2026年5月24日 聖霊降臨祭(ペンテコステ)
- 明裕 橘内
- 5月24日
- 読了時間: 11分
聖書交読 一コリント12章3~13節(新約p315)
司)12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
会)12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
司)12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
会)12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
司)12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
会)12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
司)12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
会)12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
司)12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
会)12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
全)12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
聖書朗読 ヨハネ20章19~23 節(新約p210)
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
説教 「聖霊は教会のために」
本日は聖霊降臨祭の日です。ペンテコステとも呼ばれています。父なる神様と御子であるイエス様から送られた聖なる霊、すなわち聖霊が、信じる者一人一人の上に降ったことをお祝いする日です。
今日は、聖書日課から、使徒書の箇所を交読で一緒に読み交わしました。そして、福音書の箇所を、聖書朗読の箇所に選びました。また、この聖霊が降った様子をよく表している使徒言行録(使徒の働き)の箇所も、あとでご紹介したいと思っております。
まず、福音書の箇所を改めて読みたいと思います。
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
このように、イエス様は集の初めの日、すなわち、今で言う日曜日にお姿を現してくださいます。そのこともあって、私たちは今、日曜日に、礼拝のために集まっています。集の初めの日、日曜日にお姿を現してくださったイエス様にお出会いするためです。
この方は、「あなたがたに平和があるように」(19節)とおっしゃいました。国々の争いが絶えない世界ですが、そのただ中に、まさに「真ん中に立ち」、イエス様は平和を宣言してくださるのです。
そう宣言されると、「手とわき腹とをお見せになった」(20節)とあります。イエス様は、ご自分が、弟子たちのために、そして、全世界の、すべての時代の人々のために、身代わりとなって十字架にかかられたことをお示しになったのです。それは、イエス様の深く、広い愛の表れでした。ですから、「弟子たちは、主を見て喜んだ」と言われているのです。
イエス様はもう一度、「あなたがたに平和があるように」(21節)と願われます。どれだけこの平和が私たちにとって大事なのか、そのことを諭しておられるかのようです。これは、ただ世界に戦争がなく、その意味で平和であるように、と願われただけではありません。私たちが父なる神様と平和な関係でいて、それによって心穏やかである、ということも意味しています。そして、そのような神様との平和を、私たちが人々に告げ知らせるように、との願いもありました。ですからこそ、続けてイエス様は、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃるのです。
そんな大きなこと、と思われるでしょうか。もしかして弟子たちも、「そう言われても」と思ったかもしれません。だからこそ、イエス様は「彼らに息を吹きかけて」、こう言われるのです。「聖霊を受けなさい」(22節)。この言葉の重みを感じます。
この「聖霊を受けなさい」という言葉通りのことが起こったのが、聖霊降臨の出来事でした。ペンテコステと呼ばれる日の出来事です。「ペンテコステ」とは「50」、という意味ですが、ユダヤにおける大事なお祭り、過越祭から50日目、という意味です。大麦の収穫感謝祭でした。この出来事のことが記されているのが、使徒言行録(使徒の働き)2章1節から21節なのです。かいつまんで、どのようなことがあったか、ご紹介します。必ずしもお開きいただかなくても構いません。
その日のこと、ペンテコステの日の朝のことですが、イエス様を信じる者たちが一つに集まってお祈りをしていました。すると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:2~2:4)とあります。今の私たちでは理解できない、想像を超えた出来事でした。
このあと、この大きな物音を聞いて、「どうしたんだろう」と多くの人々が集まってくる様子が記されています。この人々は、「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」(5節)だった、と言われています。この人々がその時気付いたのは、「自分の故郷の言葉が話されている」(6節)ということで、それで驚いていました。そして、メソポタミアやユダヤ、エジプトなど、たくさんの国や地域の名前を出してきて、「みんなガリラヤの人なのに、それぞれが私たちの国の言葉で話している。しかも、「神の偉大な業を語っている」(11節)ということで、とまどってしまって、「いったい、これはどういうことなのか」(12節)と互いに話し合っていました。
中には、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(13節)と言ってあざける人たちもいたので、そこでその頃使徒たちの代表格であったペトロが立って、有名なペンテコステの日の説教をしています。その中では、まず「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」(15節)と語られ、そのあと、この大きな出来事が、旧約聖書の預言書であるヨエル書の預言の実現だった、ということを説明します。
このように、イエス様が「聖霊を受けなさい」と言われたことは、うやむやになることなく、その数十日後には、このようにペンテコステの日に、聖霊降臨という形で実現したのです。その中で大切なのは、聖霊を受けた人々がいろいろな国や地域の言葉で語り出したという目覚ましい現象ではありません。それも目を引く事柄でしたが、それよりも大事なのは、そのいろいろな言葉で、「神の偉大な業を語っている」(11節)ということでした。語っていた内容が大事、ということです。そこで、習ったこともないような外国語を話していた、何でなんだろう、ということよりも、彼らが語っていたことが、神様の偉大な業を語っていた、ということの方が大事なのです。神様の偉大な業とは、イエス様の十字架と復活のことだったと思います。イエス様が週の初めの日である日曜日、ユダヤ人を恐れて堅く戸を閉ざし、鍵まで閉めていた弟子たちに現れて、ご自身の手と脇腹についた十字架の傷を示されたイエス様。そのイエス様の十字架を、大事なこととして、聖霊を受けて、語っていたのです。
この聖霊の現われがどう現在にまで続いているか、それを述べるのが、礼拝の初めに交読文で読んだ、使徒書の箇所なのです。コリントの信徒への手紙一12章3節からの箇所でした。
覚えてらっしゃると思いますが、その中で、7節に、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」と言われていました。聖霊降臨の出来事自体、先ほどご紹介したように、驚くような出来事でした。聖霊の現われと言うと、どちらかというと目覚ましい、目立つ働きのようにも感じられます。第一コリント12章9節、10節には、病気をいやす力、あるいは奇跡を行う力などが紹介されていますから、教会において、それが目覚ましい働きとなり、ある意味でスタンドプレーのようにもなってしまう傾向もあったと思います。だからこそ、パウロはここで、「個が目立つのではなく、全体のためですよ」と語ったのではないでしょうか。これは単にパウロの思いつき、あるいは考えから出たことではありません。大もとをたどれば、「聖霊を受けなさい」と言われたイエス様の思いにもたどり着きます。イエス様は何も、目立った働きがあることを願ったのではありません。いやしだって、奇跡だって、それが教会で起こった時に、教会の人々みんなが喜び、一致して神様をあがめるようになることを、願っておられたのです。
そのように、教会において、聖霊の現われが、全体の益となる、これがイエス様の願いでした。そして、その思いを受け取って、パウロもそのように書き送ったのです。そのように、聖霊の現われが教会全体の益となって、教会は何を伝えていくのでしょうか。
それは、使徒言行録の御言葉にカギがあります。少し長くなりますが、読んでみます。お開きにならなくても、お聞きいただくだけで構いません。ヨエルの預言についてです。ペトロはこう語ります。
2:16 これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
2:17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
聖霊が一人一人に注がれて、若者は幻を見、老人は夢を見るようになるのです。そして、最後に約束があります。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」。ご自身の御傷を示して十字架の愛をお伝えになられたイエス様は、聖霊によって神様の偉大な業が語られるよう導かれました。それはまさしく、イエス様の十字架と復活による救いの御業のことでした。そのような聖霊の働きは教会に受け継がれ、聖霊は教会において働き、それが全体の益となるように導かれます。それによって励まされた教会は、聖霊の力によって前進して福音を伝え、幻と夢を見ながら希望に満ちて、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」という輝かしい福音を、伝え続けていくのです。
まさにそのことは、イエス様がヨハネの20:23を通して私たちに伝えたいメッセージにつながります。私たちが聖霊に促され、押し出されて「主の名を呼び求める者は皆、救われる」 と語るとき、人は聞いて救われていきます。それは罪の赦しを伴うものです。そのことを、イエス様は「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と表現されました。私たちが罪の赦しと救いの福音を告げ知らせるなら、それはあたかも、私たちが誰かの罪を赦すようなものだ、とイエス様は見てくださるのです。そのようにして、私たちは聖霊によってどんどん福音を宣べ伝え、罪の赦しの恵みを実現させていきます。その一方で、イエス様は「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とおっしゃいます。罪を赦さずにいたら、それはそのまま残る、ということです。この世を軽視し、聖霊の働きもしらない、滅びに向かう愚かな人々、といった目で見ているならば、そんなことはないと思いますが、私たちの口から福音の言葉が出るはずがありません。そうであれば、世の罪は福音を聞かずに、結果的に赦されずに残る、ということなのですから、その意味では私たちの責任はまことに重い、ということにもなります。ですが、「聖霊を受けなさい」というイエス様の促しに乗って聖霊を受け、その語らせてくださるままに「主の御名を呼び求める者はみな救われる」と大胆に語っていく時に、罪の赦しは実現し、罪は消え去ります。そのような素晴らしい、恵み豊かな世界を夢見て、それに憧れて、語り続けてまいりましょう。
お祈り
天の父なる神様。私たち一人一人のことを深く思ってくださり、今朝このように礼拝の場へと導いてくださり、感謝いたします。私たち信じる者一人一人に聖霊を与えてくださって、ありがとうございます。この聖霊は、教会全体の益となるよう働かれると聞きました。どうか、この園田伝道所を祝してくださり、この教会全体の益のために、これからも聖霊の働きが豊かでありますように。そして、聖霊を受けて、罪の赦しの福音を伝え続けることができるように助けてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン




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