top of page

2026年4月19日  復活節第三主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 8 時間前
  • 読了時間: 13分

聖書交読 詩編116編12~19節(旧約p956)

司)116:12 主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。

会)116:13 救いの杯を上げて主の御名を呼び

司)116:14 満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。

会)116:15 主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。

司)116:16 どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。

会)116:17 あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び

司)116:18 主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で

全)116:19 主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。

 

聖書朗読 Ⅰペトロ1章17~23節(新約p429)

1:17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。

1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、

1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。

1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。

1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

 

説教 「地上に仮住まいする私たちの希望」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

皆さん、おはようございます。先週は、私たちの生活に物価の面などで直接かかわるアメリカ・イスラエルとイランの戦争の話題よりも、もっぱら京都府南丹市の痛ましい事件のことばかり報道などで取り上げられていたようです。いずれも私たちの暮らしの安心、安全が脅かされる、という点では共通しているのかもしれません。私たちが地上で生きていく上では、様々なことが起こり、それを経験していくのです。そのような地上での生活のことを、聖書はどのように述べているのでしょうか。

 

本日はその謎を紐解くために、聖書日課の使徒書であるペトロの手紙第一1章17節~23節を開いております。使徒ペトロが書いた手紙で、ルターも、福音について明らかに記しているとして、新約聖書の中で有益な書として挙げています。

 

この手紙は、離散のクリスチャンに向けて書かれました。今のトルコの中央部から北部の地域にかけて散り散りになっていた信仰者たちで、大部分は異邦人だったと考えられています。彼らは4章の御言葉によりますと、試練に遭っていました。それはローマ帝国によるキリスト教への大規模な迫害というよりは、異教社会でキリストを信じる信仰者たちが敬虔に生きようとするときに経験する軋轢のようなものだったと言われています。その点では、異教社会とも言える日本のキリスト信者も大いに参考になる手紙、と言えるでしょう。

 

本日開いている部分を分析してみますと、信仰の書ですから、「キリスト」や「神」が勿論多く見られます。「キリスト」が4回、「神」が3回用いられています。ここでは、「キリスト」は4回とも「イエス・キリスト」でも「キリスト・イエス」でもなく、単独で「キリスト」と言われています。この前の部分や、後には「イエス・キリスト」も多用されていますし、5章では「キリスト・イエス」も用いられています。このキリストと神との関係に関しては、21節で「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています」という表現がなされています。

 

そのほかにこの短い箇所で繰り返されているのは、「朽ちる」と関係する言葉です。18節で、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず」と言われ、そこに「朽ち果てる」が用いられています。そのあと、23節で「朽ちる種からではなく、朽ちない種から」と対比されて用いられています。

 

愛に関する言葉も繰り返されており、22節に「偽りのない兄弟愛」として、それから「清い心で深く愛し合いなさい」という勧めの中で用いられています。17節から21節まで救いについて述べられた後、それを受けて、信仰者の実践、という側面を強調するために、用いられています。

 

もうひとつ、実は「生活」という言葉も、2回用いられているのです。私たちの地上での生活について、大いに気になるところですが、私たちが神様を畏れて生活するのだ、ということ、そして私たちが救われたのはむなしい生活からなのだ、ということが言われる中で、用いられています。

 

さて、それでは改めて、聖書本文を少しずつ見てまいりましょう。今日は取り上げました聖書箇所の冒頭から、大事なテーマについて述べられています。改めて読んでみましょう。「また、あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼んでいるのですから、この地上に寄留する間、畏れをもって生活しなさい」。「この地上に仮住まいする間」は「この世に寄留している時」、「この地上に寄留する間」などと訳されています。私は読んでいて、この新共同訳の「仮住まい」という言葉が印象的で、心に残りました。私たちは、この地上で生活する中で、悲喜こもごも、様々なことを経験するわけですが、それを聖書は、「仮住まい」である、と表現しているのです。なるほど、と納得する表現ではないでしょうか。なぜ私たちの地上での今の歩みはこれほどまでに統一が取れておらず、突発的な出来事も多く、まさか、ということの連続なのでしょうか。そのことをお考えになられたことがあるでしょうか。その答えのひとつには、聖書が、「あなたの地上での生活は、あくまで仮住まいなのですよ」と語っているのです。なるほど、仮住まいであれば、様々な不都合があることも理解できますし、不便なこと、思いがけないようなこともあるのでしょう。

 

その仮住まい、まさに寄留者として歩む生活の中で、あなたがたは「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけている」とペトロは述べます。そのような信仰生活へと、経緯は違えど、私たちはひとりひとりが招かれ、導かれました。そして「その方を畏れて生活すべき」だと言われているのが、この仮住まいの生活なのです。

 

この「生活」に関しては、続く18節でも述べられています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、」と文章の途中ですが、まずこの18節だけ見ていきたいと思います。この節に関しては、他の聖書翻訳を読んでも、さほど訳が変わりません。それだけ原文が明瞭に書かれている、というだけではなく、大事なことを伝えたい部分だからこそ、わかりやすいように、メッセージが伝わりやすいように、明解に書かれている、とも言えるでしょう。ここでまず言われていることは、私たちの以前の生活です。キリストに出会うまでの生活、ということです。今日の聖書の箇所は、私たちの以前の生活、そして、寄留者として送る仮住まいとしての今の生活と、この生活、ということを重視していることがわかります。

 

それはそうと、ここでは、私たちのキリストに出会うまでの生活が、「先祖伝来のむなしい生活だった」と表現されています。これに関しても、確かにその通り、とうなずけるのではないでしょうか。私が親元にいる頃、「長男は跡取りなんだから」と言われ続けて生活していたことは、親を心から愛して敬い、仕えて生きるほのぼのとして充実した人生へと私を導いたのではなく、かえって親に反発し、「なぜ弟なのに長男と言われ、跡取りだと言われてプレッシャーをかけられて生きなければならないのか」と不満に思いながら生きる生活へと私を追いやるだけでした。そのような暗黒の青年時代に、私は導かれて教会に行くようになったのですが、そこで出会ったのは長男だろうと何だろうと関係ない、私が私として大事にされる信仰の世界でした。

 

そのように、むなしい生活から贖われたのは、「金や銀のような朽ち果てるものにはよら」なかった、と聖書は述べます。今非常に値段が高く、価値が高いとされる金や銀が朽ち果てる、とは想像しにくいですが、要するに「いずれなくなる」「今いくら価値が高くても、それによって私たちが永遠の世界に導かれるわけではない」ということなのでしょう。そのような、永遠性を持たないようなものによって、私たちは贖われたわけではない、ということです。ここで「贖われた」はあまり日常生活で使われる言葉ではありませんが、簡単に言えば「救われた」ということでもありますし、また、新約聖書では特に、「罪が赦された」ということでもあります。

 

金や銀によらなかったとすれば、では何によって贖われたのか、救われて罪が赦されたのか、というと、それは19節に明確に書かれていて、「キリストの尊い血による」と言われています。この「キリストの尊い血」には、「きずや汚れのない小羊のような」という言葉が添えられています。ここで私たちは、「こひつじ」が「小さな羊」と書かれていることに目を留めます。単に子どもの羊、ということではないようです。聖書で「小さな羊」という字で「小羊」と表記されるとき、それは私たちの救い主であるキリストを指しています。キリストには罪も一点の曇りもなく、完全な方で、その方が一度十字架で私たちのために神様をなだめる犠牲になってくださったことによって、私たちが罰せられることなく、すくわれる、ということです。このことにはいくら感謝しても感謝しきれません。

 

20節では、このキリストについて驚くようなことが記されています。それは、「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていました」ということです。これはどういうことでしょうか。私たちは天地創造のことが旧約聖書の冒頭、創世記に書かれていることを知っていますが、キリストと言えば、長い旧約のあと、新約になって初めて現れた方、というイメージがあるかもしれません。しかし、ここでは「天地創造の前から」、あるいはこれは「世界の基が据えられる前から」とも言えるようですが、キリストはあらかじめ知られていた、というのです。これは、私たちの限りある感覚ではつかみきれないことですから、神の言葉である聖書の言葉から教えられ、そうなのだ、と信じるほかありません。そのような、神に等しい偉大な方が、ずっと昔、永遠の昔からおられるような方が、「この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました」。パウロだけでなく、ペトロもまた、自分の置かれた時代を、「終わりの時代」と捉えていたようです。となると、私たちが寄留者として仮住まいの生活を送る時代とは、終わりの時代だ、とも言うことができ、だからこのように戦争が絶え間なく起こり、私たちの負担感が増し、私たちが心痛める悲惨な事件が頻発するのだ、とある程度納得も出来るような気がいたします。

 

なお、聖書の中で「あなたがた」と言われるのには特別な意味があるように思います。他の誰かではない。「あなたがたのために」、キリストは現れてくださった。これもまた、私たちにとって良い知らせです。

 

21節になると、そのように天地創造の前から知られ、この終わりの時代に私たちのためにわざわざ現れてくださったキリストが、私たちの身代わりとなって十字架で犠牲になられたけれども、見事死の世界から復活なさった、ということが記されています。ここではむしろ、「神様がキリストを死者の中から復活させてくださった」と理解した方がよさそうです。しかも、そのことによってキリストは栄光を受けました。偉大なるキリストの栄光が、復活において現れたのです。この復活節に読むのにまことにふさわしい聖書の言葉です。このキリストを通して、神様を信じて地上の仮住まいの生活を送るのが、私たちなのです。

 

「従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」と念押しされています。私たちの地上での仮住まいの生活には、確かな希望があるのです。それは、神様が与えてくださいます。「信仰と希望」と聞きますと、ついパウロの語る「信仰と希望と愛」を思い浮かべます。コリントの信徒への手紙第一の13章、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリントの信徒への手紙一/ 13章13節)というくだりです。

 

実は、そこでいちばん大事と言われる「愛」について、22節では述べられています。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。先ほども、「愛」に関してここで2度繰り返して述べられている、とお話ししました。永遠の昔からおられ、この終わりの時代に私たちのために現れてくださったキリストを信じ、信仰を希望と愛とをいただいた私たちは、その愛によって兄弟を愛し、清い心で深く、あるいは熱く愛し合うのです。これは、私たちの生活が具体的にどのようにあるべきかを伝えます。私たちの生活は、愛に彩られるべきだ、ということです。

 

ところが、「愛に生きるべき」と言われたところで、私たちの古いままの姿では、いくら愛そうと思っても、損得勘定で人間関係を考えてしまったり、自分のために利用しようとしてしまったりで、なかなか純粋に愛の生活を送ることはできません。だからこそ、私たちは古い自分に死に、新しい私に生まれ変わるのです。ありがたいことに、23節では、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と言われています。「朽ちる種からではなく、朽ちない種から」と言われるように、私たちは金や銀のような、いずれはなくなってしまうようなものではなく、尊いキリストによって、そして、「神の変わることのない生きた言葉」によって、「新たに生まれた」のです。これは、完了したこととして書かれているので、「新たに生まれることを努力目標にする」ということではなく、もうすでに、私たちはキリストと神の生きた御言葉によって、新たに生まれているのです。あとはそのことを安心して受け取るだけなのです。また、ここで「神の変わることのない生きた言葉」とはキリストなのだ、ということも暗示されているわけですが、それに関してはまた、いずれお話しすることもあるでしょう。

 

本日の聖書の箇所から、聖書は私たちの地上での生活について、それをたいへん重視している、ということが分かりました。私たちはかつてのむなしい生活から救い出されましたが、あくまでこの地上では、寄留者として仮住まいを続けます。そこには不便さもあるのですが、神様が私たちに信仰、希望、愛を与えてくださり、そこで互いに愛し合いながら生きるのです。その実現のためにも、私たちは生ける神の言葉としてのキリストによって新しく生まれたのです。地に足をつけて、この地上での仮住まいの生活を大切に送っていきましょう。

 

お祈りします。

天の父なる神様。今日のこの礼拝の時を感謝いたします。

今、中東での戦争による混乱が続き、国内でも心痛める悲惨な事件が起こり、大地も揺れるようなこの「終わりの時代」にあって、私たちの安心は脅かされています。しかし、御言葉は、この地上での歩みが不自由を伴う「仮住まい」であることを教えてくださいました。

 

どうか、私たちが朽ち果てる金銀やむなしい生活に拠り所を置くのではなく、天地創造の前から備えられたキリストの尊い血と、生ける御言葉にのみ希望を置かせてください。私たちは朽ちない種によって、既に新しく生まれた者です。この仮住まいの地で、損得を超えた「偽りのない兄弟愛」をもって互いに深く愛し合い、地に足をつけ、あなたの平安のうちに歩ませてください。

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


報告

本日礼拝後は新約聖書の学びです。来週には三浦綾子読書会があります。


コメント


御影ルーテル教会

658-0047 神戸市東灘区御影3-10-5

tel: 0788420446

©2022 by 御影ルーテル教会  Wix.com で作成されました。

bottom of page