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2026年5月3日  復活節第五主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 18 時間前
  • 読了時間: 10分

 

聖書交読 詩編31編2~7節(旧約p861)

司)31:2 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。

会)31:3 あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。

司)31:4 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き

会)31:5 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。

司)31:6 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。

全)31:7 わたしは空しい偶像に頼る者を憎み/主に、信頼します。


聖書朗読 使徒7章55~60節(新約p227)

7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、

7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。

7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、

7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。

7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。

7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。


説教 「天を見つめて」


説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


5月に入りました。気持ちを新たにして、御言葉に向かって参りましょう。


復活節は、使徒言行録が聖書日課において旧約であるかのように開かれています。本日はその中の、執事ステファノの殉教の場面を開いております。


この箇所に至るまでの流れを確認しておきましょう。使徒言行録6章までさかのぼります。ごく初期の教会に、ギリシア語を話すユダヤ人が増えてきて、ヘブライ語を話すユダヤ人たちに、日々の分配のことなどで苦情が生じました。使徒たちは御言葉と祈りの奉仕に専念するために、食事などのことに関して奉仕する、7人の執事を選びます。その筆頭に名を挙げられていたのがステファノでした。彼は信仰と聖霊に満ちている人でした。それだけでなく恵みと力にも満ちていて、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていました。不思議な業としるしと言うと、出エジプトの奇跡を思い出します。


ところがその大きな働きのゆえに反感を買い、捕らえられてユダヤの最高法院において裁判にかけられてしまいます。7章では、有名な弁明の演説をしています。最後にイエス様の十字架の死の責任をその場の人々に問い、「天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」と言いいます。それを言われて、その場にいた人々、その中には大祭司や祭司長、民の長老、そして律法学者たちが含まれていましたが、彼らは激怒した、と記されています。自分たちは律法を守るのに熱心だ、と思っていましたから、「律法を守っていない」と言われて怒った、ということです。このような文脈の中に、今日の聖書の箇所はあるのです。


この部分を分析して、重要なことばで、繰り返し用いられている言葉上位3つをご紹介します。まずは「見る」あるいは「見える」が3回用いられています。「天を見つめ」(1節)、「神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て」(55節)、「人の子が神の右に立っておられるのが見える」(56節)、といった箇所で用いられています。神様の言葉を「聞く」ことを大事にした信仰者が、同時に見ることをも重視していたことがわかります。


次には、「言う」という言葉の活用形が、こちらも3回出てきます。どれも、「ステファノが言った」という文脈で使われています。最高法院の出席者の激しい怒りを受け、その命も危険にさらされているときに、ステファノは恐れずに、勇気をもって語ったのでした。


もう一つご紹介しますと、「天」という言葉が2回繰り返して用いられています。「天を見つめ」(55節)、また「天が開いて」(56節)と言われています。人生の終わりを前に、彼が見たのは天であった。たいへん印象的なことです。このようなことが書かれている本日の箇所、改めて1節ずつ見てまいりましょう。


まず55節。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、」とありますが、ここにある「天を見つめ」という言葉が、本日の説教の題になっております。本日の箇所の中心的な御言葉であると思います。


この節から、3つの大事なことをお話しします。まず第一に、「ステファノは聖霊に満たされていた」ということです。私たちは、何で満たされているでしょうか。先行きの不安で心が満ちてしまっているでしょうか。ステファノが聖霊で満たされていた、ということは、他の何ものでも心が満ちてはいなかった、ということを意味します。私が言ったことで、周りの人々がとても怒っている。これからどうなるんだろう。そういった不安で心が満ちていたわけではないし、なんで私はこんな目に遭わなければならないのか、という不満で心が満ちていたわけでもありませんでした。良い意味で心は空っぽで、そこを神様の送ってくださる霊、聖霊で満たされていた。素晴らしいことです。


第二に、ステファノは天を見つめていました。これも逆の方から光を当てると、彼は地に目を留めていなかった、ということでもあります。これからどうなっていくんだろう。何で世の中はこうなんだろう。そう言って、地上のことばかりに目を向けていたのではなかった。まさに自分のいのちが尽きようとするその時に、彼は上を見て、天を見上げていたのです。また天は、神様のおられる領域です。空とか、上の方に限りません。彼の心は人生の終焉の時に、神様の方に向いていた、ということです。私たちもそうありたいものです。


第三に、ステファノはイエス様を見ていました。私たちは誰を見ていますでしょうか。私より立派に奉仕する、あるいはよく用いられている人を見て、うらやましい、と思っているでしょうか。反対に、誰かを見下して、あの人よりはまし、と言ってプライドを保っているのでしょうか。私たちは、いい人であれ悪い人であれ、人ばかり見ていて良いことはありません。私たちはイエス様を見るのです。それを、ステファノはいのちがけで、私たちに教えています。


なぜステファノはこのようにできたのか、ということ、ひとつだけお話ししておきましょう。この7章は、ステファノが滔々と、神様が歴史に働いてこられたことを語る演説が記録されています。そのような見事な演説、あるいは説教ができたのは、彼が神様の御言葉に密着し、それに親しみ、大事にしてきたからでした。この、御言葉を何よりも大事にする信仰が、彼を支え、強めて、聖霊に満たされ、天を見つめ、イエス様を見つめるようにしたのです。特に聖霊に関しては、神様の御言葉と共に働くと言われますから、神様の御言葉を大事にすることなしに、聖霊に満たされることはありません。神様の御言葉には、聖書を通して触れることができます。いや、聖書が神様の言葉と言われています。聖書に親しみ、聖霊に満たされ、天を見つめ、また、イエス様を見つめてまいりましょう。


2)

56節では、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったステファノの言葉が記録されています。「天が開いている」。今、天は固く閉じられているのではなく、私たちのために開いています。そこから、私たちは人の子、すなわちイエス様を見ることができます。このイエス様は、つい先ほど一緒に使徒信条で信仰を告白したように、神の右に座しておられます。この右とは、権威ある場所のことを指します。イエス様が神様の権威を帯びた偉大な方であると認識されていたことがわかります。私たちも、知恵ある方、偉大なる教師としてのイエス様に出会うのではなく、神の右の座におられる、神の権威を帯びたイエス様に出会うのです。


当時人に過ぎない者が神様を見た、などと言うのはまったくもってご法度でした。それなのにステファノは神様を見たと言う。それで周囲の人々の怒りは頂点に達し、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり」ます。ここに、天を見つめ、イエス様を信じて語る者に対する周囲の人々の反応を見ることができます。彼らは「耳を手でふさぐ」のです。聞こうとしないのです。天が私たちのために開けて、イエス様がそこにおられるのが見えます!と、信仰者であれば喜びにあふれて語るところ、そのような言葉を聞くに堪えないのです。だから彼らは、ただただ耳をふさぐのです。


彼らは恐ろしいことに、ステファノに石を投げつけ始めました。これはユダヤにおける死刑の方法でありましたが、正当な手続きで刑が確定したとはとても思えない、不法な刑の執行だったと言わざるを得ません。まことに心痛める出来事です。


この場に、一人の若者がおりました。その名はサウロ。さて、この人物は誰でしょうか。彼はのちにパウロと名を変え、初期キリスト教の偉大な使徒、また宣教者となっていきました。まだこの時はイエス様に出会っておらず、名前も生まれた時のサウロのままでした。なぜこのときサウロがこの場にいたのか、またなぜ人々は自分たちの上着を彼のもとに置いたのか、それはわかりません。しかし、明らかなのは、サウロがステファノの殺害に賛成していたことです。これは続く8章1節にも記されていることですし、後にパウロは自分で、「また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいて賛成し、彼を殺す者たちの着物を番しておりました」と告白しています。使徒言行録22章20節のことです。このような、根っからのユダヤ人であるサウロを、イエス様はパウロへと変えることができた。イエス様を迫害していた者を、すべてをささげてイエス様を伝える者へと変えられた。その恵みの業をここに見るように思います。


人々がステファノに石を投げつけるという狂気の中、ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言います。これは、イエス様の十字架上の言葉とよく似ています。ルカ 23:46で、イエス様が十字架で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言ったと記されています。ステファノはそれを意識していたのではないでしょうか。


続けてステファノは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びました。これもまた、イエス様の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というルカ23章34節に記された祈りとよく似ています。この時ステファノが、たいへんな痛みと苦しみを覚え、死に直面しながら、その苦痛の中でキリストの心で赦しを祈ったことがわかります。このようにできたのも、聖霊に満たされ、天を見つめ、イエス様を見ていたからのことでした。このゴールデンウィーク、休日のやや浮足立った独特の雰囲気の中でも、ステファノの生きざまに倣い、神様の御言葉である聖書に親しむことで聖霊に満たされ、天を見上げて天を見つめ、イエス様をそこに見て、信仰の道をまっすぐに歩んでまいりましょう。


人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。


お祈りいたしましょう。

天の父なる神様。5月の連休の初日、そして5月最初の主の日に、共に集まって礼拝の恵みにあずかることができ感謝いたします。先行き不透明で、困難の多い地上の歩みですが、私たちが上を見上げ、天を見つめて歩み続けることができますよう助けてください。これから聖餐の恵みに与りますが、その中でイエス様に出会うことができますように。災害に苦しむ地、戦火の絶えない地にあなたの御手が伸べられますように。また、癒しの必要な方に癒しを、困難の中に置かれている方にはその解決をお与えください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日昼食会があります。フェローシップMLCの交わりがあり、「夢を語る会」となります。







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