top of page

2026年6月7日 聖霊降臨後第二主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 6月7日
  • 読了時間: 13分

聖書交読 詩編50編7~15節(旧約p883)

司)50:7 「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。わたしは神、わたしはお前の神。

会)50:8 献げ物についてお前を責めはしない。お前の焼き尽くす献げ物は/常にわたしの前に置かれている。

司)50:9 わたしはお前の家から雄牛を取らず/囲いの中から雄山羊を取ることもしない。

会)50:10 森の生き物は、すべてわたしのもの/山々に群がる獣も、わたしのもの。

司)50:11 山々の鳥をわたしはすべて知っている。獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。

会)50:12 たとえ飢えることがあろうとも/お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは/すべてわたしのものだ。

司)50:13 わたしが雄牛の肉を食べ/雄山羊の血を飲むとでも言うのか。

会)50:14 告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。

全)50:15 それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」

 

聖書朗読 マタイ9章9~13節(新約p15)

9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

説教 「イエス様に従う」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

皆さん、おはようございます。6月最初の礼拝にようこそお越しくださいました。教会の暦は大きく動き、今日から聖霊降臨後の長い、典礼色が緑の季節に入ります。本日が聖霊降臨後第二主日となります。教会暦は昨年11月末の待降節に始まり、イエス様のお誕生と十字架を経て、今年は4月5日にイエス様の復活を祝う復活祭を体験しました。イエス様が救いの業を完成されて天に帰られた昇天主日を5月17日に記念し、5月24日には父なる神様とイエス様がもうひとりの弁護者である聖霊を私たち一人一人のもとに送ってくださった聖霊降臨祭を祝いました。そして先週、5月31日に、救いの歴史を辿る旅の仕上げを告げる三位一体主日を記念し、その日をもう一つの意味では聖霊降臨後第一主日として、本日が聖霊降臨後第二主日となるのです。第二とは言え、事実上、今日がこの聖霊降臨後の季節のスタートの日となります。

 

この輝かしい聖霊降臨後の季節のスタートの日に、私たちはマタイがイエス様からの呼びかけを受けた、いわゆる「マタイの召命」の出来事にまつわる聖書の箇所を開いております。聖霊降臨後の季節は、1年の約半分の長さがありますが、教会暦を共にたどりながらイエス様による救いの歴史を味わった私たちが、今度はイエス様の弟子として成長していく、そのようなことを期待する期間です。典礼色が緑とお話ししましたが、緑は植物の成長をイメージさせます。神様の恵みを受けて、私たちも年々強くなっていく日差しの下、神様からの成長をいただくことを共に期待していくのです。その季節のスタートに、イエス様に従い、イエス様の弟子となっていった先輩の姿を見ることができるのは、また大きな恵みです。

 

今日はマタイの福音書でこのマタイの召命の記事を読んでいますが、この9章9節に始まる物語に至る流れを確認しておきたいと思います。イエス様はマタイの4章で、荒れ野での誘惑を経験した後、公の場に姿を現され、神の御言葉を伝える、宣教の働きを始めておられます。そのあと、5章から7章において、有名な山上の説教をなさり、多くの当時としては画期的な教えをなさいました。そのあと、ただ語るだけでなく、8章以降はいつくもの癒しを含む奇跡を行われ、行動においても力ある存在として、自らを示しておられます。今日のこのマタイの召命の記事は、中風の人の癒しのあとに置かれています。これは、新共同訳は並行箇所が書かれていますから、すぐこの記事がマルコの2章とルカの5章にも記されていることがわかりますが、そちらでも、必ず中風の人の癒しのあとに、このマタイの召命の記事が載せられています。

 

先ほど来、マタイということで今日の主人公とも言うべき人物を紹介していますが、並行箇所であるマルコの2章とルカの5章を見ますと、そこには別の名前が記されています。それは「レビ」で、マルコの方だともう少し詳しく、「アルファイの子レビ」と記されています。現代の日本のように、親の願いが込められて工夫が凝らされた名前が男女とも数限りなくある、というのとは異なり、ユダヤの地では名前には限りがあり、同じレビという名の人が多かったので、区別するために父親の名前を冠して「アルファイの子レビ」と言って他の人と区別していたのでしょう。マタイの福音書のみ、この人物を「マタイ」と記しています。この事からわかりますように、このマタイが、このマタイの福音書の著者なのだ、と言われています。アルファイの子レビが、マタイという別名を持っていた、ということです。

 

近年の研究では、この同一人物説に疑問が呈されておりまして、何でも、ユダヤ由来の名前とギリシア・ローマ的な名前を併せ持っているのは一般的だったが、シモン・ペトロなどがそうですけれども、マタイのように、マタイもユダヤ由来、もとにあるのは「マティヤ―」という名前、そしてレビもユダヤ由来、こういった名前を併せ持っているケースは当時の風習からして不自然だ、というのです。ですけれども、いつの時代にも例外というものはあるわけで、どちらかが職業上の名前だったかもしれませんし、今はこの二人が同一人物、ということで問題ないかと思います。

 

ちなみに、「マタイ」の意味は「神の贈り物」、「レビ」の方は「結び付く」が語源にあって、神殿に仕えていた「レビ人」にも通じる、由緒ある名前です。現代においては、このマタイですが、ギリシア語読みでは「マタイオス」となりますけれども、「弟子」の意味を持つギリシア語「マセーテース」と音の響きが似ているので、語呂合わせだったのではないか、とも言われています。実際はどうだったのでしょうか。また、レビは「結び付く」という意味だとご紹介しましたが、そのような大事な意味を持つ名前の人物が、ユダヤの同胞たちと結びつくのではなく、むしろ彼らを裏切り、ローマと手を組んで、ローマのために税金を取り立てる取税人に成り下がっていたことは、何とも暗示的です。そのような人物に向かって、イエス様はその結びつきを回復しようとしておられるかのように、「わたしに従いなさい」と声をかけられます。これは、わたしについてきなさい、という意味です。

 

場面は変わって、10節では、イエス様が「その家」で食事をしておられた時のことに移ります。「その家」はイエス様の家のようにも読めるのですが、他の福音書と併せて読むと、マタイの家であったことがわかります。新改訳2017はわざわざ、「家の中で」食事の席についておられた、と訳しています。

 

そこには、マタイだけではありません。彼の仲間の徴税人や罪人も大勢やって来て、イエス様やその弟子たちと一緒に食事をしていた、と言われています。イエス様に声をかけていただいて、マタイはうれしかったのでしょう。自分のもう一つの名前、「レビ」、すなわち「結び付く」が、今までは泣いていた。結び付くどころか、裏切って、同胞たちから離れていた。それが、もう一度結び付く機会が与えられた。そのような喜びだったかもしれません。マタイは強いられてではなく、喜んで、イエス様に従うことを決意しました。そして恐らくマタイはその喜びのうちに、自発的に、自らが主体となって多くの仲間たちを呼んだのでしょう。ちなみに、「罪人」は道徳的な意味ではなく、当時の律法の枠にはまらない人々で、具体的には安息日を守る、すなわち金曜日没から土曜日日没までの一日を休んで礼拝のときに充てる、ということが出来ない人々のことでした。

 

イエス様がそのような彼らと一緒に会食する、というのは、たいへん大きな意味がありました。先ほど、三位一体主日をあとにして、私たちは聖霊降臨後の緑の季節に入ったとお話ししましたが、それでは三位一体の神様の愛の交わりは、どこで実現し、展開され、私たちはどこでそれを受け取り、実感するか、それが、このような会食の場だ、ということにもなるのです。今日は礼拝後、大掃除の前に、恐らく短い時間かとは思いますが、昼食会があります。そのような交わりの場で、私たちは三位一体の神様の愛を体験していくのです。

 

11節になると、イエス様の反対勢力が登場します。ファリサイ派の人々です。どう書いてありますか。「ファリサイ派の人々はこれを見て」。どうやって、これを見たのでしょうか。先ほど、新改訳2017の、「家の中で」という訳を紹介しました。細かいことではありますが、それを知っておくと、このストーリーの理解が広がります。家の中で行われていることが、なぜ外にいるはずの人々にわかるのか。それは、当時の家が、オープンスペースが多い造りをしていたからだ、と言われます。現在の家のように、窓を開けたりしていない限り、中の様子が外からはわからない、家の周りにも塀があったりして視界を遮る、窓にはカーテンをつけている、といった家の造りではなかなか想像できないことです。

 

それにしても、ファリサイ派の人々のしていることはのぞき見のようなものです。イエス様たちの会食がプライベートだったのかパブリックのものだったのかはここでけでは判断できませんが、いくらオープンスペースが多かった当時の家とは言え、一応は「家の中」と表現できる状況の中で食事をしていた人たちに、外から覗き込んで、声をかけている。あるいは、家の外と中で話をしている、というのも不自然でしたので、そのオープンスペースを悪用して、ずかずかと彼らは家の中まで入ってきて、議論を仕掛けたのかもしれない。彼らのやっていることは、彼らの言っていることの内容云々の前に、失礼極まりないことであった、とも言えるでしょう。

 

それで、彼らはこう言うのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。それに対してイエス様は即座に、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とお答えになります。ある意味でイエス様の名言とも言えます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。言葉を加えれば、医者であるわたし、イエスを必要としているのは、あなたがたのように、自分が丈夫な人だと思い込んでいるファリサイ派の人たちではなく、自らの弱さ、病んでいることを自覚しているこの徴税人や罪人たちである」ということです。

 

神学校を卒業する直前、ちょうど今のように6月のことでしたが、98年のことですけれども、アメリカのセントルイスのコンコーディア神学校を見学に行き、神戸ルーテル神学校の校長であった正木牧人先生の弟さん、正木直道先生にお世話になりました。ある日、礼拝に向かう車の中で、直道先生が、「教会は体育館のようなものだと思いますか、それとも病院のようなものですか」と質問されました。答えに詰まりましたが、直道先生の答えは「教会は病院のようなもの」で、今考えるとたいへんルーテル教会的な考えだったように思います。教会と言うと、つい何々会、今度は〇〇のイベント、というように、活動中心となって、そのための委員会も重なり、たいへん忙しく、活動、活動と言った、まるで体育館のようになりがちである。それに対して、本来教会は、疲れ、傷つき、倒れ込みそうになっている人々が、癒しを求めて医者であるイエス様のもとに自主的に集まって来る病院のようなものだ。なかなかそのようにはいきませんが、大事な教会に対する考え方のように思います。イエス様は、そのようなことを、この時にイメージしておられたのかもしれません。

 

日常生活の中で、私たちは疲れることがあります。病み、傷つくことがあります。これは年代によって異なるかとは思いますけれども、現代のSNSの隆盛は、もちろんそれで便利なこともありますけれども、丈夫な人の、こんなところに行きました、こんなランチを食べました、こんなコンサートがありましたと、それを読む人にとってはややまぶしすぎる、「健康で、丈夫で活動的でないといけない」というプレッシャーすら感じさせるものにもなっているということが指摘されています。そのような中で、この世においては「丈夫であれ」という無言のメッセージ、圧力を受けながら、「この自分の弱さは何か、何ともふがいない」と、自分の弱さにうすうす気づく中で自分を責め、これではいけない、と自分を否定している人も多いことでしょう。そういった中で、イエス様はここで、「ありのままの自分でいい」「自分の弱さを受け入れ、認めていい」と言っておられるかのようです。

 

続く13節は、旧約聖書ホセア書6章6節の引用である、ということだけ、申し述べておくことにします。ファリサイ派の人々がよく知っていた、恐らくそらんじていたであろう旧約の一節を取り出し、それを突き付けるイエス様。更には、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」との究極の福音を述べられます。私たちは信仰によって救われ、神様の前に義人とされてはいますが、同時に罪人である、とルターは述べました。この世にあって、あくまでもこの罪人であるという性質を人生の最後まで背負って行かなければならない私たちにとっては、何とも麗しい知らせです。この罪人を招くために、来てくださった。ここでの「正しい人」とは、ファリサイ派のように、あくまで自分で自分を正しいと思い込んでいる人たち、ということなのですが、この世的価値観では、そのように自らを律し、正しく生きようとしている人こそ尊い、ということになるのかもしれませんけれども、イエス様はその背後にある欺瞞といったものに目を向けておられたのでしょう。むしろ「罪人」、先ほどイエス様が「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われた時の「病人」と同じ意味ですけれども、罪人を招いてくださる幸いを感じます。

 

このように、今年の聖霊降臨後の緑の季節は、この福音をもってスタートしました。この季節が、成長、成長とあくせくして、それが律法のようになってしまうのではなく、イエス様がすでに私たちを招いていてくださるので、そのことに安らぎ、イエス様の御手の中でくつろいで自分のありのままの姿を認め、イエス様が与えてくださる成長を喜び楽しむ、そういった季節となることを願っています。そして、そのイエス様の愛に満たされ、押し出されて、マタイのようにイエス様に従って行こうと心から願う私たちでありたいと思います。


お祈りいたしましょう。

天の父なる神様、聖霊降臨後の緑の季節の始まりの礼拝に、私たちを招いてくださり感謝します。

主よ、私たちは日々の歩みの中で疲れ、自らの弱さに悩むことがあります。しかし、主イエス様が「医者を必要とするのは病人である」と語り、罪人である私たちをありのままに招き、愛の交わりに連ねてくださる大きな恵みに心から感謝いたします。

どうぞ今、世のプレッシャーから離れ、あなたの癒やしと安らぎの中で憩わせてください。この季節、私たちが自らせかせかと成長を焦るのではなく、主の御手の中でくつろぎ、あなたが与えてくださる信仰の成長を喜び楽しむことができますように。そしてマタイのように、喜びをもってあなたに従わせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


報告

・本日は昼食会の後、大掃除があります。その後役員会となります。



 

コメント


御影ルーテル教会

658-0047 神戸市東灘区御影3-10-5

tel: 0788420446

©2022 by 御影ルーテル教会  Wix.com で作成されました。

bottom of page