top of page

2026年8月23日 聖霊降臨後第13主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 8月23日
  • 読了時間: 14分

聖書交読 イザヤ51章1~6節(旧約p1146)

司)51:1 わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。

会)51:2 あなたたちの父アブラハム/あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした。

司)51:3 主はシオンを慰め/そのすべての廃虚を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。

会)51:4 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。

司)51:5 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき/わたしの腕を待ち望む。

全)51:6 天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。


聖書朗読 マタイ16章13~20節(新約p31)

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。


本日の説教より 「幸いだと言われる人生」


説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


礼拝説教「幸いだと言われる人生」

まだまだ暑さの続く毎日ですが、皆さんお変わりないでしょうか。ご存じのように、8月13日に千葉を中心に大雨の被害があり、続けて21日も、同じような地域でまた道路が冠水するほどの大雨が降ったようです。近年の暑さの厳しさだけでなく、災害の激化が指摘される中、私たちは一瞬にしてそのような大きな被害をもたらす自然の脅威をまた感じるものです。

 

人生何が起こるかわからない、といった不安の中で、私たちは、これまで私たちが「幸いだ」と思っていたことが、一瞬にして崩れ去ることを目の当たりにしてきました。そのような中では、もはや私たちの思う幸い、といった不確かなものに頼ることはできません。本当の幸い、確かな幸いというものを私たちは必要としているのです。本日の聖書箇所では、イエス様ご自身が、「あなたは幸いだ」と言ってくださっている言葉があります。それを頼りに、本当の幸いについて、思いをはせてまいりましょう。

 

まず、ざっと先週の福音書の箇所から本日の箇所までの流れを確認しておきましょう。先週は、下山主事の説教でした。新共同訳にある便利な小見出しによると、15章21節から28節の「カナンの女の信仰」という箇所で、諦めずに願い続け、最後には「あなたの信仰は立派だ」と言われた女性の姿に触れてまいりました。

 

それ以降はと申しますと、15章の終わりに「大勢の病人をいやす」と「四千人に食べ物を与える」という、イエス様の奇跡を記すエピソードがあって、本日の16章に入ります。まずは小見出しで言うと「人々はしるしをほしがる」という箇所があり、そこでイエス様はしるしをほしがる人々に対して、「ヨナのしるしの他にしるしは与えられない」とおっしゃっておられます。イエス様がメシアであることの証拠となる奇跡は、ヨナが三日三晩魚の腹の中にいたことしか与えられていない、ということでした。ヨナに起こった出来事は、のちに起こる、イエス様が十字架のあと、復活の時まで三日三晩大地の中にとどまるようになる、ということを暗示する出来事でした。それで、イエス様はそれを「ヨナのしるし」とお呼びになったのです。それをもって、しるしを見なければ信じない、といった人々の誤った姿勢を、イエス様は批判しておられます。

 

続いて「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」という小見出しの部分があり、ファリサイ派という主として信徒たちの集団と、サドカイ派という、主に祭司、すなわち職業的宗教者たちが、立場がだいぶ異なるにもかかわらず、イエス様に反対する、という点で一致している危険性が指摘されていました。そして、彼らの教えに注意すべきことを、イエス様は教えておられます。

 

そのような奇跡や教えを経て、今日の箇所、「ペトロ、信仰を言い表す」という部分に入るのです。ちなみに、続きは「イエス、死と復活を予告する」という小見出しの部分で、これは来週の説教の箇所となります。

 

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子

のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

 

イエス様は、「フィリポ・カイサリア地方」に行かれました。これは、イエス様がお生まれ当時のヘロデ大王の子である領主、フィリポがローマ皇帝アウグストゥスのために整備した異教都市だったと言われます。異教と申しますのは、異教の神パンの聖所があったからです。当時の権力としての皇帝、そして異教の神々という、いずれもイエス様を信じる妨げとなるような勢力の渦巻く環境で、ペトロはその信仰を言い表すことになったのです。

 

そこで、イエス様は弟子たちにお尋ねになります。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。この場合の「人の子」は、他の誰でもなく、イエス様ご自身のことであるわけですが、それだけでなく、「人の子」が、もともとダニエル書7章の、終末的文脈の中で言われていた言葉であるだけに、この場合にも終末的響きがあった、ということを指摘しておきたいと思います。

 

16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

 

弟子たちは、周囲にいた群衆たちなどからすでに聞いていたのでしょう、「洗礼者ヨハネ」あるいは「エリヤ」という答えをイエス様に伝えます。この辺りは私たちも何となく聖書を読んでいれば浮かんでくる名前です。ただ、マタイによる福音書では、ここに「エレミヤ」を入れているのが特徴です。マタイは、エレミヤに対して強い関心を示していたのかもしれません。エリヤと、最後の「預言者の一人」などは、終末に先立って現れると期待されていた人々でした。13節の「人の子」を含め、ここには強い終末への意識がある、と言っても過言ではないでしょう。

 

16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 

イエス様は質問を変えられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。他の人はいい。むしろ「あなたがたは」と、弟子たちに尋ねていることを強調し、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と鋭くイエス様は弟子たちに問いかけておられます。

 

人が何か噂していることを耳にして、それを告げるのはそう難しいことではありません。第三者的で、距離感もあり、言いやすいものです。しかし、「あなたがたは」あるいは「あなたは」と言われて、問われるのは心にぐっと来て、なかなか答えるのが難しいものです。「教会について、周りの人は何と言っていますか」には簡単に答えられても、「では、あなたはどう思いますか」と聞かれたら、言葉に詰まることが多いのではないでしょうか。

 

16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

 

その中でも、ペトロはよく勇気を出して、答えたものです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。これは、あとのイエス様の言葉からしても、恐らく満点に近い返答だったのではないでしょうか。ここには2つの信仰が含まれています。まずは、イエス様、あなたはメシア、すなわち救い主です、という個人的な信仰です。そして、もうひとつは、あなたは、生ける神の子です、という信仰の告白です。「生ける神の子」とは、もちろん「生きている神の子」ということです。死んでから崇め奉られる神ではなく、今生きて働いておられる神である、という信仰が、ここには見られるのです。

 

16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

 

イエス様のお答えの冒頭にある「シモン・バルヨナ」は、感嘆符でも特別な言葉でもなく、人名であって、訳して言えば、「シモン・ヨナの子」という意味です。語順を整えれば、「ヨナの子シモン」ということで、これはイエス様の、ペトロに対する呼びかけです。そしてそのヨナの子シモンに、「あなたは幸いだ」と言われるのです。

 

ここで、主語が「あなたがた」から「あなた」に変わっていることに気付かれましたでしょうか。もちろんみんなで一緒に信じるのではありますが、だからと言って誰かの信仰に乗っかる、というのではなく、私が個人でイエス様の前に出て、信じます、と告白する、ということの大事さが、ここに表れています。ですから、説教の前に信仰告白として読まれた使徒信条も、「われは」と信仰を告白しているのです。これからも、慣れによって早口で一気に唱えてしまうのではなく、ゆっくりと、吟味して、告白してまいりましょう。

 

ここに、私たちの本当の幸いの土台があります。私たちが、自分で幸いだと思う、ということを越えて、イエス様に「あなたは幸いだ」と言っていただく、このことに、本当の幸いを見いだすのです。もちろん、この「幸いだ」という言葉が、同じマタイによる福音書5章にある山上の説教におけるイエス様の「幸いである」という言葉のエコーであることは、言うまでもありません。

 

イエス様はここでどうしてペトロに対して「あなたは幸いだ」と言われたか。それを、イエス様は「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と表明しておられます。自分でつかんだのではない。外側から、天の父なる神様から教えられて、イエス様を生ける神の子であるメシアと告白できたのだから、あなたは幸いだ、ということです。

 

これは私たちの受ける本当の幸いにも直接関係してきます。いみじくも今、「私たちの『受ける』と申し上げました通り、この幸いは、私が見出して、私が手を伸ばしてつかみ取る幸せではありません。そのようなものは、大雨によって流され、地が揺るがされることによって、崩れ去ってしまうでしょう。私たちは、私たちの外側から、天の父なる神様によって教えられて、天の父なる神様が現わしてくださる真理を知り、それによって幸いを得るのです。天の父なる神様こそが、私たちに、イエス様が今も生きておられる神の子、救い主であることを明らかにしてくださいます。このイエス様は、過去の方ではありません。今も生きておられ、大雨の中にも、地の揺れ動く中でも私たちを見捨てず、私たちのすぐそばにいてくださる方です。そして、私たちが救いを求めて叫び声をあげる時に、すぐそばでそれを受け止めてくださり、私たちを苦難から救い出し、やがては私たちを、何の苦しみも悲しみもない天の住まいへと招いてくださるのです。なぜなら、私たちの本国、国籍は天にあるからです。

 

16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

 

ここでイエス様は、ヨナの子シモンを「ペトロ」と名づけておられます。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われますが、この中にある「岩」ということばで、本日の聖書日課の旧約聖書の箇所、交読文で呼んだイザヤ書の箇所ですが、そことの共通点が見出されます。そちらでは、「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ」(イザヤ51:1)と言われ、アブラハムが想定されていました。信仰の源流を岩と表現し、アブラハムを想起させることで、苦難の中にある民に神の救いと再建の約束を思い起こさせていました。この箇所では、ペトロ本人、あるいはその堅固な信仰告白を岩と見立て、それが源流となって、そこから救いの業が広がっていくことを表現している、と言われます。

 

「陰府の力もこれに対抗できない」と言われるほどの力は、教会に与えられています。創立70周年を迎える御影ルーテル教会には、今の姿がたとえどのように見えても、どのように評価されようと、恐ろしい死の力であっても太刀打ちできないような力が神様によって与えられており、支えられているのです。

 

16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 

ここでは、わかりにくいのですが、「つなぐ」ことはいいことのように見えますけれども、これはあくまで2000年前の、当時のユダヤにおける教師たちの法的な専門用語であって、ごく単純化して言うと、「つなぐ」という方が「禁じる」ことで、「解く」方が「赦す」ことであることに注意をしておきましょう。ここでは、そのぐらい、教会の権威は重大なものである、ということだけ、理解しておけば十分かと思います。

 

16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 

最後、20節では、「メシアの秘密」とも呼ばれる、イエス様がご自分がメシアであることを他に知らせないように命じるという、不思議な教えが述べられます。ここもまた理解が難しいですが、それだけイエス様が、ご自身がメシアであることを大切にしておられた、安売りしようと思っておられなかった、ということが理解できれば、それで十分でしょう。冒頭に、この箇所の次にイエス様の十字架と復活の予告がある、とお話ししました。もちろん、それは来週の説教の箇所なので、来週詳しくお話しするのですが、考えてみれば、これからメシアの十字架と復活という大事なことを教えようとしておられるのに、その前に、勝手に様々なメシア理解が広まってしまっては、イエス様としては教えにくいわけです。だから、イエス様は、ご自分がメシアであることを話さないように、と弟子たちに命じられたのです。

 

今日は、本当の幸いについて、それは自らが見出し、手を伸ばして掴むようなものではなく、私たちの外側から与えられるものだ、とお話ししました。イエス様の方から、私たちに「あなたは幸いだ」と言ってくださる。天の父なる神様も、私たちにイエス様がメシアであることを示してくださり、それによって私たちは目を開かれ、イエス様がメシアであることを知り、その幸いに与ることができるのです。

 

この幸いは、具体的に、イエス様に対する評価、ということからもうかがい知ることができます。私たちは、周囲からの評価、というものを、やはりどことなく気にしながら、生きています。それによって、幸いを覚えたり、その逆であったりするものです。人からどう思われているか。そのような目から完全に解放されて生きることは、この地上では無理であるのかもしれません。しかし、その一方で、ではその、周囲からの評価は正しいのか、と言うと、どうでしたでしょうか。イエス様に対する評価でさえ、正しくはありませんでした。イエス様が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという事実があるにもかかわらず、イエス様のことを「洗礼者ヨハネだ」と思っている人がいたのです。人からの評価は実に不確かです。それに幸いかどうかの根拠を見出していては、私たちは上がったり下がったりで、右往左往しなければなりません。周りから評価されているようだと思えば有頂天になり、どうも思ったほどの評価を受けていないようだ、となれば気落ちする。そのような、浮き沈みの多い、エレベーター、あるいはジェットコースターのような人生では、気も休まりません。私たちは、周りからの評価を、自分の幸いの根拠にしないようにすべきです。それを決意させるのは、イエス様の「あなたは幸いだ」という御声です。それは、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と言われた時の「幸い」であり、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と言われた時の「幸い」でした。人からの評価が気になって心悩む、心貧しき私たちが、天の国が私たちのものだ、ということを神様から教えられて、幸いを覚える。また、評価につきまとわれる人生において悲しみを感じる時に、神様からの慰めをいただいて、本当の幸いに気付く。そのように、私たちには、イエス様から「あなたは幸いだ」と言っていただける人生が、目の前に開けているのです。

 


天の父なる神様、私たちは、人からどう思われているかを気にし、その評価によって喜んだり、落ち込んだりしながら歩んでいます。しかし、人の評価は不確かであり、それを幸いの根拠とするなら、私たちの心はいつまでも落ち着きません。どうか私たちに、イエス様の「あなたは幸いだ」という御声を聞かせてください。私たちが自分の力で幸いをつかもうとするのではなく、あなたが与えてくださる幸いを受け取ることができますように。心の貧しさを覚える時にも、悲しむ時にも、天の国とあなたの慰めが私たちに与えられていることを覚えさせてください。そして、周囲の評価に左右されることなく、メシアであるイエス様を信じて歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



コメント


御影ルーテル教会

658-0047 神戸市東灘区御影3-10-5

tel: 0788420446

©2022 by 御影ルーテル教会  Wix.com で作成されました。

bottom of page