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2026年6月14日 聖霊降臨後第三主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 6月14日
  • 読了時間: 13分

聖書交読 詩編100編(旧約p937)

司)100:1 【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

会)100:2 喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。

司)100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。

会)100:4 感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。

全)100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。


聖書朗読 マタイ9章35~10章4節(新約p17)

9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

10:3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、

10:4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。


説教 「私たちの願い」


説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


皆さん、おはようございます。聖霊降臨後第三主日の朝を迎えました。今日は、「私たちの願い」というテーマを掲げています。今日の私たちの願いは何でしょうか。足腰の痛みが取れますように、なかなか夜眠れないことが改善して、よく眠れますように、などなど、実に個人的なことから、長引く中東戦争の影響で物価高が続いていますから、その解決のためにも、一日も早く戦争が完全に終結するように、という規模の大きな願いも、今の私たちにとっては大事な願いです。あるいは、そこまで範囲を広げなくても、今この私が経験している人間関係が何とかなりますように、という願いも切実なものであるでしょう。今日はこの「願い」という点に焦点を当て、私たちの願いはどのようなものであるのか、また主イエス様の願いとは何か、そのあたりのことを探っていきたいと思います。


まず、今日の聖書の箇所までの流れですが、先週9章の9節から13節を読みまして、マタイの召命の出来事を共に振り返りました。そのあとは、主イエス様の新しい教えと、神の国の権威を示す様々な癒やしの御業が連続して描かれています。まず、断食をめぐる問答があり、そのあと、イエス様は長年の病の女性の癒やしと少女をよみがえらせるという奇跡をなさっておられます。更に、二人の目の見えない人の癒やしが続き、悪霊にとりつかれて口のきけない人の癒やしをなさいます。そのようにして、イエス様が病や死、悪霊に対して圧倒的な権威を持つメシアであることを次々と証明なさり、今日の35節に続いているのです。


では、本日の箇所を見ていきましょう。9章35節、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあります。どこかで聞かれたことがあるかもしれません。実は、同じマタイによる福音書の4章23節にも、同様の御言葉がありました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。両方ともガリラヤ地方で行われた、イエス様の福音の宣教と力ある業について、告げています。イエス様について大事な報告なので、繰り返し書かれているのでしょう。私たちはここで、「その昔、こんなことがありました」と過去の出来事について知らされるだけでなく、私たちの今の世界でも、主イエス様が力強く働いて、ご自身で新しい教えをなさり、福音をお告げになり、力ある癒しなどの奇跡を行われる、私たちはその目撃者となる、という体験へと巻き込まれていくのです。


続く36節で、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」という表現には、旧約聖書の影響があると言われます。詩編において、人間は羊にたとえられます。また、例えばエゼキエル書34章などで、羊の群れとたとえられる民を当時の指導者が正しく導かなかったことが非難されています。その当時のことと重ねて、イエス様の当時のガリラヤの人々の様子を描いているとも言われるのです。この当時の人々の願いと言えば、「指導者がいないために弱り果て、打ちひしがれている弱く貧しい状態から救い出されますように」というものだったかもしれません。


そのように、彼らは、「弱り果て、打ちひしがれて」いました。これは、「弱り果てて倒れていた」とも訳される表現です。そのような状況を見て、私たちの主であるイエス様は、「深く憐れまれた」とあります。これは、単なるかわいそう、という同情を越えて、「内臓が突き動かされる」ような、痛烈な痛みを伴う同情を意味します。そしてマタイによる福音書においては、このイエス様の「憐れみ」は単なる感情に留まらず、必ず「具体的な救済の行動」へと直結していくのです。


そこで、イエス様は言われるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない」。各翻訳を比べても違いがなく、このイエス様のメッセージが非常に明確に、なおかつ明解に書かれていることがわかります。イエス様の思いが伝わってきます。私たちはこの言葉を聞きながら、単に2000年前、イエス様がこのようなことを語られたのだ、という歴史的事実を知るだけでなく、イエス様の熱い思いに触れ、現代においても、この私たちに、この「収穫は多いが、働き手が少ない」という言葉を訴えかけておられるかのように、御言葉の体験をするよう招かれているのです。


イエス様はこう続けられます。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」最後の「願いなさい」は、「祈りなさい」とも訳されます。ここに、「願い」が出てきます。私たちは、個人の悩みからくる願い、人間関係にまつわる願い、戦争が終わるように、との願いなど、諸々の願いを持ちます。私たちがイエス様を求める、と言えば、この願いを伝達するため、ということにもなるでしょう。ただ、同じ願いでも、イエス様が「このように願いなさい」ということで、私たちに教えられる願いは、同じようでいて、若干異なるようにも聞こえてきます。「収穫は多いが、働き手が少ない」という圧倒的欠乏状態を見て、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われるイエス様の目には、もちろん私たちが日常の生活の中で抱く諸々の願いも入ってはいるのですが、むしろ弱り果てて倒れ込んでいる人々に寄り添って、慰め励ます働き手が与えられるように願いなさい、ということで、私たちの視野を広げようとなさっているとも考えられるのです。私たちの、「私のいやしのために」「私が人間関係で困っているので、私がそこから助け出されるように」という、「私」という世界の中で完結してしまっている願い。「戦争が止みますように」というのはそれよりは幅が広いかと思いますけれども、それとて「それで私の日常の暮らしに支障が出ているので、私が助けられたい」という、やはり「私」という世界の中での祈りに留まっている面がないとは言えません。そのような中で、イエス様はその「私」という世界から一歩踏み出して、「あの、弱り果てて倒れ伏している人々のためには、誰が遣わされるのか。彼らのために指導者となる人々が送られていくよう、願いなさい」と言われたのです。これは、弟子たちへのイエス様の言葉でした。弟子たちが、自分たちのことでかかりきりになるのではなく、他者に目を向け、他者のために祈るようにその信仰を転換させるような言葉だったのです。これは私たちに対しても同じで、私たちの「願い」に関する考え方について、大きな示唆となります。私たちも、願いと言えば私のこと、という殻を打ち破って、他者のために祈り、願い、考える世界へと導き出されるのです。そのために、イエス様ははらわたを痛められて、深く憐れまれたのです。


私たちが目が開かれ、イエス様に導かれ、他者のために「倒れ伏している人々のために、働き人が与えられますように」と祈り願うとき、驚くべき大転換が起こります。それが、この10章1節に書かれています。弟子たちは、はらわたを痛めるほどに民に同情なさったイエス様が、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われ、そのように忠実に、共に集まって願い、祈っていたことでしょう。きっと弟子たちは、「誰かそのような民を指導しお世話をする人々が他からやって来て、その人たちがその働きを担うのだろう」と思って、願い、祈っていました。しかし、何とイエス様は、その弟子たちを「呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」のです。「権能」とは、「権威」のことです。その権威によって、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため」だったのです。これはまさに、9章35節によると、イエス様がなさっておられたことでした。それを、弟子たちがするように、イエス様は導かれたのです。ここには、「働き手を送ってください」と祈っていた人々が、イエス様によって「働き手に変えられる」という、ダイナミックな大転換が起こっていたのです。


これは、私たちにも起こりうることです。私たちが、自分のことも祈り願いますけれども、広い視野を持ち、他者のために祈り出し、「あの方々のために、慰め、励まし力づけるような働き手が与えられるように」と願うとき、何とイエス様は私たちに働いて、私たちをその人々を慰め、励ますように、遣わしてくださるのです。


そこに、日本独特の風通しの悪い人間関係に疲れ果て、倒れ伏している人がいるのです。誰かあの方のために、寄り添って力となるような人が与えられますように。どこかから、そのような人が颯爽と現れますように。見渡すと、自分に自信がなくて、いつも「私なんか、私なんか」と言って、引っ込み思案になって、生きづらくしている人たちがいる。ああ、誰かあの方たちと共に歩んで、力づけてくれる人がいたらいいのに、と願う。その時に、イエス様はむしろそのような願いを持つ私たちをその人々の所に遣わして、私たちがその人たちのよき隣人となり、共に歩む存在となるように導かれるのです。このような変化が、起こるのです。それはなぜですか。イエス様が、そのように傷つき倒れる人々のために、まさにはらわたが千切れるような、断腸の思いをして、何とかしたい、と思われるからです。だから、私たちを、その人々のもとに遣わそうとなさるのです。


最後に少し、12弟子のことについて触れて、終わりにしたいと思います。ここでイエス様は初めて、弟子たちを「使徒」と呼ばれました。「使徒」とは神様に派遣される者、という意味です。さきほど、祈りにおける大転換を見ました。「働き手が送られますように」と願う者が、実はイエス様を通して、働き手へと変えられる、ということでした。それを聞いて、恐れ多い、そのように思った方も少なくないでしょう。うっかりそのような願いをしたら、大きな働きに私も巻き込まれてしまう、という心配です。しかしここで、聖書の権威に基づいて、心配ご無用、とお伝えしたいと思います。これは、神様とイエス様による派遣です。しかも、イエス様は弟子たちを派遣するとき、派遣されてその働きができるための力と権能をお授けになっておられました。神様の側でよく準備をしてくださり、必要な力をお与えくださって、派遣してくださるのです。神様からの派遣ですから、責任は神様がとってくださいますから、安心していただければと思います。


この12使徒の中で、筆頭として挙げられているのがガリラヤの漁師たちだった、ということや、最後ではあるけれども、イスカリオテのユダについて、「イエスを裏切った」と明記したうえでリストに入れているとか、このリストには首をかしげてしまうような点がいくつかあることは、既に皆さんお気づきのことでしょう。それに加えて今日は、あと2人のことについて、触れたいと思います。それは、徴税人のマタイと、熱心党のシモンのことです。徴税人のマタイに関しては、先週触れました。熱心党のシモンは、ペトロと呼ばれるシモンもいるので、区別するために、熱心党の、と言われているわけですが、それだけでなく、これは彼の人物像をも描き出しています。熱心党とは、当時ローマの支配下に置かれていたユダヤを解放するために、武力をも辞さないような反体制派、過激派であったのです。そうすると、当然徴税人のマタイとは、本来だったら摩擦が起こったはずです。なぜなら、徴税人とは、その当時「ローマに魂を売った」と思われるように、ローマの手先となって、ユダヤで徴収した税を、ローマに渡していた人々だったからです。ですから、この12使徒の人選は波乱含みのものだった、ということがわかります。本当だったら、血で血を洗うような対立が起こっても不思議でないところ、様々な人々の寄せ集めであったこの12使徒の集団が、イエス様のはらわた痛めるほどの民への思いを一身に受け、「自分の願い」という枠から一歩抜け出て、他者のために願い、そしてそれだけでなく、実際に遣わされて行って、病をいやし、悪霊を追い出していく。これはある意味で、奇跡といってもいいほどでした。


このような奇跡を、創立70周年を迎えた、ここ御影ルーテル教会でも、イエス様は起こしてくださいます。まず、日常の暮らしについて、様々な具体的な必要を覚え、願いを持つ私たちが、勿論それらを持ったままで、さらに一歩歩みを進め、この世界で、この日本で、それぞれお住まいの地域で様々な必要を抱えた人々について、「この方々が幸せであったら」と願い、さらにその幸せの実現のため、何と私たちが神様からの力を受けて、派遣されていき、良き隣人となって寄り添い、力となっていく。私たちはお互い違うのですが、教会において一致して、同じ思いとなり、このようにしていくのです。このような麗しい光景が、そして奇跡が、そこここで見られるようになるのです。その背後に、イエス様がはらわた痛めてまで、人々をいつくしみ、「彼らが幸せであれ」と願われる、そのイエス様の強い願いがあります。様々な願いを持つ私たちが、その「願い」という共通項で結ばれ、イエス様の願いを私たちの願いとし、イエス様の派遣を受けて、この世において人々を慰め、励ます存在として遣わされていく。そのために必要な力は、すべてイエス様がご用意くださっています。私たちが、一言の慰めの言葉を言うことができるように。私たちが、困っている人に、さっと手を差し伸べることができるように。そのために、私たちの存在があります。かつて預言者イザヤが、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と願ったように、私たちも「ここに私がいます。どうぞ私をお遣わしください」と願い、一歩踏み出すことができますように。


お祈りいたしましょう。

天の父なる神様、この聖霊降臨後第三主日、主イエスの深い憐れみに触れさせてくださり感謝します。

私たちは自らの願いを抱いて祈りますが、主よ、今私たちの目を「飼い主のいない羊のように弱り果て、倒れ伏している」他者へと向けさせてください。はらわたを痛めて彼らをいつくしまれるイエス様の強い願いを、私たちの願いへと変えてください。

「働き手を送ってください」と祈る私たちを、あなたが必要な権能で満たし、良き隣人として遣わしてくださる大転換を信じます。創立七十周年を迎えた御影ルーテル教会が、違いを越えて一つとなり、歩み出せますように。

「ここに私がいます。どうぞ私をお遣わしください」と願う一人ひとりを、お導きください。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。


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