2026年5月10日 復活節第六主日
- 明裕 橘内
- 4 日前
- 読了時間: 13分
聖書交読 詩編66編13~20節(旧約p898)
司)13わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。
会)14わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように
司)15肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。
会)16神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。
司)17神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。
会)18わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。
司)19しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。
全)20神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。
聖書朗読 ヨハネ14章15~21節(新約p197)
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
説教 「あなたの所に戻って来る」
説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
今日は母の日です。私たちに「母」という尊い存在をお与えくださった神様に感謝いたします。母の日のプレゼントに関して、最近はいろいろと話題になっています。その一つは、お花の値上げについてです。アメリカとイスラエルによるイラン攻撃という戦争の影響はこのようなところにも出てきていて、物価高が、私たちが感謝を表そうとする大事なことにも、暗い影を落とすような時代になってきています。そのような中ですが、気を取り直して、本日の御言葉に聴いてまいりましょう。
本日は聖書日課の福音書の箇所を開いております。ヨハネの福音書14章15節から21節を読んでいただきました。私たちが使っている新共同訳には便利な小見出しがついておりまして、この部分は「聖霊を与える約束」となっております。
この部分に至るまでの流れを見ていきますと、13章ではイエス様が弟子たちの足を洗うという、弟子たちを愛しつくす驚くべき行動を見せておられます。そのあと、ユダの裏切りを予告し、その上で「新しい掟」を話されます。その新しい掟とは、「互いに愛し合いなさい」の一言でした。イエス様を信じ、従って行く歩みはシンプルです。「互いに愛し合いなさい」。このイエス様の声を胸に、それを大事にして生きていくのです。
そこには、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という付随項目があって、これで私たちのお互いの愛がどのようなものであるのか定義されています。自分で考えだした、自分の価値観に基づく愛ではなくて、イエス様が弟子たちを、そして私たちを愛したような、そのような愛によって、互いに愛するのだ、ということなのです。そうなりますと、シンプルな教えではあるのだけれども、一生かかって追及していくぐらいの、大きなテーマであることがわかってきます。
その後で、イエス様はペトロもイエス様から離れて行くことを予告し、14章に入りますと、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」(14章1,2節)と述べられ、とても印象的で、慰めを求める葬儀のときにも、天にある私たちの住まい、ということで、朗読されることのある御言葉を語られます。そこから「イエス様が父なる神様に至る道である」ということが、有名な「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)という御言葉によって語られます。
そういった大事な流れの中に、本日の聖書箇所があることがわかります。特に、15節に登場した「わたしの掟」の中には、さきほど13章の内容の紹介の中で触れた「新しい掟」のこともあるのだろう、ということがわかります。
では、その14章15節を見てまいりましょう。改めて読んでみます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。最後の部分を、「私の戒めを守るはずである」と訳すものもあるようです。掟、あるいは戒めと訳されているのが、先ほどご紹介したように、ひとつには13章34節にある「互いに愛し合いなさい」を指す可能性は大いにあります。
「互いに愛し合う」ということが、自分のいいように相手を利用したり、自分の喜び、楽しみのためだけに愛を求める、ということでないことは、「互いに」という言葉でも明らかですし、また、イエス様がこの新しい掟のあとに、先ほどもご紹介しましたが、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃったことも、この「互いの愛」の性格をよく説明しています。「イエス様が私たちを愛したと言われても、どんなふうに愛してくださったのでしょうか」などと言われなくて済むように、イエス様は13章で、弟子たちの足を洗うという、普通はしもべのするようなことをして、いかに彼らを愛されたかを明確に示してくださいました。その行為にあずかった弟子たちも、またその出来事を福音書を通して追体験してきたいにしえの聖徒たちも、また現代において自分に語られたものとして御言葉を聞く私たちも、もはや「イエス様はどのように私たちを愛されたのか」などと問う必要もないほど、イエス様は明らかに、私たちへの愛を示してくださいました。
そればかりか、イエス様は私たちのすべての罪、そこからくる重荷や悩みを一切引き受けて、それを背負って十字架にかかってくださり、それらすべてを死の世界にまで引きずり降ろされたことを通して、ご自身の私たちへの愛をまた示してくださいました。私たちはそれをあたかも見るようにして、イエス様の愛を知り、それを受け取っております。
イエス様が私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合う、というのは、そのような犠牲を伴った愛、ということでもありましょう。そのようにして、損得勘定抜きに、利害も度外視して、自分を捨てる行為を大小さまざまに繰り返しながら、私たちは「互いに愛し合う」ということの実現を目指していくのです。そのような行いの土台に、その動機として、「イエス様を愛するから」というものがないはずがありません。それなしに「互いに愛するのだ」、と言っても、それはお題目にすぎませんし、私たちに重荷となるものです。私たちはイエス様の愛を存分に受けているので、「それを守りなさい」と言われなくても、この「互いに愛し合う」、という掟を守るのであるし、ましてや、「イエス様を愛するなら」と条件を付けられなくても、もう自然に、私たちはイエス様を愛しているので、その愛を動機として、互いに愛し合おうとするのです。
そのイエス様は、16節において「別の弁護者」の存在に触れています。「もう一人の助け主」とも訳されることがあります。「別の」あるいは「もう一人の」という表現から、まず第一に、イエス様が私たちにとっての大事な弁護者、助け主であることがわかります。私たちはごく自然に、湧き上がるイエス様への愛によって、互いに愛し合うのだ、とは言うものの、やはりそこはこの世の制限、制約の中でのことではありますから、いつもいつも思った通りに、理想の形で実現できるとは限りません。こちらにはその思いがあっても、「互いに」と言って相手のあることですから、相手の方の準備が整っていなくて、思った反応が来ないこともあるかもしれません。これはそのように、相手のあることですから、実現するのはそう簡単ではない、ということにもなるでしょう。そういったときに、イエス様はまず第一の弁護者、助け主となってくださるのです。なぜ私があの時あのように行い、あのように言ったのか、自分ではなかなか弁護できなくても、それは愛ゆえのことだったのだ、とイエス様が弁護してくださり、なかなか勇気を持って愛の行いができない私たちに、イエス様が助けとなって、私たちを励まして愛の行いへといざなう、ということをしてくださるのです。
しかし、ここでなぜイエス様は、ご自分ではないもう一人別の弁護者、あるいは助け主のことを紹介し、そちらのほうが弟子たちと永遠に共にいる、とおっしゃるのでしょうか。あたかも、ご自分は弟子たちのもとを離れようとしておられるかのようです。
その問題に答える前に、簡単に17節に触れておきたいと思います。イエス様はその、もう一人の別の弁護者、あるいは助け主を、ここで「真理の霊」と紹介なさいます。この方は、父なる神様とイエス様が送ってくださる聖霊のことを指しています。そして、真理をつかさどり、真理を教えてくださるから「真理の霊」とここで呼ばれているのです。この聖霊の方が、永遠に至るまで、弟子たちの、そしてまた、現代に生きる私たちの内側にいてくださる、という約束です。
今日は母の日ですが、ここでは聖霊の母性も多少感じます。母、と私たちが呼ぶ存在は、私たちと共にいて、私たちをはぐくんでくださいました。それと同じように、聖霊は優しく私たちと共にいて、私たちを真理のうちにはぐくんでくださるのです。
それでは18節に参りましょう。後半の「あなたがたのところに戻って来る」が、本日のテーマとなっていることはもうお気づきのことでしょう。16節において、あたかもイエス様が、ご自分が弟子たちから離れて行くかのように語っておられたことに関してです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」とイエス様はおっしゃいます。別な訳ですと、「あなたがたを捨てて孤児にはしません」となっていまして、イエス様が弟子たちのもとを離れて行く、ということがやはり暗示されています。これは、イエス様が十字架に向かって行かれ、そこで命を捨てる、ということを意味しているのではないでしょうか。
それでも、イエス様の確かな約束は、この当時の弟子たちを、そして今を生きる私たちを捨てて孤児にはしない、というものであり、なおかつ、「あなたがたのところに戻って来る」というものです。今週、この言葉を胸に、励まされて生きていきたいものです。
続く19節で、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」とイエス様がおっしゃることにより、イエス様が弟子たちから離れて行くことを予告していることは決定的になります。まさに十字架の予告であり、そこで尊い命を捨てられることを予告しておられます。ところが、「あなたがたのところに戻って来る」と確かに約束なさる根拠が、次に述べられます。「あなたがたはわたしを見る」。イエス様は、十字架の死だけでは終わらない、ということです。しかもすぐに続けて、「わたしが生きているので」、とおっしゃることで、これはイエス様の復活のことを指しているのだ、ということがわかります。今私たちは復活節を過ごしていますが、実にこの季節にふさわしい御言葉です。イエス様は死を乗り越える方である。死が一時、イエス様と弟子たちを分かつことがあっても、イエス様は復活され、また弟子たちと出会う、ということが暗示されています。
このイエス様が「わたしたちのもとに戻ってこられる」ということは、私たちにとっては、尊い救いの出来事、その十字架と復活によって私たちの救いを成し遂げて天に帰って行かれたイエス様が、再び私たちのもとに来られる、イエス様の再臨と呼ばれますが、その日を待ち望む希望となります。また、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」とは、私たちが、聖餐式の式文の祈りにもあるような、「キリストの復活のいのちに共に生かされることを喜ぶ」という信仰へと私たちを招くのです。今私たちは、キリストの復活のいのちに行かされているのです。この復活節に、その喜びにあずかりたいと思います。
20節は、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と言われ、父なる神様とイエス様の関係が、イエス様と私たちの関係にも当てはまることが示されています。ここで、「イエス様が父なる神様の内におられる」ということが、まず述べられています。そこから、「私たちがイエス様のうちにいる」ということへと発展しているのです。「イエス様が父なる神様の内におられる」ということに関しては、これは三位一体の親しい神様の間柄ですから、真理である、ということになります。しかし、だからと言って、私たちがすぐ、「私たちはイエス様の内にいるのだ」とは言い難い、それは真理なのか、という疑いも出てくるのです。しかし、そのような疑いを越えて、イエス様は「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」ということを、明確に示してくださるのです。
最後の21節においては、イエス様はこれまでのことをまとめて、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」とおっしゃいます。私たちとイエス様の関係は、私たちと父なる神様との関係に発展し、イエス様を愛する者は父なる神様にも愛される、と示されます。このあたりは三位一体にも関係する、やや込み入ったことにもなるのですが、私たちはイエス様にも、父なる神様にも愛され、大事にされて、加えて真理の霊である聖霊が共にいてくださる中で、安心の毎日を過ごしていくことができる、ということが示されています。今、戦争や災害、凶悪な事件によって、私たちの暮らしの安全が脅かされている時代です。相変わらず熊は私たちの生活圏を脅かし、また新たな感染症の脅威も、あの新型コロナほどではないとは言われますが、やはり私たちの心を不安にするものです。しかし、私たちにはイエス様がおられ、父なる神様がおられ、聖霊がおられます。この方々の愛の守りのうちに、私たちは復活のいのちに生かされて、生きていくのです。そしてさらに、イエス様は私たちのところに戻って来ると約束しておられます。イエス様にお会いできる日を心待ちにして、それを希望として歩んでまいりましょう。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。この礼拝の時にあなたの御言葉をありがとうございます。母の日の恵みを覚えます。あなたが「母」という存在を私たちに与えてくださり、そのことを通して私たちをはぐくんできてくださって感謝します。母のように共にいて優しくはぐくんでくださる真理の霊が私たちに与えられています。また、十字架と復活による救いの御業の完成の後、天に帰られたイエス様が、私たちのことを忘れず、また戻ってきてくださることも希望です。相変わらず先行きの不安がこの社会に広がっていますし、戦争も解決していません。人の命が簡単に奪われる凶悪な事件や事故も多発しています。そのような中ですが、どうか私たちをお守りください。必要な助けを、求めている方々に届けてください。私たちがこの社会において、互いに愛し合うというイエス様の新しい掟を心に刻み、それを実行して、少しでも豊かな生活を送ることができますよう助けてください。救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン




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