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2026年9月6日 聖霊降臨後第15主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 20 時間前
  • 読了時間: 12分

聖書交読 エゼキエル33章7~11節(旧約p1350)

司)33:7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。

会)33:8 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。

司)33:9 しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。

会)33:10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

全)33:11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

 

聖書朗読 マタイ18章15~20節(新約p35)

18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

説教 「イエス様が共におられること」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

皆さん、おはようございます。9月第一週の主日を迎えました。先週は祝福のうちに、チャリティーピアノコンサートが開催されました。皆さんのご参加とおささげものに感謝いたします。9月に入りまして、来月の予算総会、11月23日の創立70周年記念式典の準備と、教会の動きは慌ただしくなりつつあります。もう少しすると、まだ今は暑い時期ですが、クリスマスのことも視野に入れて準備が始まります。以前、教会はどんなところか、ということを少しお話ししたことがありました。教会は体育館のようなところか、病院のようなところか。今年の御言葉にあるように、「思い煩うのはやめなさい」との勧めに応じて、思い煩いを一切イエス様のもとにおいて、安らぎを得るのが教会です。先週のチャリティーピアノコンサートでも、皆さんで一緒に、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とのイエス様の言葉を、声に出して読みました。マタイ11章28節の有名なイエス様の御言葉です。そのように、イエス様は「休ませてあげよう」と招いておられます。そのような教会の姿を思い浮かべながらも、具体的な会議や集会のために準備も欠かせない、というのが実情です。教会の中でも忙しさを感じてしまうような中で、その忙しさのあまりに、もし人間関係にほころびができるようなことがあったとしたら、私たちはどのようなところに立ち帰る必要があるのか。そのことを、本日の聖書の箇所は語っています。

 

福音書の言葉の前提として、本日の交読文は聖書日課の旧約聖書の箇所だったのですが、そこでは、「むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」という、究極的な主なる神様の赦しの御心が鮮やかに記されていました。本日の福音書の箇所も、教会内での兄弟の罪、ということが語られていても、その罪の赦しを主眼として書かれている、という前提に立ちたいと思います。

 

それは、マタイによる福音書18章の、本日の聖書箇所の前後の文脈からもわかります。直前の、新共同訳の小見出しで言うと「迷い出た羊」のたとえにおいて、明確にイエス様は、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と語られ、罪人の赦しが大事にされていました。本日の箇所の直後である「仲間を赦さない家来」のたとえでも、大事にされていたことは、罪の赦しでした。

 

本日の箇所は、「兄弟の忠告」という小見出しのつけられた部分で、冒頭に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とありますから、兄弟の罪について語られていることは確かなのです。しかも、続いて、そのような場合には「行って二人だけのところで忠告しなさい」という具体的なアドバイスがありますから、つい私たちの目はそのような部分に行ってしまって、このところが教会におけるトラブルを取り扱うノウハウが書かれているように受け取りがちです。実際、そのような観点でこの部分を精査し、教会戒規、戒律の「戒」と規則の「規」ですけれども、そのように呼ばれるものを整備している教会もあります。実際、昨年だったでしょうか、いつも神戸ルーテル神学校と神戸改革派神学校の合同のシンポジウムが11月頃あるのですけれども、その時のテーマは「教会戒規」のようなものだったと聞いております。基本的にはカルヴァンの流れの改革派の方がそのような点に力を入れているのですけれども、それがいいか悪いか、ということではなく、そのようにこの箇所を読むこともできる、ということです。

 

ただし、そのようにこの箇所を読んで、積極的に前向きに教会に取り入れていこう、という動きばかりではなく、むしろこのような部分を読むと心を痛めると言うか、過去の経験による心の傷とか、そういったことによって、積極的に向き合えない、という思いの方もおられると思うのです。そうすると、大事な福音書の御言葉であっても、目を伏せてしまうと言うのか、ここから大事なメッセージを受け取ることなく素通りしてしまう、ということもあって、それはそれで、もったいないことのようにも思えます。

 

実は、聖書を「律法と福音」を区別して読もうと心がけているルーテル教会において、この箇所は、その律法と福音という区分けが鮮やかである箇所である、と言うことができます。15節から17節は、読むと心刺されるような、ハッとするような部分で、罪が指摘されている部分であり、「律法」であると受け取られます。それに対し、18節から20節は、イエス様の約束が述べられる福音の部分であり、私たちはその部分を読んで、「ほっとする」ことができるのです。律法と福音の区別、と言うのは、そのように、そんなに難しいことではありません。聖書の中には、そのようにハッとさせられる部分と、ほっとする部分がある、ということなのです。そして、それが本日の箇所に、はっきりと見られる、ということです。

 

15節の、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」というのは、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と語る後半の方に力点が置かれていることは間違いありません。この部分全体が、罪を犯した兄弟を排斥するために書かれているのではなく、あくまで兄弟を得ることを目的として書かれている、ということができます。しかも、まず「二人だけのところで」と言うのも大事で、何でも暴き立てる傾向の昨今の日本のメディアとは逆に、ひっそりと、誰もいないところで、二人だけで話す、というのは、「暴き立てない」という愛の配慮でもあるのです。

 

具体的なことでは、教会の忙しさの中でギスギスしてきてしまって、誰かに私が何か言われてしまった。そんなことが起こるのでしょうか?想像しにくいですが、聖書の中にもヒントがあります。祈祷会で今、ヨブ記を読んでいます。その中には、苦難を受けるヨブのために友人たちがやってくるのですが、慰めるどころか、古い因果応報の考え方に囚われていて、ヨブを非難する言葉を言ったりしているのです。昨日の箇所では、「あなたの節はわたしに対する非難と聞こえる」(ヨブ20章3節)という友人の言葉がありました。最初は悪気なく、正義感からだったかもしれません。教会でも、悪気はなくて、これが正しい、という思いがあるから、つい出てしまう言葉があって、それが聞く人を傷つける、などということも起こらないとは限りません。そんなとき、その人に直接「どうしてあんなこと言ったの?」とか言わずに、「こんなこと言われた」とSNSに書き込んだり、あるいは、教会の他の人に、「こんなこと言われたんですよ」と言ったりするのではなく、何か言うなら、直接本人に、ということが、ここで勧められている、ということです。「本人には言えないですよ」と言うならば、他の人にも言うべきではないでしょう。そのときは、沈黙を保つことです。

 

16節で、「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」となり、17節で「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と発展していくのは、私的対話から複数の証人へ、そして教会という共同体へ、というステップを踏む、ということです。そしてこれは、古いユダヤの共同体の文書でも言われていたことらしく、それを当時の教会も踏襲した、ということが考えられます。当時の伝統にのっとった、理にかなった話し合いのステップだったようです。

 

最後には「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とあり、厳しい御言葉に感じます。しかし、ここで思い起こしたいのは、これら「異邦人」や「徴税人」を気にかけて、最も積極的に交流を図ったのがイエス様だった、ということです。彼らが神様のもとに帰って来ることをいちばん望んでいたのは、イエス様でした。ですから、15節にありました、「兄弟を得たことになる」に示されている、兄弟を得るための働きかけが主眼であったことを、私たちは忘れてはなりません。

 

罪はうやむやにされることなく、罪として扱われます。そうでないと、その罪の赦し、ということが成り立ちません。神様は、私たちを見て、「何でもいいよ」とおっしゃるのではないのです。私たちの罪をご覧になり、それを曖昧になさることなく、それに対して、赦しを宣言されるので、私たちはその罪の赦しを受け、永遠に続く命への足掛かりを得るのです。

 

というわけで、17節までで罪のことが扱われて私たちがハッとしたのち、18節からがイエス様の約束溢れる福音の部分、福音の部分が来て、私たちは安心して胸をなでおろし、ほっとすることができるのです。

 

18節、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」は、私たちが地上の交わりの中で過ちを犯した兄弟を赦し、取り戻すなら、その結びつきは地上だけで終わるものではなく、天の永遠の世界にまで届く祝福となることを告げています。兄弟を得ることができるように、イエス様は何くれとなく働いてくださいます。当時疎外されていた異邦人や徴税人たちに目をかけてくださったイエス様は、失われゆく兄弟を手放すことなく、交わりに戻してくださいます。

 

そして、私たちの交わりの価値について、尊い約束が来ます。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」とイエス様は固く約束してくださいます。17節までの文脈と切り離さないで読むといいでしょう。すなわち、この2人とは誰のことか、ということです。これは、あなたに対して罪を犯した兄弟と、あなた、この2人だ、という可能性もある、ということです。大事なのは人数ではありません。一度は罪によって壊れた人間関係が、和解によって修復され、建て直されて、手を取り合い、祈るなら、それは聞かれる、ということなのです。もともと仲の良い、信仰によって一致した二人の祈りももちろん尊いものです。それをイエス様は喜んで聞いてくださるでしょう。それ以上に、一度傷つき、壊れたものが、過去の痛みを乗り越えてもう一度一つになり、修復された関係において祈る。それはまた、尊いものではないでしょうか。

 

たいへん有名な、祈祷会の案内にも書かれそうな「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)も、そのような流れの中にあると考えられます。また、もうひとつ、ユダヤ教の教師による文学、ラビ文学において、ミシュナー「アボット」3:2に、「二人が座して律法の言葉を交わすところには、神の臨在が彼らの間に宿る」という言葉があるそうです。まさにイエス様はこの伝統に生き、それを踏襲して、さらに拡大し、「二人または三人が」とおっしゃっているのです。そして、ご存じの通り、本日の説教の題にもなっている後半の御言葉、「わたしもその中にいるのである」は、このマタイによる福音書全体を貫くテーマである「インマヌエル」、すなわち神われらとともに、ということを如実に表す重要な言葉です。マタイはこの言葉に始まり、この言葉に終わっています。1章23節で「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である、と語られていました。そして、最後の最後で、イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と固く約束なさいました(28章20節)。その中間に、この18章20節の「わたしもその中にいるのである」という約束があり、インマヌエルの約束を裏付け、強固なものとしています。イエス様が共におられるからこそ、教会があまりの忙しさの中でバタバタとするようなことがあっても、その中で交わりを更新し、続けていくことができる。そして、何かを暴き立てるのではなく、「兄弟を得る」という収束に向かうことができるようにしてくださる。これらは、インマヌエル、神がわれらとともに、というイエス様が共におられるからこそ可能となることです。私たちが立ち戻る先、それは、このイエス様が共におられる恵みです。そこを見失わないようにしましょう。共におられるイエス様の恵みが、この教会に豊かにありますように。

 

恵み深い天の父なる神様。

私たちの歩みの中では、忙しさの中で思い煩い、知らず知らずのうちに互いを傷つけ、交わりにほころびを生じさせてしまうことがあります。どうか私たちの罪をお赦しください。傷ついた心を抱えている者には、あなたの慰めをお与えください。そして、私たちが心を一つにして祈るとき、そのただ中に主イエス様がおられることを信じさせてください。

 

教会がどれほど慌ただしくなるときにも、私たちが立ち帰るところを見失わないようにしてください。「神は我々と共におられる」というインマヌエルの恵みに支えられ、互いに赦し、支え合い、主にある交わりを大切にして歩ませてください。

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


報告

・先週のチャリティーピアノコンサートは祝福のうちに開催されました。

・本日のフェローシップMLCはすこやか感謝会です。


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