2026年4月12日 復活節第二主日
- 明裕 橘内
- 4月12日
- 読了時間: 14分
聖書交読 詩編16編(旧約p845)
司)16:1 【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
会)16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
司)16:3 この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
会)16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
司)16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
会)16:6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
司)16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
会)16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
司)16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
会)16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
全)16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
聖書朗読 使徒2章22~32節(新約p215)
2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
2:23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
説教 「復活の証人となる」
説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
先週はイエス様の復活をお祝いするイースター礼拝でした。午後に墓前礼拝があったため、午前中から召天者の方々のご関係の皆さんも多く集っておられました。皆さんでイースターをお祝いできて感謝です。今日は復活節第二主日ですが、いつが第一主日だったかと言うと、実はそれは先週のイースターでした。その日を復活節第一主日として、それで今日、復活節第二主日となるのです。開いております聖書の箇所はと言うと、実は少し先のこと、ペンテコステの日のペトロの説教の一部なのです。ペトロの説教の中で、イエス様の復活のことが記されている箇所を、本日開いております。このように、使徒言行録を開くのが、この復活節の特徴です。
ペトロはペンテコステの日の朝、聖霊降臨の際の不思議な現象、大きな物音を聞いて集まって来た人に、説明の意味も含め、説教を始めました。それは、この使徒言行録2章の14節に記されています。
「すると、すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください』」(使徒言行録2章14節)。
これは、弁明を含めた説教への呼びかけです。これから話すことを聞いてください、という呼びかけをしています。
その後ペトロは、この日の聖霊降臨の不思議な出来事が、旧約聖書のヨエル書の預言の成就である、と説明します。そして、ヨエル書を思い起こして、その一部を実際に語って聞かせます。
そして、たいへん有名な「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒言行録2章21節)という、ヨエル書3章5節の言葉を高らかに宣言したのち、改めて「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」(使徒言行録2章22節)と言って語り始めるのが、本日の箇所なのです。
そのように、改めて聴衆に注意を促したうえで、ペトロは「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と断言します。そのように言い切るのです。「ナザレの人イエス」という言い方から、当時「イエス」という名前の人は多く、特定するために「ナザレの人」と言ったことが考えられます。また、それだけでなく、この「ナザレの人」という言い方は、聖書に「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1章46節)という言葉がありますので、それを思い起こさせます。これはナタナエルが、イエス様についてフィリポから聞かされたときに言った言葉です。この言葉から、イエス様の当時、ナザレという場所がどのように思われていたかがわかります。ナザレと言えばガリラヤの小さな村にすぎず、旧約聖書の中で重視されたようなこともなく、人口も少なくて、とてもそこから何か偉大な人物が出るとは考えられない場所でした。尊いイエス様であるのに、そのお方にわざわざ「ナザレの人」という言葉を付けるのは、そのように、神の御子である方が、人間の姿にまで身をやつし、誰も何も期待しないような所に身を置いてくださった、ということを強調したい思いがあったのではないでしょうか。
しかし今や、その方は神から遣わされた方として、大勢の人々の前に紹介されます。神様がイエス様を通してなさった「奇跡」「不思議な業」「しるし」と言われますが、これは旧約聖書において、出エジプトの偉大なる救出の奇跡を表すのに用いられる表現でもあります。神様がイエス様を通して、第二の出エジプトとも言うべき、偉大なる救いの業を行ってくださったことがここに示されています。その「奇跡」「不思議な業」「しるし」の3点セットによって、見事に、イエス様が神様から遣わされた方であったことが証明されたのです。これは、証しされた、あるいは示された、とも訳される言葉です。
この偉大なる第二の出エジプトを成し遂げてくださったイエス様は、どのようにしてそのご計画を遂行されたかと言うと、「神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された」とあります。23節です。「引き渡された」には、単なる身柄の引き渡しだけでなく、「見捨てられる」「死に渡される」といったニュアンスも込められています。イエス様の父なる神様は、私たちが先ほど皆で使徒信条において告白したように、全知全能の方です。その方が全人類の救いのためのご計画を立てられ、あらかじめ「こうなる」ということをご存じの上で、イエス様の身柄を十字架にかける側の人間に引き渡されました。全知全能の神、というのであれば、そのような悲しいことを引き留めることができたのではないでしょうか?しかし、この時イエス様を窮地から救うことは、神様の御計画ではありませんでした。むしろその危機の中で、イエス様を死に渡す、ということが、ご計画だったのです。
私たちの人生でも、どうでしょうか。「私はどんなにピンチに陥っても、神様がいつも一緒だから、すべてにおいて助けられてきた」という方ばかりではないと思います。そういう恵みもあるにはあるでしょうが、時には、「この時こそ神様に助けていただきたかったのに、そうならなかった」ということも、あるのではないでしょうか。私も思い返す時、もう20年以上前のことになりますが、大学院の博士後期課程で学んでおり、博士論文まで書き上げたのに、審査延期となったまま、病を得て研究の続行が出来なかった経験があります。今になって、何とか博士号を取ることはできないか、いろいろ考え、神様にも願うのですが、高い壁が立ちはだかってなかなか先に進めません。神様、このときこそ、あなたの助けが必要です、あなたは奇跡を起こせるのではないのですか、と祈っても、簡単には事態は変わらないようです。しかも、なぜそのようになったのか、そこに何の意味があったのか、それもいまだわかりません。その後状況が変わって、「そうか、このことのために、わたしの博士号への道は閉ざされたのか」と分かれば納得なのですが、必ずしもそのようなことになるとは限らない。そのようなことが、人生には起こるのです。
イエス様のことに戻りますが、あの十字架の時、イエス様をそこから救出するのが神様なのではないか、と思うものですが、でもそうではなく、イエス様は悲しいかな、十字架にかかって行かれた。弟子たちには、敗北に見えたでしょう。もう終わりだ、と思った者もいたはずです。しかし、実はそれこそが、神様のみこころだった。普通私たちが、「これこそが神様の助けでしょう」と思うことが、単に私たちの思い込みや願望にすぎないことがあります。この時は、いくらそれが敗北に見えようと、その時の状況に沿って、イエス様が十字架にかかられる、ということが神様の御計画で、そのようになることを神様はあらかじめ予見しておられたのです。
かと言って、「それは神様の御計画だったのだから」と言って人間の罪が見過ごされるわけではありません。そこはペトロは、「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」と鋭く人間の罪を指摘しています。教会で第四週目の礼拝後に「三浦綾子読書会」をしていますが、プロテスタントの作家である三浦綾子は、この使徒言行録の時代の人々に限らず、現代に生きる私たちも、いや私も、この手でイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ、という強い罪意識を持っていると指摘することができます。
そのままで終われば、「あなたがたがイエス様を死に至らせた」という恨み節のままですが、すぐにペトロの口調は変わります。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」。まさに復活節にふさわしい御言葉です。だからこそ、伝統的に、聖書日課において、この復活節には使徒言行録の御言葉が読まれるのです。続く言葉も重要です。「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。イエス様が十字架でいのちを落とされたのは、私たちのすべての罪を背負ってのことでありましたが、私たち人類の罪を処理する方法として、十字架で一切合切の罪を背負い、それを背負ったまま、十字架でいのちを捨ててそれらを死の世界に引きずりおろしてしまう、というやり方は正当だった。実に適切な方法である。そのように父なる神様はみなしてくださり、高く評価なさったからこそ、もうそのような、正しいことをしてくださった方を死の恐ろしい世界に押しとどめておくことはできなかったのです。イエス様を、死でさえ支配することはできない。そこに、私たちが恐れる死の敗北を見ます。小学校5年生の頃ですが、やたらと死を恐れ、死とは何かと、その頃読める範囲での本を読み漁って、悩みぬいたことをなぜか今でも鮮明に覚えています。もちろんその程度の年齢の時のことですから、次第にそのような状態からは抜け出していきましたが、やはりそれが解決されていなかったからこそ、どこかに死への恐れが残っていたからこそ、イエス様を信じて死の恐れを克服できる、という聖書のメッセージは私に響いたのだと思います。死はもはや、イエス様を支配することはない。いや、イエス様は、死の支配を打ち滅ぼされたのだ。となると、もうすでに死は敗北を経験しており、私たちもまたイエス様同様に、もはや死によって支配されてしまうことはない、という確信に至ることができます。もちろん、今でも死が多くの人に悲しみをもたらすことを痛いほど知っています。それに、死というものはあらかじめ経験しておくことができない、その意味で得体のしれないものですから、その点での恐れはある。しかし、その恐れに飲み込まれ、支配されてがんじがらめになってしまうようなことはない、そのような恵みの中に、今置かれていることを感じます。
25節からは、詩編16編からの引用です。本日の交読文が詩編16編だった意味がここにあります。25節は、詩編16編8節からの引用となっています。この詩編の中で「わたし」と言われている存在は、主が右におられるので、揺るがされない、とその信仰と信仰による安心感を表明しています。右、というのは、単なる方向のことではなく、私にとって重要な位置、という意味です。この「わたし」というのは、オリジナルではダビデのことですが、後になってわかりますけれども、イエス様のことも暗示しています。
26節のことは割愛しまして、27節に進みたいと思いますが、ここに復活が暗示されています。ここで「あなたの聖なる者」という表現が見られますが、これはダビデが、自分のことを指して言ったのでしょうか。どうもそのようには思われません。これは、ダビデの当時であれば、後に来られるメシア、救い主のことを指していたのではないでしょうか。救い主が死の世界において朽ち果てるままにされるはずがない、ということです。
28節も大事なところではありますが割愛して、詩編の引用が終わった29節に進みます。ここでペトロは、言ってみれば旧約聖書の詩編の解説を始めます。先ほど少し触れた、「この詩編で言われている『わたし』とは誰か、墓に捨て置かれず、朽ち果てるままにされないというのは誰のことなのか、ということについて、述べるのです。
「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます」。このようにペトロは断言します。「はっきり言えます」は、「確信をもって言うことができます」という意味です。すなわち、ここで陰府、墓に捨て置かれない「わたし」、そして「あなたの聖なる者」と言い換えられている存在は、ダビデではない、とペトロは述べているのです。
続く30節の「ダビデは預言者だったので」という言葉には、違和感があるかもしれません。いや、ダビデは王だった、もちろん、このように詩編を書いているのだから、詩人であった、とは言えるだろうけれども、果たして預言者と呼べるのだろうか。そのように思われることでしょう。
しかし、「彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました」、すなわち、自分の子孫から救い主が出ることを知っていました。さらに、31節ですが、「キリストの復活について前もって知り」とありますように、自分ではなく、その子孫である救い主が、死の世界にとどめられることなく、復活することを「前もって知っていた」のです。このことから、大胆にもペトロは、ダビデを「預言者」と呼んでいるのです。
最後の32節で、「神は『この』イエスを」と言われるときに、今までの総まとめとして、これまで諸々述べてきた、死の世界に押しとどめられない、「あなたの聖なる者」と呼ばれる救い主としてのイエス様、というニュアンスがあるように思います。その方を、その大事な方を、神様は復活させられた。そして、「わたしたちは皆、そのことの証人です」と締めくくります。この部分は、「皆」が感じか平仮名か、という点を除いては、1987年の新共同訳、2017年の新改訳2017、そして2018年の聖書協会共同訳、いずれも見事に訳が一致しています。それだけ確かで、ほかに訳しようがないほどはっきりしている、ということでしょう。ここに、わたしたちの役割が示されています。私たちは、イエス様の復活を証言する証人として生きるのです。それは、単に一緒に「イースターおめでとうございます」と言ってお祝いする、ということの一歩先を行くことでもあります。私たちは祝うだけでなく、「キリストは復活なさった」と証言して生きるのです。
しかし、安心していただきたいのは、ここで「証人になりなさい」と律法的に述べられているのではなく、「わたしたちは皆、そのことの証人です」と、もうすでに神様によって証人にされている、という言い方がされていることです。これはむしろわたしたちにとっての良い知らせ、福音です。無理に頑張って、復活を証言する証人にならなければならない、というのではないのです。それでは、私たちにとってプレッシャーであるだけです。そうではない。恵みによって私たちを一新してくださった神様は、もうすでに私たちを、復活の証人へと変えていてくださる、ということなのです。もうすでに復活の証人になっているのだから、あとはそれらしく、復活の証人として生きて行けばいい。そのように、この御言葉は語ります。この御言葉に励まされて、自らを「復活の証人」と意識して、大胆にこの世を生きていきましょう。
天の父なる神様、私たちは今、復活の証人として御前に集います。
主よ、現在のアメリカとイランの衝突による戦火の混乱を覚え、切に祈ります。力ある国々の思惑が交錯し、多くの命が「死の支配」に脅かされています。しかし私たちは信じます。十字架の敗北に見えた出来事さえも、あなたの救いの御計画のうちにあったように、この暗闇の地にも、あなたが「命に至る道」を必ず備えておられることを。
私たちは「ナザレの人」のように小さく無力な存在ですが、復活の主が死を打ち滅ぼされた勝利を確信し、平和を証言する「証人」として生かしてください。憎しみの連鎖が断ち切られ、御前で私たちが喜びで満たされる日が来ることを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
報告
・先週はイースター礼拝でした。本日は午後に園田伝道所礼拝があります。来週は礼拝後に新約聖書の学びがあります。




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