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2026年6月21日 聖霊降臨後第四主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 17 分前
  • 読了時間: 13分

聖書交読 詩編68編8~14節(旧約p900)

司)68:8 神よ、あなたが民を導き出し/荒れ果てた地を行進されたとき〔セラ

会)68:9 地は震え、天は雨を滴らせた/シナイにいます神の御前に/神、イスラエルの神の御前に。

司)68:10 神よ、あなたは豊かに雨を賜り/あなたの衰えていた嗣業を固く立てて

会)68:11 あなたの民の群れをその地に住ませてくださった。恵み深い神よ/あなたは貧しい人にその地を備えられた。

司)68:12 主は約束をお与えになり/大勢の女たちが良い知らせを告げる

会)68:13 「王たちは軍勢と共に逃げ散る、逃げ散る」と。家にいる美しい女も戦利品を分けている。

全)68:14 あなたたちは二つの鞍袋の間に横たわるのか。鳩の翼は銀に、羽は黄金に被われている。

 

聖書朗読 マタイ10章26~31節(新約p18)

10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。

10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。

10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。

10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 

説教 「天の父の優しさ」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

今私たちは、典礼色が緑の、「成長」を期待する時期を過ごしております。聖霊降臨後のときは、この成長を、聖霊がもたらしてくださる、と期待できるときです。私たちがあくせく、成長、成長と駆けずり回ることを意味していないことは、すでに先週もお話ししました。聖霊が働いて、教会が成長し、また、この世に派遣されていく、そのことをだいぶ先週は強調してお話ししたように思います。聖霊によってもたらされる成長と派遣の季節に、ちょうど私たちは、イエス様が12使徒を派遣されるに際しての、言ってみれば「派遣説教」をしておられるところを、開いております。

 

少し横道にそれますが、ちょうど今の時期は、ルーテル教会にとってはたいへん重要な時です。それは、私たちルーテル教会にとって重要な、「アウグスブルク信仰告白記念日(6月25日)」の直前の主日にあたるからです。

 

1530年、迫害の恐れの中で、帝国議会に「アウグスブルク信仰告白」を提出したルター派の先達たちの姿は、今日開かれた福音書の箇所にある「人々を恐れてはならない」、また、「明るみで言い表しなさい」というイエス様の言葉そのものの体現だったとも言えるでしょう。

 

今日ここで、アウグスブルク信仰告白の内容について詳細に触れることはできませんが、まさにルターが大事にした「十字架の神学」に基づいて、その信仰を告白していく姿は、今日の福音書の箇所における「人を恐れずに信仰を告白する」という姿と結び付くように思います。ただ、ルター派の先達たちのその信仰告白とは、自分たちの強さによるものではなく、無力な者が、「天の父から絶対的な擁護、保護を受ける」ということへの「信頼」(ルターは信仰を「信頼」と受け取り、理解しました)から湧き出るものであると言うことができます。

 

それでは、先週の説教で触れたマタイによる福音書10章4節までと、今日開いている10章26節からの箇所の間、マタイ10章5節から25節までの流れを、少し確認しておきましょう。先ほど触れましたように、12使徒派遣に際しての、イエス様の「派遣説教」の箇所です。

 

イエス様はその派遣説教の中で、12使徒は、まずは「イスラエルの家の失われた羊」へ遣わされる、ということを明らかにされます。そして、伝える内容も明確に示されます。それは、「天の国は近づいた」(7節)という、シンプルなメッセージでした。そのメッセージを宣べ伝え、病の癒やしや悪霊追放の権能を行使する、ということが命じられています。

 

しかし、その派遣は「狼の群れに羊を送り込む」ようなものであり、身内の裏切り、徹底的な憎しみに直面する、とも警告しておられます。「私たちは狼の中に丸腰で送られ、師匠、先生であるイエス様と同じように憎まれる(25節)」と緊張が高まってくる中で、「だから、そんな人々を恐れるな、天の父がすべてを握っておられる」という大いなる慰めへと大転換していくのが、今日の箇所なのです。

 

では、少しずつ見ていきましょう。

 

イエス様はまず、「人々を恐れてはならない」と言われます。もちろんこれは命令の形なのですが、だからと言って、律法ではありません。安心しなさいと、私たちを恐れから解放する、良い知らせです。宣教への派遣において、そんなことはできるだろうか、これから苦境に立たされるのではないか、そのように心配する弟子たちに、まずイエス様は、「恐れなくてよい」という意味合いで、このように語ってくださるのです。

 

現代において、人間関係において様々に悩み、いちばん難しいのは人間関係だ、人と接するのは難しい、と気疲れし、生きづらさを感じてしまうような私たちに、この「人々を恐れてはならない」というイエス様の言葉は、まさに悩める魂への慰めとして、響いてくるのです。

 

続いて、イエス様は「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と語られます。このように、旧約聖書の言葉のような、並行法で語られているこの御言葉においては、「覆われているもの」と「隠されているもの」が呼応関係にあり、ほぼ同じことの言い換えである、ということが推測できます。では、この「覆われているもの」「隠されているもの」は何のことなのでしょうか。これは、天の国、御国の福音のことを指していると考えられます。地上を駆けずり回っている自分には、天の世界は全く遠く離れている、と思っていたイエス様当時の人々に、「天の国は近づいた」(7節)とは、実に印象的なメッセージだったのではないでしょうか。天を仰ぎ見ることもなく、ただ地上のことばかりに振り回されていた人々の視界に、その世界に、天の世界が割って入ってきたような、そのようなダイナミックな変化が起こった、そのように言うこともできるでしょう。このような天の国の福音は、今まで覆い隠されていたが、今やイエス様の出現によって、公にされた。だから、もう人々を恐れなくてよい、そのような素晴らしい天の世界があなたのもとにやって来る、そしてあなたの人生を一変させる、そのようなイエス様の励ましであったのです。

 

ですから、続く27節の「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」においても、これもまた、旧約聖書的な並行法という技法で言われているのですが、「暗闇であなたがたに言うこと」と「耳打ちされたこと」は呼応関係にあり、ほぼ同じことを言い換えていて、それは「福音」のことなのです。その福音を、公けに言い広めましょう、というイエス様のお勧めです。「屋根の上で」というのは「屋上」のことで、当時のユダヤの家には屋上があったことの名残です。

 

イエス様は28節でも、「恐れるな」というメッセージを繰り返されます。このような反復は、大事だからこそなされるわけです。これから派遣される12使徒たちに、現状は厳しいかもしれないけれども、恐れる必要はない、という慰め、励ましを、重要だからこそ、繰り返しなさるわけです。

 

むしろここで取り上げられているのは、「真に恐れるべきは誰か」ということです。私たちは、人の顔色を見て、人を恐れるのですか。確かに、彼らは私の魂、心、精神を疲弊させるのです。何であんなこと言うのかな、どうしてあのとき、あんな表情を見せたのかな、などなど、夜に歯を磨いているとき、あるいはぼーっと掃除機をかけているとき、包丁を動かしているときに、ふと思い出しては、何でなのかな、と思い悩む。思い悩めば思い悩むほど、心は消耗していき、疲れた、生きづらい、と思うようになるものです。それが現実でしょう。

 

だからこそイエス様は、本当は誰の顔色を見るべきなのか、ということを気づかせてくださるのです。考えてみれば、私たちは、周りの人の顔色は見ますけれども、神様の顔色はあまり見ないかもしれません。祈りにおいて神様に出会わなくても、聖書を定期的にお家で読む、という中で神様にお出会いできなくても、意外に気にしない。むしろ、人間関係の中で、あの人のこと、この人のことの方が気になってしまう。そんなものなのかもしれません。

 

しかし、ここでイエス様は、「本来は誰を恐れるべきですか」ということを鋭く私たちに突き付けてきます。この辺り、はっとするところで、このように「はっとする」のは律法の働きです。律法によって私たちは、「あれ、もしかして私は間違っているのかも」ということを知らされるのです。もしかして、このように私が、人の顔色ばかり見て心配したり悩んだりするのは間違っているのかもしれない、と気づかされるのです。

 

イエス様はむしろ、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とお命じになります。私たちが一生懸命顔色を見ている人間は、私たちがそのような人間関係で消耗することで、私たちの体を殺すことはできるかもしれないけれども、神様に直結した、私のいちばん核となるような、それを魂とここでは言われていますけれども、そこまで殺すようなことはできない、所詮そのような者にすぎない、とイエス様は言われます。むしろ、普段あまりあなたがたが顔色を見ていない神様の方が、あなたの体だって魂だって、どちらも滅ぼすことができる存在なのだ、と言われるのです。私たちは、その方の方を恐れるべきなのです。

 

ちなみに、そのことを恐れて、体も魂も滅ぼされなくない、と願ったからこそ、私たちはイエス様の所に駆け込んだのでした。その私たちをイエス様は顧みてくださり、私たちのために親しく十字架にかかって身代わりになってくださって、私たちが体も魂も滅ぼされるその地獄とも呼ばれる裁きの場に落とされることのないように、イエス様が代わりに命を落としてくださったのです。そのことには、感謝してもしつくせません。

 

さて、イエス様はこのように、偉大なのは神お一人、と言わんばかりに、私たちにこの神様の存在を伝え、その方を恐れるように、と勧められます。ところが、その方を「あなたがたの父」として紹介し、その方の恐ろしさではなく、その憐れみ、優しさを伝えようとしているのが、次の29節以降の箇所なのです。

 

29節以降は、日本語の翻訳において差異が少なく、語られているメッセージが非常に明解であることがうかがわれます。この29節では、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と言われ、28節で「魂も体も滅ぼすことのできる方」を、「あなたがたの父」と呼び換えています。先ほどの御国の福音、「天の国が近づいた」との関連で、ここでこの方を私たちの「天の父」と呼びたいと思います。天の父は、市場の隅で売られている小さな小さな雀をも、ご自分の許可なしには、地に落とすことはない、と言われています。

 

1アサリオンとは、当時の最小の通貨だったと言われます。そんな安値で買える、小さな雀など、価値があるのでしょうか。その雀が空を飛びかけるか地に落ちるのか、そんなことを誰が気にすることでしょう。しかし、たとえ誰もそれを気にかけなくても、天の父は、気にかけていてくださる。だから、天の父の許可なしには、そのような小さな存在でも、地に落ちることはない、と言われているのです。

 

これは、「そこまで小さなものに目をかけてくださる方なら、もっと大きな存在にも、同じように目をかけてくださる」という、当時の論法に沿ったメッセージであって、何を強調したいかと言えば、「雀よりも大きな存在であるあなただって、同じように天の父は気にかけていてくださる、目をかけてくださる」ということなのです。ここで示されているのは、天の父の「関心の深さ」です。徹底的に私たちの天の父は、私たちの存在に関心を寄せていてくださるのです。

 

そしてそれは、私たちの日常の暮らしに入ってきてくださり、私たちに関与してくださる、ということでもあります。30節には、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とあります。天の父が、私たちの暮らしに関与して、このように私たちの髪の毛さえ、数えていてくださる、ということなのです。「数えられている」は、完了分詞の受け身で書かれています。天の父によって数えられている、ということであり、なおかつ、これは完了で書かれていますから、「もうすでに数えあげられている」という意味でもあるのです。そこまで、天の父は私たちに関心を寄せ、関わってくださる、ということです。

 

私たちは日々の暮らしの中で、何らかの「評価」を受ける世界に生きています。要するに「役に立っているかどうか」という観点でしか見られない側面があり、それがまた、私たちの悩みや焦りになったりするものです。しかし、天の父の優しさは、抜け落ちても気づかないような髪の毛の一本に至るまで、知っていてくださることによく表れています。言ってみれば、天の父は私たちを「人類」という「マクロな総体」として愛しておられるのではなく、「あなた」というかけがえのない「ミクロな存在」として、愛しておられるのです。

 

16世紀から17世紀の天文学者ケプラーは、天体の運行という壮大な宇宙の秩序(マクロ)の中に、神様を見出そうとしました。しかし、聖書が語る神様の素晴らしさというのは、そのスケールの大きな宇宙の創造主が、レンズの焦点を小さく小さく絞り込んで、地上の市場の片隅で売られる一羽の雀、そして私の髪の毛一本という「極小(ミクロ)」のものに、関心を寄せているという事実にあります。

 

そこまでスケールの大きなことまで言わなくても、礼拝の中で讃美歌をみんなで歌っているときの自分の声のことを考えても、同じようなことは言えると思います。私一人の声は、聞こえているのだろうか。神様に、ちゃんと届いているんだろうか。どうせ聞こえないなら、歌っているのは意味がない、など、考えればいろいろなことが出てくるかもしれませんが、でも、神様はちゃんと私の声を聞いていてくださる、そのような恵みです。神様は、礼拝の場において、あなたに会いたいのです。私はいてもいなくても同じ、ではなく、あなたが礼拝の場に来て、ここで一緒に賛美する、というのは、天の父にとって、実に貴重なことなのです。今、礼拝堂の外から中にかけて、「歓迎します」というポスターをいたるところに貼っていまして、何をこんなにいくつも貼っているのか、と思われるかもしれませんが、これは皆さんを歓迎する思いの表れです。これはまた、天の父が、皆さんを本当に歓迎しておられることの表れなのです。そう思っていただければありがたいです。

 

そして最後に、イエス様は「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」という、究極の福音を述べられます。一言に凝縮すれば、「私には価値がある」、というメッセージです。これは、「あなたの命をその手の中に確保しておられる天の父の優しい懐に、安心して身を投げ出しなさい」という、究極の「優しさの保証」であるとも言うことができます。このように、私たちの天の父は、実にお優しい神様です。この方が、私たちのもとに、福音を告げ知らせるために、救い主イエス様を送ってくださいました。私たちはこのイエス様を通して天の父の優しさを知り、それに触れ、癒されて、福音によって救われていくのです。

 

お祈りいたしましょう。

愛する天の父なる神様。聖霊降臨後第四主日の今日、御前に集い礼拝の恵みに与ることができますことを感謝します。今、私たちは「恐れるな」と語りかけるあなたの御声を聴きました。一羽の雀さえ忘れることなく、私たちの髪の毛まで数えておられるという、あまりにも細やかで深い「天の父の優しさ」に心から感謝いたします。

 

世の困難や不安に心が揺らぐときも、私たちはあなたの御手の中にあり、一話の雀よりもはるかに価値ある存在として愛されていることを忘れないでいさせてください。どうか今、聖霊の光で私たちを満たし、この御影ルーテル教会から、あなたの愛と安らぎを周囲へと証しする者として世へ送り出してください。

 

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

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本日午後1時半より、創立70周年記念音楽発表会です。


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