2026年4月5日 復活祭(イースター)
- 明裕 橘内
- 13 時間前
- 読了時間: 13分
聖書交読 イザヤ25章6~9節(旧約p1098)
司)25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
会)25:7 主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
司)25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
全)25:9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
聖書朗読 コロサイ3章1~4節(新約p371)
3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
説教 「上にあるものを求めて」
説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
イースターおめでとうございます。私たちのために十字架にかかられたイエス・キリストが、死を打ち破って復活なさったのを祝う日です。この日私たちは、「上にあるものを求めなさい」という聖書の言葉からの勧めをいただいております。
いきなり野球の話題で恐縮ですが、メジャーリーグの注目選手である大谷選手が、日本時間の4月4日にようやく今シーズンのホームラン第一号を打ちました。すると話題になったのは、ようやくシーズン開始7試合目でホームランが飛び出たとか、そういうことだけでなく、あるしぐさ、ポーズについてでした。映像で見ると一瞬のことなので分かりにくいのですが、写真ではその決定的なシーンが捉えられています。大谷選手がホームランの後ベンチに戻るときに、天を仰いで両手を組み、まるでお祈りしているかのようなポーズを見せているのです。今までそのようなしぐさを見せたことはないようで、ロバーツ監督は「何らかの大きな力が働いたのかもしれない」とコメントしていますが、「上にあるものを求めなさい」と勧められている私たちからすると、何か印象的な姿です。
それでは、本日の聖書箇所、どんなことが書いてあるのか、もう少し詳しく見てまいりましょう。
今日開いているのは、パウロの筆による、コロサイの信徒への手紙の一部です。コロサイというのは都市の名前で、現在のトルコ南西部にありました。以前は毛織物産業で有名だった町も、およそ2000年前、パウロの時代には衰退して小さな町になっていたとも言われます。そこにはギリシア人も移り住んでおり、また、のちにはユダヤ人も移り住むようになっていったようです。町の周囲には数多くの宗教や哲学が信奉され、時にはそれらが融合した、と言われると、今の日本と似たような状況だったのかもしれません。それらが教会に入り込んでくると、厄介な問題となり、その解決のために、パウロが61年頃、この手紙を書き送ったと言われています。そのときパウロは、ローマの獄中にいました。
パウロはキリストについての教え、特にキリストがこの世界をつくられた、ということを教え、この3章から、この教えに基づく倫理的な生活を説いています。その冒頭に、今日私たちが祝うキリストの復活について、触れています。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」とありますが、キリストの復活が、コロサイの信徒たちと深くかかわっている、という言い方をしています。コロサイの信徒たちは、このキリストを信じて、洗礼を受けていました。その意味は、洗礼によってキリストと深く結びつき、十字架で死なれたキリストと同じように死に、復活なさったキリストと同じように、復活した、ということです。そのことを受けて、「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」と述べているのです。
このことは、何もコロサイに限ったことではありません。私たちは聖書を、「昔の人はこうだった」ということを知るためだけに読んでいるわけではありません。聖書は、私たちにも語りかけます。「コロサイの教会の人々だけでなく、あなたもまた、キリストを信じて洗礼を受け、キリストと同じように死に、キリストと同じように復活したのだ、と伝えるのです。今日は、午後に住吉霊園教団納骨堂にて墓前礼拝がありますから、召天者の方々のご家族、関係の方も多くお見えかと思いますが、キリストを信じて洗礼を受けて世を去った方々も同じように、キリストと同じように死に、キリストと同じように復活するということを経験しておられたのです。
先ほどからお話ししておりますこのキリストの死に関しては、イエスというお方が十字架で死を迎えたということは、歴史的事実とされています。このイエスをキリスト、即ち私たちを救う救い主である、と信じるのが、私たちキリスト教です。キリストは、本来であるならば神の御子である方として、死を経験する必要のない、永遠の存在でした。しかしその方が、限りのある、有限の世界に身を落とし、人間と同じ姿になって、人間の悩み苦しみを身に負って深くご経験されました。そのことによって人間の心がわかり、人間の歩みに深い影を落とす死の悩みを解消するために、何とご自身が十字架にかかり、命を落とすことによって死の暗い力を打ち破ってしまわれたのです。もうこうなると、死はキリストを死の世界に押しとどめることが出来ず、キリストは死から復活されました。
このように、死の力を打ち破られたキリストを信じて洗礼を受けることは、キリストがなさったこと、ご経験なさったことをこの身に追体験するために必要とされるものです。人は洗礼を受けて、キリストが十字架で死なれたように、死を体験します。ただそれは、古い自分に死ぬ、古い人生に別れを告げる、といった意味においてです。ですから、キリストが復活したように復活する、ということは、新しい自分に生まれ変わって、まったく新しい人生を歩みはじめる、という意味になります。コロサイの信徒たちも、代々の信仰者たちも、また召天者の方々も、ここにいる私たちも、そのように、古い自分に死に、新しい命を生きているのです。
そのような私たち、古い人生に決別した私たちが、いつまでも名残惜しそうに、地上のことにばかり目を向けているのは不自然なことです。むしろ私たちは、パウロに勧められるまでもなく、「私はキリストによって、新しい人生を歩むのだ」と、希望を胸に、目線を上に上げて、上を向いて人生を歩み出すのです。
ところが、人間はそのようにはうまくいかず、何か地上のものにとらわれてしまって、なかなか目が上に向かない、ということもあるのです。だから、パウロのように、「上にあるものを求めなさい」と勧めてくれる人物が必要なのです。その意味では、パウロは神様が私たちに送ってくださった存在で、神様のみこころを私たちに代わって伝えてくれるのです。ですから、これは単に、人間の勧めの言葉ではありません。神様が私たちに、「上にあるものを求めなさい」と勧めているのです。
もちろん、ここで言われる「上」というのは、「天」のことです。天にあるものを求めなさい。あるいはもっとはっきりと、「天国にあるものを求めなさい」と言い換えることもできるでしょう。
「天国にあるものを求めなさい。それらに目を向けなさい」と絶えず言われなければならない私たちは、地上のどんなことが気になるのでしょうか。先ほどコロサイの教会の置かれた状況をお話ししました。様々な宗教や哲学、これはギリシア哲学のことですが、これらが渦巻いており、時にはそれらが融合したりしていた状況で、そういったものが教会の中にも入り込んできていた、ということなのですが、ではたとえばどんな間違った教えがあったのでしょうか。
ひとつには、それは霊を善とし、肉を悪とする、霊肉二元論です。実は日本にも、そういった考え方は見られます。霊を善とし、肉を悪とする、ということは、精神的な事柄は重視し、身体的な事柄は何か俗的な、汚らわしいものとみなすような考え方に近いでしょう。こういった考え方が、当時のコロサイの教会に入り込み、キリストによって、霊と肉の隔てなく、全存在が救われ、きよくされたのだ、と教える教えの圧倒的な輝きを曇らせていたのです。これは現在でもありがちで、神様が私たちに身体を与えていてくださることを厭うような、それによって命の躍動、輝きを減じてしまうような考え方につながってしまうと考えられます。
もうひとつ、今日触れておきたいと思いますが、それは、古いしきたりにがんじがらめになってしまう考え方です。たとえば、コロサイの教会において、ユダヤ教の古い言い伝え、しきたりを遵守することを主張するような間違った教えです。この日はあの日より大事、この食べ物は清いがあれは汚れているので食べてはならないと、人を縛り付ける教えです。キリストは世に来られて、そのような束縛の中で苦しむ人々を解放なさったはずでした。それなのに、もう一度古い教えを取り出して、「やはり救われるには、これも守る必要があるし、あれも守らなければならない」と言い出していて、たいへん真面目な日本人にも、ともするとそのような傾向がないとは言えません。
霊は善、肉は悪、といったような霊肉二元論、また古いしきたりに束縛される生き方は、古い私の人生には親和性があり、そのような中で私たちは生きていたのです。そこから脱する洗礼を受けた後も、何か後ろ髪引かれるように、やはりそのように生きていた方がいいのではないか、と古い世界に戻ろうとしてしまう。その理由のひとつには、「恐れ」というものがあるのでしょう。「もう何にも束縛されない、自由だ」と言うのには、やはり強さも必要なわけです。こんな大胆に生きようとして、大丈夫なんだろうか。もしかして知らないうちに、ばちに当たるのではないだろうか。そんな恐れを抱いたら、上を向いて、天を仰いで生きることなどできません。やはりこれも守っておこう、あれもやっておかなければ、と地上のことであくせくして、目は地上に向いたまま、ということになりかねません。
だからこそ、私たちには、コロサイの信徒たち同様、「上にあるものを求めなさい」という御言葉の勧めが必要なのです。それを受けて、私たちは視線を上に上げて、天にある、天国にあるものを求め出すのです。
それでは、具体的に、「上にあるものを求めて生きる」とはどういうことなのでしょうか。ひとつには、2節にあるように、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」ということで、「地上のものに心を引かれないようにする」ということが挙げられます。霊肉二元論に陥らない。古いしきたりに束縛されない。もちろん、私たちの身の回りにある、私たちが共有すべき価値観は大事にしたうえでのことですが、こういったことが考えられます。しかし、これは「~しないようにする」という、やや否定的なことなので、何か「こうする」という、積極的な面が欲しいですね。その手がかりは、1節の後半にあります。
「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」
そこ、それは上、天、あるいは天国のことです。天国では、キリストが、神の右の座に着いておられる。これは、右、左の位置のことというよりは、権威ある、重要な場所、という意味です。天国における実に重要な位置に、キリストはおられる、という意味です。なぜこのことをパウロは告げるのか。それは、「天国には、その重要な位置にキリストがおられるのだから、キリストに目を留めよ」ということなのです。
3節においても、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」と、キリストのことについて宣べ、4節では、「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と、2度もキリストに言及して、キリストのことを強調しているのがパウロです。これによってわかることは、天国にあるものを求めるとは、キリストを大事にし、キリストを求めることでもある、ということです。
3節に戻りますと、「あなたがたは死んだのであって」とあり、先ほど、キリストを信じて洗礼を受けて、私たちはキリストと同じように死んだのだ、とお話ししていたことについて、パウロは述べています。洗礼を受けて、私たちはキリストと同じように死んだ。そして、その命はキリストと共に、神様の内に隠されている。印象的な言葉ですが、私たちの命の輝きは、ある意味で隠されている、ということがあるのです。洗礼を受けてキリストと共に死に、キリストと共に復活したからといって、さほど他の人と変わらないし、ひとりだけ光り輝いている、ということもない。他の人と同じように、この世において罪にあえいでおり、時には病を抱えて苦しんだり、悩み事を抱えたりするわけです。まして今は、降ってわいたように起こった戦争の影響を受けて、物価の上昇に苦しみ、生活の不安を感じるのです。そして、その生涯を終えれば、墓に収められる私たちです。これを表現するならば、その命が神様の内にかくされている、ということなのです。外から見えない。でも、大事なその命はちゃんとあって、神様の内に隠されているだけ。これは大きな希望です。命がないわけではないのです。確かにあるのです。復活のいのちが、私の中にあるのです。だけれども、それはなかなか外に見えるものばかりではない。でも安心できるのは、それは神様の内に隠されているだけだ、という事実なのです。このような大事な真理、私たちを慰める教えに深くかかわるのが、このキリストです。「キリストと共に神の内に隠されているのです」とあるように、キリストは私たちと共にいてくださるのです。
「あなたがたの命であるキリストが現れるとき」というのは、キリストの再臨の時のことです。キリストが再びこの世に来られるのは、復活の命を明らかにするためです。ごく一部のキリスト教教派が主張しているような、最終戦争のためではありません。そのときに、私たちの持つ復活の命は、もう隠されることはありません。キリストが偉大なる光であるのと同じように、私たちも光り輝き、また、すでに世を去った人々は、この時復活の体が与えられ、霊的な意味ではなく、真の意味で復活するのです。このことにも、キリストは深くかかわっている。結論としては、そのようなキリストを、大事に見つめながら生きる、それが、上にあるもの、天にあるものを求める生き方だ、ということなのです。
今日、共に上を見上げましょう。ただ空を見上げるのではないのです。天におられるキリストを見上げるのです。そうすると、不思議なことに、先ほども少し触れたのですが、キリストはそこここに、地上に生きる私たちと一緒にいてくださることも、また見えてきます。キリストは神の御子として、どこにでも、あまねく存在できる方として、私たちに臨んでくるのです。後に行われる聖餐式にも、キリストは目には見えないお姿ではありますが、臨んでくださり、私たちと共にいてくださいます。キリストのまことの体であるパンと、キリストのまことの血であるぶどう酒がそこにある時、キリストもそこにおられるのです。私たちが上にあるものを求める、すなわち、キリストを求めて生きる時、神様の確かな導きがあり、祝福があるように、祈ってまいりましょう。
お祈りいたします。
天の父なる神様。私たちのために十字架にかかり、命を落とされた私たちの救い主、イエス・キリストが、死を打ち破って復活なさったことを喜び、あなたのお名前を崇めます。戦争が私たちの日常生活に暗い影を落とす日々を過ごしていますが、目を天に上げて、復活のキリストに目を留めて、キリストを求めて生きることが出来ますように。戦火の絶えない地に、あなたの平和がありますように。困難多き人生を歩む人々に、あなたの力強い助けがありますように。病のいやしが必要な人々に、あなたの優しいいやしの手が差し伸べられますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日、イースター礼拝です。午後は昼食会を挟んで午後1時より住吉霊園教団納骨堂にて墓前礼拝です。




コメント