししました。現代における預言者とは、イエス様の救いを受けて、天の喜びにあふれ、心から「天の国は近づいた」と語る人々でした。その人々を、そのような預言者だとわかったうえで迎え入れる人が、良い報いを受けられないはずがない、ということでした。

 

そこから11章に入り、イエス様は使徒たちに宣教の指示を与え、ご自分はまた、ご自分での宣教を続けておられます。新共同訳の便利な小見出しによると、「洗礼者ヨハネとイエス」、「悔い改めない町を叱る」という部分が、今日の箇所の前に置かれています。そこでは、天の国の到来のために来るべき方がイエス様であることが明らかにされ、まさに御国が近づいている予感が高まりますが、同時に、人々の不信仰が鋭く指摘されている箇所でもあります。そのような箇所を経て、今日の「わたしのもとに来なさい」という箇所に至るわけです。

 

直前の箇所を確認しましょう。24節は、「しかし、言っておく」とのイエス様の厳かな言葉で始まり、「裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」と、「裁きの日」であるとか、「罰」とか、私たちを恐れさせるような言葉が語られています。25節冒頭の「そのとき」というのは、そのような厳しい言葉が語られたとき、とも受け取ることができるでしょう。

 

ですから、一体25節ではどんなことが言われるのだろう、とドキドキして構えていると、イエス様は開口一番、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と、お優しい天の父なる神様を賛美する言葉を言われるのです。これは、イエス様の感謝の祈りです。25節からしか読まなければ、別に驚きもしないかもしれませんが、24節までの流れとのつながりで読んでいくと、ちょっとついていけないぐらいの変化です。

 

イエス様はここでどうして感謝しておられるのかというと、続きを読んでいきますと、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と祈っておられます。これらのこととは、11章に記されている、イエス様こそが御国の到来のために来るべき方であること、天の御国が近いということ、更に、御国が近いにもかかわらず、地上の民は不信仰である、ということも含まれると考えられます。

 

そのような重要なことは、「知恵ある者や賢い者」には隠されており、「幼子のような者」には示される、すなわち啓示される、という真理がここでは語られていて、それゆえに、イエス様は感謝しておられることになります。しかも続く26節では、「そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と、御心通りのことが起こっているとのイエス様の認識が示されています。

 

イエス様がどのような方で、何をもたらす方なのか、ということ、そして天の国が近づいていること、それなのに人々は不信仰である、そのような重要なことは、「知恵ある者や賢い者」には隠されていました。それが御心だった、とイエス様は言っておられます。本来なら、「知恵ある者や賢い者」なのですから、そのようなことを知っているはずでした。それなのに、そうではない。この人たちは「知者だ」と言いながら、実は知るべきことを知らなかった、ということもできます。自分たちが不信仰な者である、ということすら、彼らには見えていなかったのです。

 

却って、「幼子のような者」、これはもともと単純に「幼子たち」と書かれているのですが、そのような者たちに、天の御国の真理が啓示される。しかも、そのような真理を前に、すべての人が信じ、受け入れているわけではない。そこには不信仰がある、ということも知らされていたのです。だからこそ、この人々は更に身を低くして、悔い改め、御国の福音を信じることができますように、と祈っていたのです。このように、「幼子たち」とは、年齢が幼子である、というよりも、謙遜に、身と心を低くして何とか信じようとしている人々のこと、ということになります。

 

27節になりますと、イエス様は、ご自分が父なる神様からすべてのことを委託された存在であることをお示しになります。皆さんご存じの通り、同じマタイによる福音書の最後に記されているイエス様の言葉とのつながりを感じさせます。そこでは、復活のイエス様はこう語っておられます。「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている』」(マタイによる福音書28章18節)。イエス様は弟子たちに近寄ってきてくださる方です。距離を詰めてくださるのです。そして、天と地のすべての権威、権能が与えられていることを宣言なさいます。ここでも同じように、イエス様は「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と宣言しておられます。ここでは誰に向かって行っておられるのか、聴衆がはっきりしませんが、恐らく宣教を終えて帰ってきた弟子たちに近寄り、近い間柄の中で、このように宣言なさったのではないでしょうか。「私がすべて握っている」という宣言は、場合によっては人を拒絶する響きを持ちますが、イエス様の場合は違っていたでしょう。私がすべて握っているのだから、安心しなさい、というニュアンスがあったのではないでしょうか。

 

続いてイエス様は、「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」と言われます。父と子の密接な親しい間柄をお示しになりますが、もちろんこれは、天の父なる神様と、子なるイエス様のことを指しています。ここでイエス様は、子であるご自身が、父である神様を知る唯一の道であることを明らかにしておられます。そう申し上げますと、すでに皆さんは、あのヨハネによる福音書の御言葉を思い出しておられることでしょう。そうです。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」(ヨハネによる福音書14章6節)という御言葉です。ヨハネによる福音書との密接なつながりを指摘することができます。そもそも、25節で突然「天地の主である父よ」と始まる祈りの内容もまた、ヨハネによる福音書との共通点が指摘されるものです。

 

「子が示そうと思う」と言うところに、「啓示」の思想が表れています。25節の「お示しになりました」という言葉ともつながりがあります。賢い知者ではなく、取るに足らない、幼子のように身を低くするものに、天の御国の真理が啓示される。そして、子なる神であるイエス様が、御心に適う者に父なる神のことを啓示なさる。これはひとつのことを言っている、と言っても言い過ぎではないでしょう。

 

このように、イエス様が父なる神様を知るための唯一の道であるという、イエス様の重要性が語られたのちに、この有名な28節が来るのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。教会の看板と言えば、この御言葉が書いてある、ということもあるぐらい、有名で、心に響く言葉です。冒頭で申しあげたとおり、思い煩いに悩む魂にとっては、イエス様のもとに来て安らぎをいただける、という希望をいただける御言葉でもあります。

 

これは、単に今の時代風の、癒しとリラックスを提供する言葉、というだけではありません。もちろん、それらも与えてくれますが、大事なのは、この御言葉の内容とともに、誰が語っているのか、という点です。人の悩みを知る癒しの専門家が言っているのではない。御国の到来のために来るべき方であり、すべての権威がゆだねられ、父なる神様への唯一の道であり、幼子たちにその父なる神様について啓示なさるイエス・キリストが、これを語っている、ということが重要なのです。単に癒される、というだけでなく、まさに私たちのいのちとなるような言葉なのです。

 

私たちは、この世において、疲れ、重荷を負うものです。それは、長引く中東戦争の影響を受けて生活に負担感が増している、ということも含んでいます。また、自分の評価、ということに、過敏になっていることからももたらされます。私はこれで十分な存在なのか。人から受け入れられるのかどうなのか。そのことを考えても、心は重くなります。また、24節までで、不信仰が責められていました。このこともまた、私たちの心に重くのしかかります。私は不信仰な存在だ。それをどうやって取り返そうか。名誉挽回ではありませんが、私は不信仰な者と言われたままでは終わりたくない、何とかそこから脱したいともがけばもがくほど、苦しくなり、疲れるものです。

 

そのような私たちは、25節で言われている「知恵ある者や賢い者」に成り代わっているのかもしれません。この人たちは、いわば「見えていない」人々でした。自分たちが、まさか真理が見えていない存在だとは思っていない。私は見えている、だから頑張って自分で何とかするんだ、不信仰も解決するんだと突っ張っている人々で、幼子のように、「ああ、私の力では無理です」といって膝を折ることができない。あちこち突っ張っているから、体は疲れ、心もまた緊張状態で疲れやすくなっています。

 

そのような人々に、「来なさい」と単純なメッセージを送られるのがイエス様です。「もうちょっとましになったら」などではなく、今、そのまま出てきなさい、と温かく招いてくださるのです。しかも、「休ませてあげよう」と提案してくださるのです。

 

イエス様の休ませ方は、まさにイエス様流です。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。「わたしは柔和だ」とご自分から言えるのは、イエス様ぐらいでしょう。私たちがこれを言ったらたいへんなことになります。それはそうと、これはイエス様の「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ」(マタイによる福音書5章5節)という山上の説教の言葉のエコーです。イエス様は柔和な方で、だから、地を受け継ぎ、「すべてのことがわたしに任されている」とおっしゃることがおできになるのです。

 

この柔和な方が、「休ませる」と言っておきながら、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言っておられることは、矛盾なのでしょうか。せっかく休めると思ったら、何か負担し、学ばなければならないのか、がっかりするでしょうか。

 

軛とは、農作業などにおいて、二頭の牛などの動物が、一緒に作業するために、首の所に器具を付けて、一緒の方向に進むようにするものです。これは拘束なのでしょうか。確かにその面もありますが、それで同じ方向に進むことができ、作業もはかどるのです。そして、力の配分としては、年配の牛の方が力が強く、若い牛の方は弱いけれども、これでバランスが取れて、前に進むことができる、というようなことが言われることもあります。これをイエス様と私、という関係に置き換えてみましょう。イエス様の軛を負うことは、強制的なイメージもありますけれども、それでイエス様と私は同じ方向を向いて進むことができます。私だけ別の方に行こうとすると、痛いのです。苦しいのです。体を預けて、同じ方向に進んだ方が、実は負担が少なく、楽なのです。そして、未熟な私よりも、イエス様の方が力強く進んでくださるので、それではじめて、まっすぐ進むことができます。そして、多くの実を結んでいくことができるのです。そのようなことを、「負担が大きい」ということで、嫌う必要があるでしょうか。それで、安らぎを得られるのです。これは、「魂に安らぎが来る」ということで、エレミヤ書6章16節の引用であると言われています。そこでは、こう言われています。

 

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。

 

主はこのように、旧約の昔から、幸いに至る道を学び、そこを歩み、魂に安らぎを得るように願っておられました。それなのに実は、当時の主の民はそれを嫌い、「そこを歩むことをしない」と突っぱねています。現代の私たちはそうならないよう、魂の安らぎが約束されているときに、その約束された安らぎを得られるよう願うものです。

 

最後の30節で、イエス様は旧約聖書の並行法であるかのように、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と対句を用いて語られます。ここでは、「軛が負いやすい」が、「荷は軽い」に言い換えられています。お気づきのように、今日はここから説教の題が取られています。これも考えれば不思議な表現で、休ませてくださるのなら、「荷は軽い」どころか、「もう荷物はない」と言われた方がいいのではないか、とも思ってしまうかもしれません。

 

しかし、ここでなぜイエス様が「荷は軽い」と言っておられるかを考えておきましょう。第一に、私たちから荷物が取り上げられることはありません。私たちは神様から、律法をいただきました。神様から何が正しいのか、どう生きるべきか、律法から教えられているのです。その律法からの要求は、私たちが人間としてこの世を生きている限り、なくなることはありません。だから、荷物はあるのです。

 

第二に、イエス様が共に担ってくださるから、確かに荷物としてはそこにあるのだけれども、軽くなるのです。また、同じ荷物でも、敬愛する人のためにはその荷物も軽く感じられる、ということもあるでしょう。イエス様の十字架によって救われた私たちが、それを恩義に感じて、父なる神様の御心に生きようと思うとき、それが過度な重荷であるはずがありません。確かに、人間弱いですから、多少の負担感はあるでしょうけれども、かと言って、それが重すぎて担いきれない、ということまではないでしょう。私たちの心にイエス様の愛がある限り、その愛ゆえに、荷は軽く感じられるのです。そして、循環的な考え方になりますが、ときにはそれが重すぎて倒れるような時も、いや、そのようなときこそ、「重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい」と、イエス様は招いてくださるのです。この御言葉には、何か荷を負っているときでなければ、出会えません。何の荷物もないのです、それはありがたいようで、そのような状態では、私たちはイエス様の所に来て、休もうとは思いもしないでしょう。

 

私たちは皆、疲れや重荷、思い煩いを抱えて生きています。しかしイエス様は、知恵ある者にではなく、幼子のように謙遜な者に、父なる神様をお示しになります。そのイエス様が「疲れた者は、わたしのもとに来なさい」と招いておられます。イエス様の軛を負うとは、独りで踏ん張ることをやめ、柔和で謙遜なイエス様と共に、同じ方向へ歩み出すことです。荷物そのものがなくなるわけではありません。けれどもイエス様と共に担うとき、その荷は軽くなり、魂に安らぎが与えられます。今年私たちに与えられた「思い煩うのはやめなさい」との御言葉も、まさにこの招きにつながっています。今週も、思い煩いをそのまま神様に打ち明けながら、イエス様と共に歩んでまいりましょう。 

 

天の父なる神様、御名をほめたたえます。今日、疲れた者、重荷を負う者を招いてくださるイエス様の御声を聞くことができ、感謝いたします。私たちはしばしば自分の力に頼って突っ張り、疲れ果て、思い煩いに心を占領されてしまいます。どうか幼子のように身を低くして、あなたの御前にへりくだることができますように。イエス様の軛を共に負い、柔和で謙遜な主のもとで、日々の歩みを続けさせてください。荷物が取り除かれるのではなく、主と共に担うことでその荷が軽くなり、魂に安らぎを得られますように。この一週間も、思い煩うすべてを、感謝をもって祈りと願いのうちにお委ねすることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


報告

・本日は礼拝後昼食会があります。そのあとフェローシップMLCで、役員会があります。来週は神学校デーです。

 


コメント


御影ルーテル教会

658-0047 神戸市東灘区御影3-10-5

tel: 0788420446

©2022 by 御影ルーテル教会  Wix.com で作成されました。

bottom of page