2026年8月9日 聖霊降臨後第11主日
- 明裕 橘内
- 8月9日
- 読了時間: 15分
聖書交読 詩編85編9~14節(旧約p922)
司)85:9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
会)85:10 主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
司)85:11 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
会)85:12 まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
司)85:13 主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。
全)85:14 正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。
聖書朗読 マタイ14章22~33節(新約p28)
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
説教 「安心できる毎日」
説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
たいへんな暑さが続いていますが、皆さんよくお越しくださいました。7月28日に発生した熊本地震では、いまだに多くの人々が、この厳しい暑さの中、避難を続けておられます。この地域も震災を経験していますから、その苦しみや不安を、決して他人事とは思えません。あの時のことを思い出して、地震の恐怖がよみがえることもあるでしょう。また、いつこの地域に、南海トラフなど、大きな地震が起こるかわからないと思うと、不安になることもあります。
不安なのは地震だけではありません。この暑さはいったいいつまで続くのか。この暑さに、私たちはいつまで耐えられるのだろうか。健康のこと、家族のこと、これからの暮らしのこと。わたしたちは、様々な不安や恐れを抱えて日々を過ごしているものです。
そのような私たちの目の前に、聖書日課における福音書の箇所が開かれています。ここには、恐怖に直面したイエス様の弟子たちの姿が描かれています。
今日の福音書の箇所は、先週の「五千人に食べ物を与える」という出来事の続きです。何もないような辺鄙な場所で、弟子たちがイエス様に差し出したのは、わずか五つのパンと二匹の魚だけでした。しかし、それをイエス様のもとに隠さずに差し出し、イエス様がそれを感謝して受け取って天を見上げ、賛美の祈りをしたときに、それらは増えて、男性だけで5000人、男女、そして子供も合わせたら恐らく1万人以上の人々を満腹させた、というイエス様の奇跡が描かれていました。それを読みながら、今回の熊本地震の被災地の避難しておられる方々のことも、イエス様が満たしてくださることを願ったのでした。
マルコによる福音書でも、またヨハネによる福音書でも、この五千人以上の人々に食べ物を与えるという圧倒的な輝かしい奇跡のあと、この湖の上での出来事が語られています。向かい風のために漕ぎあぐねて、悩まされるのです。このことは、大きな恵みをいただいたからといって、その後の人生に逆風がなくなるわけではない、ということを示しています。輝かしい奇跡のあとに、向かい風が来るのです。これは、私たちの人生も同じです。うまくいっていると思った矢先に、困難が待ち受けている。このような経験を、私たちは何度もしてきました。
今日の箇所の概観を先に述べますと、まず「すぐ」あるいは「すぐに」ということばが何回も用いられていることがわかります。すべてイエス様の行動に結びつけられていますが、私たちの苦難に対するイエス様の迅速な対応が描かれています。また、この物語の舞台として、「舟」という言葉が5回用いられています。今日開いている福音書の出来事は、そのほとんどが、揺るがない地面の上で起こったのではなく、波に揺れる湖の上で起こったのでした。また、「歩く」という言葉が4回、イエス様が湖の上を歩かれた、またペトロも湖の上を歩いた、という文脈で出てきます。それが、この物語の中で大きな役割を演じていることがわかります。
それでは、本日の内容を少しずつひも解いてまいりましょう。
まず14章の22節ですが、さきほど触れましたように、イエス様が「すぐに」、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせられたことが述べられています。五千人以上の人々を満たしたあと、その地に留まって雑談をして、というのではなく、その奇跡の余韻に浸る間もなく、イエス様はすぐに、しかも強いて、弟子たちを向こう岸へと行かせようとするのです。弟子たちは、もっとその奇跡の余韻に浸っていたかったのではないでしょうか。お互い、「あの奇跡はすごかったね」と語り合いたかったのではないでしょうか。あるいは、群衆からもっと、「あなたがたの先生はすごいですね」という言葉、あるいはその先生に従っている弟子たち自身が「よくやってますね」と褒められる言葉を聞きたかったかもしれません。しかし、イエス様は、「向こう岸へ行かせる」のです。
何かと苦労の多い人生にあっても、ときにはわれながらうまくいった、という瞬間があるものです。神様に感謝します。そのようなときは、大抵私たちはそこに留まりたいのです。その成功の余韻に浸っていたい。もう少し、その体験に安住していたいのです。しかし、イエス様はすぐに気持ちを切り替えるように私たちを促します。イエス様は私たちを、恵みの場所にとどめるだけではなく、次の歩みへと導かれるのです。すぐに、強いてでも、向こう岸へと私たちを行かせようとなさるのです。
イエス様は、ご自身のもとに人を残されることもなさいませんでした。彼らを解散させたのです。そして、何をなさったのか。イエス様は、「祈るためにひとり山にお登りになった」のです。ここに、なぜイエス様が弟子たちをすぐにも向こう岸へ行かせ、群衆をも解散させたのかの理由が示されています。イエス様は、ひとりになりたかったのです。ただひとりになりたかっただけではない。それは、父なる神様との交わりを持つためでした。親しい弟子たちからも、またご自分を慕う大勢の群衆からも離れて、ひとりになって、ゆっくりと、じっくりと、イエス様はご自身の父である方と一対一の交わりを持とうとなさったのです。大きな奇跡のあとだからこそ、それは必要だったのではないでしょうか。地上において、父なる方から遠く離れて過ごすためには、この交わりは欠くことができなかったのです。そのように、イエス様はひとり、祈りのために、それによって父なる神様と交流を持つために、山に退かれたのです。これは私たちの歩みに、大きな示唆を与えます。交わりは重要です。それが私たちを生かす面もある。しかし、私たちがそれぞれひとりになる、静まる時も重要だ、ということなのです。私たちは、どれだけそのような静かな一人の時を持っているでしょうか。私たちの毎日は、喧騒に満ちた毎日でしょうか、それとも、静かなる神様との交わりのときでしょうか。
イエス様が父なる神様との静かな交わりの時を持つ一方で、弟子たちは湖の上で苦労しています。「舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」とあります。5000人以上が満たされた奇跡があっても、なおそのあとで、逆風が吹くのです。私たちの人生において、もちろん神様のおかげで、順風満帆、何事もうまくいっている、という日々があったとしても、それはそれ以降ずっとそういう毎日が続く、ということの保障にはなりません。大きな奇跡を体験した弟子たちにも、その直後と言ってもいいようなタイミングで、逆風が吹くのです。向かい風に苦しめられるのです。
この辺りはどうかわかりませんが、高校の頃、故郷の福島で、この向かい風に悩まされました。高校から自転車通学で、朝は方角的に西の方向に向かって行くのですが、冬の時期はちょうど、その西の方から、地元ではシベリアおろしと呼ぶほどの冷たい向かい風が吹き、自転車が前に進まない、などと言うことは日常茶飯事でした。私の気の持ちようがどうとか、そういったことに関係なく、向こうが、圧倒的な力で押してくるのです。自然の力にはあらがうことができない、ということを痛感した日々でした。この出来事における弟子たちの苦労がよくわかります。
彼らは悩んでいたのです。ちっとも前に進まない。私たちも、人生の向かい風の中で、逆風にさらされて、悩むのです。努力しているのに前に進めない。祈っているのに状況が変わらない。自分ではどうしようもない力に押し戻されているように感じることがあるのです。
しかし、その時、弟子たちが知らなかったことがありました。彼らが湖の上で苦しんでいた時、イエス様は彼らを見捨てておられなかった、ということです。
夜が明ける頃になって、イエス様は「湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」とあります。25節です。今頃、と思われるでしょうか。でも、イエス様の「時」、というものがあったのです。
イエス様としては、マルコによる福音書によれば「通り過ぎるおつもりだった」とありますが、漕ぎあぐねる弟子たちを助けるために近づかれた、という目的もあったでしょう。いずれにせよ、ここには、自然を支配する主としてのイエス様のお姿が示されています。しかし、このことは弟子たちにとっては、恐怖の体験でしかありませんでした。誰かわからないけど、湖の上を歩いている!それは、きっと幽霊に違いない、という認識でした。それで、「『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」とあります(26節)。
落ち着いた、安心できる場所でこの福音書の箇所を読む私たちには、この時の弟子たちの恐怖心というものは完全に理解できないのでしょう。「イエス様なんだから、湖の上だって歩けるはずではないか」と言うのは、のちの時代の人が言う言葉です。弟子たちには、イエス様が近くに来られているのに、それがイエス様に見えなかった、それが恐怖だったのです。
私たちにも、イエス様の助けがすぐそこにあるのに、それがイエス様の助けのようには見えない、ということがあるのではないでしょうか。暗がりで倒れてしまって動けなくなっているとき、人影が見えて、それが近づいて来る。どうしよう、何かされる、と恐れたら、助けに来てくれた人だった。もっとあり得るのは、暗がりで急に声をかけられた。びっくりして立ち止まったら、「暗いですけど大丈夫ですか」と気遣って声をかけてくださっただけだった、などと言い換えたら、弟子たちの体験に近いかもしれません。
私たちが知っておかなければならないのは、イエス様の助けが、いかにもイエス様の助け、という感じではこないこともある、ということです。だから、私たちは自分たちの感覚ではなく、イエス様の声を大事にするのです。27節を見てみましょう。
先ほどまで幽霊かと思っていたのが、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という言葉が聞こえて、イエス様だ、ということがわかるのです。冒頭で、恐れや不安を抱く私たち、と述べましたが、その私たちに、イエス様は優しく、「安心しなさい」と声をかけてくださいます。そして、まことに恐れやすい私たちだからこそ、それを知って、「恐れることはない」と言ってくださるのです。
「安心しなさい」も「恐れることはない」も命令ではありますが、だからと言って、私たちの重荷となる「律法」、というわけではありません。私たちが、イエス様がおられるので安心できる、ということ、恐れる必要がない、と知ることが、まさに本日の説教題にあるように、「安心できる毎日」につながるのです。ですから、むしろこれは、恐れを抱きやすい私たちにとって、福音、すなわち良い知らせであるのです。
物語はこれで終わりません。マタイにしかないので追加のエピソードのようにも見えますが、ここから大事な、ペトロが水の上を歩くエピソードに入ります。本日のテーマの「恐れない」ということを物語る、大事なエピソードです。
28節の「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」というのは、まことにペトロらしい、ペトロならいかにも言いそうな提案です。皆さんだったらどうでしょうか。
私たちは、この通り、「水の上を歩かせてください」のような言葉は言いません。そうなのですが、では果たして、私だったらペトロのようなことは言いません、と言い切れるでしょうか。
ここでは、このペトロのイエス様に対するリクエストが、本当の信仰から出ているものではないかもしれない、という読み方を前提としています。確かに、信仰的には見える言葉です。しかし、やや、主を試しているようにも聞こえてきます。そもそも、本当にイエス様がおられるのに、「もしあなたでしたら」というように言っていることが、少し引っかかるのです。このとき、ペトロがそそっかしく、よく考えないで先走って、イエス様を試すようなことを言っているように思えてしまうのです。皆さんはどう思われるでしょうか。
私たちは、繰り返しになりますが、ペトロとまったく同じようなことは言わないでしょう。しかし、「普段は何も準備していないけれども、明日だけは何とかしてください」であるとか、「普段健康のことは気にしてないけど、明日の健康診断は良い結果となりますように」とか、もしそのような願いを持つとしたら、私たちもペトロと、それほど違わないのではないでしょうか。
それはともかく、物語の展開を追って行くと、驚くべきことが起こります。イエス様が「来なさい」と言われるので、思い切って舟から出て湖の上に一歩踏み出すと、何と、ペトロは水の上を歩くのです。イエス様だからこそ、浅はかな願いのように見えたとしても、この願いを実現させてくださったのです。人は往々にして、何を願っているかわからないものです。それなのに、イエス様はかなえてくださる。その恵みを、ここで見るのです。
しかし、そこで終わらないのがいかにも聖書らしいところです。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」(30節)。新改訳2017では、「強風を見て怖くなり」と訳されています。ペトロは恐れたのです。この時、イエス様なら大丈夫、という信仰よりも、強風の方が目に入って、それに気づいたばっかりに、怖くなってしまったのです。イエス様が水の上を歩かせてくださった、その奇跡、その恵みを体験してもなお、人は恐れる。そのことを、この出来事はありありと描き出しています。
このときの「主よ、助けてください」という祈りは、咄嗟のものではありますけれども、本当にペトロの心の底から出た、真の祈りだった、と言えないでしょうか。それに比べれば、先ほどの「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」という28節の祈りには切迫感がありません。意図せずして、ペトロは「主よ、助けてください」という、切迫感のある、心からの祈りをするような場面に、導かれていったのです。私たちも、同じように祈ることがあるでしょう。「主よ、助けてください」。このような短い祈りしか、口から出ないこともある。しかし、その短い祈りをも、主は聞いてくださるのです。
イエス様の対応は迅速でした。最初に触れたように、イエス様は「すぐに」動かれます。これは私たちにとっても希望となるのではないでしょうか。すぐに手を伸ばされたイエス様はペトロを捕まえ、こう言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。これは、信仰がゼロだった、という意味ではありません。あったのだけれども、薄かった、ということです。先ほどの「水の上を歩かせてください」という願いの背後にも、ペトロの中のいくらかの信仰は働いていた、とイエス様は認めてくださっているのです。
32節では、「二人が舟に乗り込むと、風は静まった」とあります。恐れと不安から解放され、平穏な時が訪れ、安心できる毎日となることが、ここで「風は静まった」という表現によって暗示されています。今年の御言葉は、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」というフィリピの信徒への手紙4章6節の御言葉ですが、まさに思い煩いを主にゆだね、平安を得た心が、この「風は静まった」という表現からもうかがい知ることができるように思います。恐れから解放され、思い煩いからも解放されて、安心できる毎日へ。イエス様はそのような日々へと、私たちを招いてくださるのです。
最後、33節に、「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」とありますが、これはペトロも言った言葉なのでしょうか。そうであってほしいと思います。人は奇跡の喜びのあと、向かい風の苦しみを経験し、神様の助けがそのように見えない恐怖を経て、風を見て恐怖して溺れそうになるような経験を越えて、「イエス様、あなたは本当に、神の子です」という信仰告白に至るのです。今、色々な悩み苦しみがあることは、悪いことではありません。もちろんそれはつらいのですが、そして、なければいい、と思うものなのですが、そのような逆境を通してしか育たないものがあるのです。それは、イエス様を神様の子として信じる揺るがない信仰です。
私たちの毎日にも、困難の逆風、向かい風が吹くことがあります。それで、進もうにも進めないことが起きてくるのです。しかし、その逆風の中にも、イエス様は共にいてくださいます。助けが私の望んだ助けのように見えないときにも、主の声に耳を傾けましょう。そして、沈みそうになったなら、「主よ、助けてください」と叫べばよいのです。イエス様は、必ず手を伸ばしてくださいます。だから、家庭で、職場で、学校で、不安がよみがえるようなことがあっても、今日も恐れず、主と共に歩んでまいりましょう。主が共におられる毎日。それこそ、私たちにとって、安心できる毎日なのです。
お祈りいたしましょう。
主イエス様、あなたのお名前を賛美します。私たちは、うまくいっているときにも、逆風の中にいるときにも、不安や恐れを抱いてしまいます。あなたの助けがすぐ近くにあっても、それを助けとして受け取れないことがあります。また、ペトロのように、そそっかしく、自分勝手な願いをあなたに申し上げることもあります。それでも、私たちが「主よ、助けてください」と叫ぶとき、すぐに手を伸ばしてくださるあなたを信頼します。強い風ではなく、あなたの声に耳を傾け、思い煩いをあなたにゆだねることができますように。どのような逆境の中でも、あなたが共にいてくださることを知り、「本当に、あなたは神の子です」と告白する信仰へと導いてください。私たちに安心できる毎日を与えてください。イエス様のお名前によって。アーメン。
報告
・来週礼拝後、新約聖書の学びがあります。




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