2026年3月29日 受難主日
- 明裕 橘内
- 12 時間前
- 読了時間: 14分
聖書交読 イザヤ50章4~9節(旧約p1145)
司)50:4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。
会)50:5 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。
司)50:6 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
会)50:7 主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。
司)50:8 わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。
全)50:9 見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。
聖書朗読 フィリピ2章5~11節(新約p363)
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
説教 「死に至るまで」
説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日は受難主日を迎えています。イエス様の苦難の頂点、十字架の苦しみについて深く思う日です。またこの日は、アメリカとイスラエルが共同でイランに対して戦争を始めてちょうど1か月となる日です。その日は午後4時からここで祈祷会がありましたが、まだ何が起こっているのか、詳細は分かっていませんでした。その後、多くの尊い人命が奪われたことがわかり、翌日3月1日は教会創立70周年を祝う喜びの記念礼拝だったのですけれども、説教の前には哀悼の意を表し、平和を祈る祈りをしたことを覚えております。
今回の戦争が始まった時、早いうちに終結する、という見方もありました。また、高市首相が予算委員会で、今回の事態を指して「戦争」と述べると、野党議員の指摘により、のちに「戦闘」と言い換える、ということがありました。しかし、どんな言葉遣いをしようと、今回のこの出来事は戦争なのであり、そこでは弱者が抑圧され、多くのいのちが奪われている。その罪は、「戦闘」と言い換えたからといって小さくなるわけでもありません。このことに伴う金融市場の混乱、私たちの身の回りでは、ガソリンの値段の上昇、こういったことで、多くの苦しみが広がっています。この四旬節、私たちは苦しんできたし、今日の受難主日、そして今日から始まる受難週、私たちは苦しんでいくことでしょう。この苦しみが、イエス様の苦しみを思うきっかけになればいいのですが、どうなのでしょうか。
本日は、この受難主日に際し、聖書日課の福音書ではなく、使徒書の箇所を開いています。ここに見られるイエス様の謙遜。これは、世界をリードする指導者たちにも改めて知ってほしいような箇所です。特に、一度手を出したらもう引っ込めることができないと思いこんでいるかのような、戦争へと突き進む指導者たちには、心の底から見習ってほしいと思う聖書箇所でありますが、そう思って読むのは本来的な聖書の読み方ではないのかもしれません。本当は、「あの人がこれを読めば」と他人のことを指さすのではなく、「私がこれを読み、私が謙遜となるのだ」と自らに言い聞かせることなのでしょう。へりくだって、イエス様の謙遜が見られる聖書箇所を深く味わっていきたいと思います。
本日の聖書日課の使徒書の箇所は、お読みいただきましたようにフィリピの信徒への手紙2章5節から始まってはおりますが、実際はこの部分は、それまでの部分を受けて、6節から始まる部分の前置きとなるような、ブリッジのような部分です。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とありますが、ここでパウロが言う「このこと」というのは、これまでの部分、本日お読みしていない部分ですが、そこに書かれていることを指します。いちばん短く紹介すれば、それは4節の御言葉です。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意しなさい」(4節)。そして、このような姿勢が、キリストにも見られる、ということなのです。
もうこの部分を読んだだけでも、今起こっている事柄、この戦争のことを言い当てているようにも思われます。今戦争に関わっている国々が、それぞれ、自分の国のことばかり考えている。少しでも他国のことを考えていたら、このようなことになっていたでしょうか。他人を指さすような読み方はしない、と言ったばかりなのですが、つい嘆きの言葉が出てきてしまいました。私たちを取り巻く状況は、「私ではなく、周りが悪い」と言いやすいものです。今戦争をしている国が悪いんだ、その人たちが、もっと他人のことを考えるべきだ、と責める方向でこの聖書の言葉を読みがちで、それが許される、と思いがちです。しかし、そればかりではありません。同じように、私もまた、自分のことを考えるほどには、他人のことに注意を払っていないのではないでしょうか。どうでしょう。
翻って、私たちが主と呼ぶイエス様には、「自分のことだけでなく、他人のことにも注意しなさい」という姿勢が見られた、と言われています。いや、むしろ、イエス様の場合、「自分のことよりも、他人のことに注意した、心配りをした」と言った方が、ふさわしいように思いますが、いかがでしょうか。イエス様が十字架につけられたあとに言ったとされる「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)という祈りの言葉。これは、新約聖書の手書き写本によっては書かれていないものもあるとして、新共同訳では括弧の中に入っていますが、実にイエス様らしい御言葉であって、実際にそのように祈られたのに違いない、と思うものです。まさに、「自分のことよりも、他人のことを思いやった」イエス様の姿勢がよく表れています。
ご自分は十字架の苦しみの中で、痛いし、呼吸も苦しい中で、ご自分のことで頭がいっぱいになってもおかしくないような中で、イエス様は何とその時、ご自分の苦しみではなく、周りの人々、自分を十字架に付けてしまったような人々のことを考えておられた。ご自分に対してそのように罪を犯しているような人々のことなど、考えなくてもよかったのではないでしょうか。あるいは、あまりの苦しみの中で、「そのような者は、神に裁かれてしまえ」とのろってしまってもおかしくなかったような中で、何とイエス様は、自分のことよりも、他人のことを思いやり、その赦しを願った。誰でも信仰者であれば、程度の差こそあれ、イエス様のように生きたいと願うはずです。戦争をやめないでいる国々、地域のリーダーたちの中には信仰を表明している人もいるわけですから、このイエス様の姿に倣いたい、と思わないのでしょうか。今日はどうしても、世界のあるリーダーたちを責めるような調子になってしまいますが、自らがまず、このようなイエス様の姿に倣うものであるよう、願いたいと思います。
6節以降は、このフィリピの教会をはじめ、初代教会で用いられていた讃美歌だと言われます。まず6節ですが、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、」とあります。7節までつながっていますが、まずこの部分だけ見ていきたいと思います。
この箇所をいくつかの聖書翻訳で読んでみると、どれも異なる訳をしていることがわかります。例えば、「キリストは、神の身分でありながら」という部分、新改訳では「神の御姿」、いちばん新しい2018年の聖書協会共同訳では「神の形」と訳しています。このように、「身分」「御姿」「形」と訳されている言葉は、ある英語訳ではform (NKJV)と訳されています。
「神の身分」の直訳は、「神のかたち」、あるいは「姿」である、と言われることがあります。パウロが、キリストを神と等しいと理解していたこと、そしてそのキリストが、神の栄光を表していると理解していたことがわかります。
キリストは神であられた。それにもかかわらず、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と言われています。これは何を意味しているのでしょうか。それは、「自分にこだわらない」という姿です。多くの人が悩み苦しむ理由には、「自分にこだわっている」ということがあるのかもしれません。「こういう自分であるべきだ」「私は〇〇のようには見られたくない」と思いこむ中で、それと自分の意識や周りからの評価がずれてくるときに、思っているのと違う、ということで悩むわけです。
私たちが自分にこだわる、といっても、それで守ろうとしているのはせいぜい今までの経験であるとか経歴、限りある財産、といったものかもしれません。しかし、イエス様は神様であられるというご自分の栄光にこだわらずに、それを守ろうともなさいませんでした。そんな貴重なもの、誰もがうらやみ、絶対に手放したくないと思うはずなのですが、イエス様は私たちの想像をはるかに超えておられます。私たちだったら決して手放したくないと思うようなものまで、イエス様はそれにこだわらずに、手放してしまわれました。神と等しい方であったのに。何という、大きな犠牲でしょう。なぜそこまでするのですか。それは、私たちのためです。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意しなさい」という御言葉を地で行って、そればかりか、それをはるかに超えて、自分のことはおいても、他人のことばかりお考えになられたイエス様。十字架の苦しみの中でさえも、自分のことは顧みずに、何もわからないままに罪の中にいる多くの人々のことを思いやり、その赦しを願われるイエス様。この方は、そういう方だったのです。
続きを読んでいきましょう。「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。7,8節の御言葉です。自分のことよりも他人を優先させたイエス様は、かえって自分を無にして、僕の身分になりました。ここの「僕の身分」は、先ほどの6節の「神の身分」と対応しています。神の身分であった方が、僕の身分になるなど、いまだかつてそんなことがあったでしょうか。歴史の中で、王が失脚し、僕のような身分にまで身をやつすということは今まであったかもしれません。しかし、イエス様はそれを越えておられます。イエス様は単なる王ではなく、神であられたのです。永遠の昔からおられて、父なる神様と共に世界をつくり、これは先週ご紹介した言葉でしたが、lあまねく存在することができる、「遍在」というご性質を持つ、光の光であられる輝かしい方。本来なら、この方の前にすべてがかしずかなければならないのにも関わらず、そのような栄光の王の王、主の主であられるような偉大な方が、すっかりそれを無いものとして、僕の身分に身をやつす。一言で言えば、天におられる栄光の方が、私たちのいる地上にまで低く降りてきてくださった、ということです。それは、私たちを探すためです。私たちに会うためです。私たちを求めて、自分のことよりも私たちのことを考えて、イエス様はすべてを無にして、降りてきてくださったのです。
この方のへりくだりのことは、もうこれ以上お話しする必要もないことでしょう。この方が、人間の姿になり、へりくだって、そして、どう書かれていますか。そう、「死に至るまで」従順だった、とあります。しかも、その死というのは十字架の死であった。誰もが避けたい、誰もがそれを見たら敗北だと思う、そのような不名誉な十字架の死を、避けることなく、かえって率先してそれに向かって行かれたのが、私たちのイエス様でした。
実は、この「死に至るまで」という御言葉ですが、旧約聖書にも見られます。ヨブ記の27章5節で、ヨブは苦しみの中で、このような言葉を放ちます。「断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する」。ヨブの友人たちは、ヨブに何か隠れた罪があるから、そのように苦しむのだ、と主張しました。それは、ヨブにとって何の慰めにもならない、彼をただ苦しめるような言葉でした。それに対してきっぱりと、「死に至るまで、わたしは潔白を主張する」とヨブは言ったのです。
このフィリピの御言葉よりも後に、使徒ヨハネは、その黙示録の中で、2度「死に至るまで」という御言葉を書いています。まず1度目は、
「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(ヨハネの黙示録2章10節)
この部分です。たいへん印象的で、そらんじておられる方もおられることでしょう。
2度目は、この箇所です。
「兄弟たちは、小羊の血と/自分たちの証しの言葉とで、/彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(ヨハネの黙示録12章11節)
先ほどの「死に至るまで忠実であれ」という御言葉と呼応関係があるように思われる箇所です。「死に至るまで忠実であれ」。そして、「死に至るまで命を惜しまなかった」、ということです。
まさにこの御言葉を地で行くかのように、イエス様は「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。この受難主日に、私たちはこのイエス様の十字架の死に至るまで従順だった姿を見ています。
この従順さは、父なる神様がイエス様に、全時代の全人類の救いのために、その罪を十字架で背負って命を捨てるようにご計画なさったときに、それを厭わず、「待ってください」とも「考えさせてください」ともおっしゃらずに、黙々と、そのご計画に従って歩まれた、その従順さのことを意味しています。まさに死に至るまでの従順さです。このような従順さをいただくことが出来たら、何と幸いなことでしょうか。
このキリスト讃歌は、偉大なる頌栄へと向かって行きます。9節が意味していること。それは、一度低くなって、そして高くされる、ということです。もともと高いところにおられたキリストが高く上げられたのではないのです。地にまで身を落として、そこまで低くなったキリストが、父なる神様に認められて、それで高く上げられたわけです。
もしここから今朝の私たちへのメッセージを受け取るとしたら、私たちもまた、身を低くして、そして神様によって引き上げられる、ということでしょう。これもまた、私たちに身を低くすること、キリストのような謙遜を身にまとうことを勧めます。低くされることを厭う必要はないのです。ここに、私たちのもともと持っている古い価値観との対決、衝突があります。ただし、それはあくまで、神様によって低くされ、謙遜にさせられる、ということです。人間の知恵によって、「このぐらいしたら、さすがに謙遜だと認められるだろう」といった尺度ではないのです。
讃美歌はクライマックスへと向かい、その頂点において、「イエス・キリストは主である」と公に宣べることに至ります。これは、私たちの日々の信仰の告白です。「イエス・キリストは主である」。このように告白しながら、私たちは歩むのです。それはいつまでなのか。それが、先ほどあった、「死に至るまで」ということであるのは明白です。私たちは死に至るまで忠実に、イエス様を主であると告白して生きるのです。
ただ、今朝は受難主日ですから、この「死に至るまで」はイエス様に関わる御言葉として聴きたいと思います。もちろん私たちも「死に至るまで」忠実に生きるのですが、その前に、私たちより先んじて、あるいは私たちの代わりに、「死に至るまで」従順に歩まれた方がおられました。私たちのための救いの道を開くために、私たちの主であるイエス様は、その十字架の死まで、神様に従って歩まれたのです。イエス様のこの従順、私たちのための十字架があったからこそ、私たちは今こうして救われて、神様の前に罪を後悔して涙するのではなく、罪が赦されたことに安堵して、安心して神様の前に近づくことができるのです。
お祈りいたします。
天の父なる神様。今朝もこの礼拝の時をありがとうございます。受難主日を迎えました。私たちのためのイエス様のお苦しみに思いをはせております。神であられるイエス様が、ご自分を無にして、徹底して自らを低くなさり、私たちのもとまで降りてきてくださいました。また、もともと死ぬことのない永遠の神であられたのに、死に至るまで、十字架の死に至るまで父なる神様の御計画に従順でした。それがあって、私たちの救いがあること、改めて感謝をいたします。私たちも、死に至るまで忠実でありますように。イエス様を主であると告白して、歩みを続けることが出来ますように。今地上で起こっている様々な悲しみが、癒されていく時が来ますように。特に、イランでの戦争に一日も早く解決が与えられますよう、心からお願いします。悩み苦しむ魂に、あなたの慰めが届きますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日礼拝後、70周年記念委員会をします。
・4月3日(金)夜7時 受苦日礼拝(聖餐式)
・4月5日(日)復活祭 イースター礼拝
午後は1時より墓前礼拝です




コメント