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2026年6月28日 聖霊降臨後第五主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 6 日前
  • 読了時間: 13分

聖書交読 エレミヤ28章5~9節(旧約p1229)

司)28:5 そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。

会)28:6 預言者エレミヤは言った。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。

司)28:7 だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。

会)28:8 あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。

全)28:9 平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」

 

聖書朗読 マタイ10章40~42節(新約p19)

10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 

説教 「現代において預言者として生きる」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

おはようございます。大雨が続いていましたが、皆さんとのところは何か影響はなかったでしょうか。この聖霊降臨後第五主日の礼拝にようこそお越しくださいました。週報に礼拝の回数が記されております。礼拝は積み重ねですから、今日が何回目の礼拝か、ということは重要です。今日は第26回目の礼拝で、今年は1年52回の日曜日がありますから、ちょうど半分、ということになります。そのような重要な礼拝を皆さんと共に体験できることを嬉しく思っております。

 

本日開いておりますマタイによる福音書10章40〜42節は、5節から続く、イエス様が12使徒を宣教へと送り出す「弟子派遣説教」のクライマックスとなる箇所です。一節ずつ、味わって参りましょう。

 

40節では、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(新共同訳)とイエス様は教えておられます。「あなたがた」とは、これから派遣されて、天の国が近づいたと福音を語り継げ、病のいやしをし、悪霊を追い出す働きをしていく使徒たちのことです。「わたし」とは、彼らをお遣わしになるイエス様のことです。なおそこに、「わたしを遣わされた方」が登場します。この方は、先週私たちが見ました、天のお優しい父、すなわち父なる神様ということになります。この短い1節の中に、これら3者が存在するわけです。遣わされていく使徒たち、お遣わしになられるイエス様、そして、イエス様をお遣わしになった天の父なる神様、という図式です。

 

ここでは、実を言うと2段階のことが言われていますので、細かく1段階ずつ整理していきましょう。まずここで言われていることは、「派遣されていく使徒たちを受け入れる人は、彼らを派遣されたイエス様を受け入れる」ということです。ここで「受け入れる」とは、「もてなし、迎え入れる」という具体的な対応を意味しています。「天の国が近づいた」と語り、病をいやす人々がいる。語っている内容を聞き、行っていることを見て、「まあ、いいでしょう」と承認する程度ではない、ということです。「よく来てくださいました、福音を語ってくださり、癒しをしてくださって、歓迎します」という姿勢です。そのようにしてくれる人々は、実は単に目の前にいる使徒たちを迎え入れているだけではなく、何とその背後におられる派遣者、イエス様をも迎え入れていることになる、ということなのです。

 

次の段階は、「そのようにして、派遣者であるイエス様を迎え入れている人は、それだけでなく、イエス様を派遣された天の父なる神様をも迎え入れている」ということです。これは両方、意図せずにしていること、と言えるでしょう。この人はあくまで目の前にいる使徒たちをもてなし、迎え入れているのであって、まさか自分が、その背後におられるイエス様、そしてそのイエス様を派遣された天の父を迎え入れているとは思っていないでしょう。しかし、人の行為には、自分の意識している以上の深い意味がある場合がある、ということをここでは示しています。まさか自分はそんなつもりではなかった、しかし、実は後で知らされてみると、私はイエス様のことを迎え入れていたのだし、同時にそのイエス様を遣わしておられる父なる神様のことも迎え入れていたのだ、ということです。

 

これは、現代において、私たちの周りでもお互いの間に起こることです。もし私たちが、信仰を共にする仲間をもてなし、温かく迎え入れるならば、その信じる仲間をもてなし、迎え入れているだけでなく、実はその背後におられるイエス様、そしてそのまた背後におられる天の優しい父なる神様をも迎え入れている、ということです。これは礼拝において、皆さんが礼拝に来られた方々を歓迎し、「よく来てくださいました」と温かく声をお掛けになるときに、実現します。また、家庭集会などを開いて、信仰の仲間をおうちにお招きするような時に、実現します。皆さんはその時、信仰を同じくする仲間を歓迎するだけでなく、イエス様を、そしてその背後におられる天の父なる神様をも、歓迎しているのです。

 

このような考え方の土台にあるのは、イエス様の当時の「代理人の法」の考え方です。当時のユダヤ社会には、「人に遣わされた者は、その遣わした本人そのものである」と捉える法的な原則があったと言われています。この原則を知れば、このイエス様の言葉の意味がよくわかります。使徒たちは、イエス様によって遣わされました。ということは、当時の代理人の法からすると、使徒たちはイエス様の代理人、ということになり、イエス様ご本人と同じように扱われる、ということです。この代理人の考え方はイエス様にも当てはまります。イエス様は、どのような存在でしょうか。先ほど来、イエス様は天の父なる神様から遣わされた存在だ、とお話ししてまいりました。ということは、イエス様は天の父なる神様の代理人である、ということになります。当時のユダヤ社会においては、代理人は本人そのものとして法的に扱われる、ということですから、ここには、イエス様を天の父なる神様ご本人であるかのように見なして接する、というダイナミックな関係が成り立っていたことになります。もちろん、この当時、ユダヤの人々はそれを認めなかったのではありますが。

 

ここでは、「その人そのものだけでなく、その背後におられる方を見る」という考え方が大事となってきます。これは、立派で尊敬できる人なら、簡単なことです。しかし、弱さを抱え、場合によっては私たちにとってつまずきとなるようなものを抱えている人に対しては、難しいのではないでしょうか。その人の背後に、という見方をする以前に、その人の弱さ、その人がもたらす私たちへのつまずきの方がずっと大きく見えてしまって、その人を受け入れがたい、と思ってしまうことも多いことでしょう。特に、私たちが十分に砕かれ、低められていないときには、このようなことが起こりがちです。人はどうしても比べてしまうものですから、自分と比べて低い存在、などと相手にレッテルを貼ってしまうと、恐らくその背後に、この人を遣わした存在を見出す、などということはできなくなってしまうでしょう。

 

続く41節においても、重要なのは「受け入れる」という言葉です。それを先ほどは、「もてなし、迎え入れる」、一言で言えば「歓迎する」という側面から説明しました。ここには、「預言者」と「正しい者」が出てきます。ご想像の通り、ここから、本日の題の「現代において預言者として生きる」が取られています。

 

まず、「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受ける」ということが語られます。ここは、「預言者を『預言者だから』ということで受け入れる人」とも訳せる書き方になっています。ここで、この「預言者」とは誰か、ということになりますが、40節からの流れからすると、これは40節で言われていた「あなたがた」、すなわち使徒たちのこと、とも読むことができます。そして、次の「正しい者」も、実はこれらと別のグループの誰か、と読むよりも、むしろ同じように使徒たちのことを指す、と考えた方が自然です。すなわちここでは、「あなたがた使徒たちを受け入れる」「預言者を受け入れる」「正しい者を受け入れる」ということで、ほぼ同じ内容を3回重ねて、念を押して、「イエス様が遣わされた人を受け入れましょう」ということが語られていることになります。

 

ところで、この「預言者を『預言者だから』ということで受け入れる」というのは、言い換えれば「預言者を『預言者だとわかったうえで』受け入れる」ということにもなります。「正しい者」の方も同じです。正しい者だとわかったうえで、受け入れる、ということです。ちなみにこちらの「正しい者」は、従来では「義人」と宗教的用語として訳されていました。むしろその方が、「使徒」「預言者」「義人」ということで、意味が揃ってきます。そして大事なのは、これらがそれぞれ別の人なのではなく、使徒であり、預言者でもあり、なおかつ義人でもある、というように、オーバーラップする、重なる部分がある、ということなのです。

 

「義人」に関しては、少し言葉を加えておきましょう。「正しい者」と聞くと、どうしても道義的な、道徳的な正しさをイメージしてしまいますが、これを「義人」と訳せば、別のニュアンスが出てきます。最近の研究では、「神様の御心を全うしようと徹底的に生きる信仰者」のことを指すのではないか、と言われます。

 

ここで「使徒」「預言者」「義人」に重なり合う意味がある、ということになると、こんなことではないでしょうか。イエス様に派遣される「使徒」は、天の国は近づいたと御国の福音を告げ、病をいやし、悪霊を追い出す権能を行使して、旅をしながら活動します。

 

預言者」という言い方は、その働きの、御国の福音を告げる、「語る」側面を強調したものでしょう。また、「義人」という言い方からわかることは、使徒も、また預言者も、それぞれが自分に対する神様の御心を求め、それを全うできるように徹底的に生きる信仰者であった、ということです。

 

こういった、御国の福音を語り、神様の御心を一身に求めてそれに邁進していた人々を、それとわかったうえで受け入れる、というのが、今回の「受け入れる」の中心ポイントとなります。そのような信仰的な面はよくわからないから抜きにして、肩ひじ張らずに、その人の温かさに触れて、いい人だな、と思って迎え入れる、というのとはちょっと異なります。使徒たち、預言者たち、義人たちの周りで、彼らが何を語り、何をしているかをつぶさに見たうえで、そういう人たちだとわかったうえで、なお迎え入れる、ということですから、これはほぼ、「その人たちの信仰を受け入れる」ということとも同じ、ということになるのです。

 

そうわかれば、42節の、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」という御言葉の意味も分かってきます。水を飲ませる程度で報いを受けるんだ、ということではないのです。ここでも、「わたしの弟子だという理由で」という言い方は、「わたしの弟子だとわかったうえで」という意味です。イエス様の弟子だとわかったうえで、その語っていること、していることを見たうえで、なおももてなし、温かく迎え入れることは、もう信仰抜きのことではありません。「あなたたちの信仰に関しては、難しいことはわからないし、触れないでおくが、この乾燥した地域では水も飲まないでは命の危険があるから、とりあえずは水を出しておきます」という程度のことを、遥かに超えているのです。また、「いいこと語っているね」と、宣べ伝えている内容に単に賛成しているだけでもない。むしろ積極的に受け止め、それによって私も生きる、という程度にまでメッセージを自らの内に取り込んでいることを表しているのです。

 

それでは、今日のテーマである、「現代において預言者として生きる」とはどういうことになるのでしょうか。今日は、イエス様が「あなたがた」と呼ぶ「使徒たち」が、「預言者」と言い換えられ、また更に「義人」と言い換えられている、とお話ししました。ですから、「預言者」はそれらすべての性質を兼ね備えている、と考えます。確認していきますと、「使徒」はイエス様によって遣わされ、「天の国は近づいた」と御国の福音を宣べ伝え、病をいやし、悪霊を追い出す人でした。預言者は、その御国の福音を宣べ伝える、その「語る」部分を特に担います。そして、「義人」は、神様の自分に対する御心を一身に探り、それを全うすべく徹底的に生きる信仰者のことです。そして、この義人が、自らその義を得たのではなく、キリストの身代わりの十字架によって、すべての罪が赦され、神様の前に一度も罪を犯したことのないような存在に見なされている、そういった存在であることは、言うまでもありません。

 

従って、私たちが「現代において預言者として生きる」とは、天の国は近づいたと御国の福音を語り、キリストの身代わりの死の意味をしっかり受け止めながら、救いを喜びつつ自らに対する神様の御心を全うしようと懸命に、徹底的に生きる信仰者として生きる、と、ずいぶん長いですが、そのように定義することができるでしょう。旧約聖書における、「主はこう言われる」と言って裁きを宣言する、そのような、皆さんがイメージする預言者の姿とはだいぶ異なると思います。だから、「現代において」と言うのです。もちろん、旧約聖書の預言者が裁きしか語らなかったわけではないのですが、現代における預言者は、福音を知り、それに生かされています。自らの救いを、イエス様の十字架によって確信しているのです。ですから、天の国が近づいた、との御国の福音は、より身近なものとなっています。イエス様の十字架によって門が開かれ、そこに入ることが約束されている天の国をイメージし、その輝かしい天の国が、あなたの現実の生活の中に入って来るのです、今、近いのです、と語るのです。地上のことで右往左往し、心曇らせ、疲弊している人々に、そのメッセージは輝かしい希望をもたらすのではないでしょうか。

 

そのように語る人々を、語る内容を理解したうえでもてなし、迎え入れることは、すでにその語る福音のメッセージを受け入れて信じていることにも等しい姿です。そのような人が、預言者の受ける報いを受け、素晴らしい天の恵みに与ることは、もはや当然のこととも言えるでしょう。教会において、私たちの住む地域で、また家庭において、そのように思う人が増やされていくことを願います。すぐに信じて洗礼を、とまでいかなくても、そのように、私たちを温かく迎え入れて受け止める人々が増えていくことが、これからのキリスト教を考えるうえで重要なのではないでしょうか。そのためにも、私たちが地道に語りつづけ、また、地道にクリスチャンとして生き続けることがたいせつです。現代において預言者として生きる、というのは、大げさなことではありません。与えられていることに忠実に、淡々とクリスチャンとして神様の御心を全うしていく姿、それこそが預言者として生きる姿です。そのように歩まれる皆さんに主の祝福がありますように。

 

お祈りいたします。

 

愛する天の父なる神様。私たちは目の前の人の弱さやつまずきに心を奪われ、その背後におられるあなたを見失いがちです。どうか私たちの砕かれた心を通して、出会う人々を「キリストの代理人」として温かく迎え入れることができますように。

私たちはイエス様の十字架によって義とされ、御国の福音を託された「現代の預言者」です。大げさな業ではなくとも、与えられた場所であなたの御心を尋ね求め、淡々と、地道にキリストを証しする歩みへと押し出してください。私たちの語る言葉と生き方を通して、渇いた世界へ、主の命の冷たい水一杯を届けることができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


報告

・本日は午後1時より、三浦綾子読書会があります。新しく『愛の鬼才』を読み始めます。


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