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2026年3月8日 四旬節第三主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 4 時間前
  • 読了時間: 16分

聖書交読 詩編95編(旧約p933)

司)95:1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。

会)95:2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。

司)95:3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。

会)95:4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。

司)95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。

会)95:6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。

司)95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。

会)95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。

司)95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。

会)95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。

全)95:11 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

 

聖書朗読 ヨハネ4章7~15節(新約p169)

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。

4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。

4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。

4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 

説教 「いずれまた渇く」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

この一週間、私たちはたいへん変化の多い時を過ごしてまいりました。2月28日の土曜日から、アメリカとイスラエルが共同でイランに対して大規模な戦闘作戦を開始し、多くの命が奪われたことを痛みをもって知りました。次の日3月1日は御影ルーテル教会の創立70周年を祝い、昼食後のフェローシップMLCの時には、皆で昔を懐かしみ、笑いあっていたものでした。ところが一転、3月3日には前牧師の海老原道雄先生の奥様、私たちがたいへんお世話になった海老原綾子さんが天に召されたとの一報が入り、驚きと悲しみも癒えぬまま、今度は2011年3月11日発生の東日本大震災から15年の節目の時が近づき、報道ではその頃のことを思い起こす内容が報じられています。

 

本日、四旬節第三主日の福音書の箇所には、ひとりのサマリアの女性が登場します。普通だったら誰も外に出ないような、灼熱の正午ごろ、ひとり井戸まで水をくみにいかなければならなかったこの女性。その生活の苦しみ、心に抱える悲しみと、私たちが抱える悲しみといったものがリンクする、つながるようにも思えてまいります。

 

この四旬節、特にヨハネの福音書が開かれる場合、かなり長い箇所が聖書日課に選ばれることが多く、来週下山主事が説教される9章は1節から41節まで、今日の箇所でも、4章の5節から42節というたいへん長い箇所が聖書日課となっています。じっくり福音書を味わいたいところですが、時間的に可義理もありますので、本日の4章は、7節から15節に限定して見ていきたいと思います。

 

この4章全体を見ると、新共同訳の小見出しによると、1節から42節までがひとつの単元で、「イエスとサマリアの女」というタイトルになっています。43節から54節はまったく別の記事で、「役人の息子をいやす」という奇跡物語になっています。

 

7節までは、イエス様とひとりのサマリアの女性の出会いの舞台背景が語られます。イエス様がユダヤを去り、ガリラヤへと帰られる途上で、サマリアを通ることとなった。そこには、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町があった。ちなみに、この「シカル」とは、旧約聖書に登場する「シケム」のことです。この説明において、ヤコブの名が登場します。そして、そこにそのヤコブの井戸があった、と舞台設定がなされます。12節によると、「ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」とあり、その意味で、この井戸が「ヤコブの井戸」と呼ばれていたことがわかります。

 

さて、7節で、先ほどから紹介しているひとりのサマリアの女性が登場します。すでに申しあげたとおり、彼女は一人、誰も外出しないような灼熱の正午ごろなのに、ヤコブの井戸に水をくみに来ます。そのような時間に外に出なければならないような理由が、彼女にはあったようです。人目に付くような時間に外に出ると、人から後ろ指さされるような、そのような人生を送っていたようなのです。今日は読んでいないところですが、17節以降を読んでみると、かつて五人の夫がいたが、何らかの理由で別離の時が訪れ、今は正式に夫ではない、言わば内縁関係の男性と一緒に暮らしている、という、当時としてはあまりほめられたものではない生活をしていました。そのことは、彼女をこのようにひっそりと、日中に井戸に水をくむようにさせたのです。彼女はため息をつきながら、なんでこんな生活をしなければならないのかと、自らの人生を呪っていたかもしれません。

 

その時、弟子たちは食べ物を買いに、町へ出かけていました。イエス様お一人、6節によると、「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」とあります。疲れていただけでなく、のども乾いておられたのでしょう、イエス様はその女性に、「水を飲ませてください」と言われた、と記されています。

 

すると、このような反応がありました。9節です。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。服装や言葉などから、イエス様がユダヤ人であることが分かったのでしょう。「どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」というのは、本当にそのように質問しているのではなく、「そんなことを頼まないでほしい」という意向の表れです。その当時、清めの規定を厳格に守るユダヤ人は、サマリア人と接触してはならないとされ、ましてやサマリヤ人の持つ器や井戸のつるべなどから水を飲むことは許されていなかった、と言われています。そのことを、ユダヤ人側が主張していただけでなく、サマリア人たちの方でも、ユダヤ人がそのように言っていることを知っていたのです。

 

ここにあるのは、「分断」です。現代の大きな問題にもなっています。なぜここまでの分断があるのか。それを知るには歴史を紐解かなければなりません。サマリアは、北から言うとガリラヤ、サマリア、そしてユダヤ、となるように、中央パレスチナに位置しています。そして、かつて南北に分断されたイスラエルの、北王国の首都が置かれていました。紀元前722年、あるいは721年に北王国がアッシリアによって滅ぼされると、多くのイスラエル人たちを連れ去っていきました。逆にアッシリアは、アッシリアや周辺のカナンの地の人々をサマリア近辺に入植させ、その地に残ったイスラエル人たちと結婚するように仕向けます。それが彼らの、征服した地を統治するやり方でした。それで、イスラエル人たちが一致団結してアッシリアに抵抗することを阻んだのです。次第にその地の人々はサマリア人と呼ばれるようになり、自分たち独自の神殿を建て、自分たちで祭司を選び、律法を自分たちで独自に解釈していきます。そうすると、ユダヤに住むユダヤ人たちからすると、今でいう旧約聖書に記されている神様に対して、サマリア人たちが忠実でない、と考えるようになりました。それで、彼らを軽蔑、嫌悪するようになり、そこから分断が広がってきたのです。

 

「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」という一文がありますが、これは「同じ器を使わない」という意味でもあります。11節によると、イエス様は水を求めておられても、「くむ物をお持ちでない」ということでした。となると、必然的に、サマリアの女性が持っている器から飲む、あるいはサマリヤ人たちが使う井戸のつるべから飲む、ということになるはずです。そのことが当時は許されていないことは明らかでした。そこでこの女性は、「どうしてサマリア人の私などに水を求めるのですか。私に言わないでください」といった反応を見せたのです。

 

このような悲しい分断は、本来であれば、イエス様との関わりによって、素晴らしい賜物を得ることができるはずなのに、そのような機会を奪うものでした。イエス様はそのことを悲しみ、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」とお嘆きになります。決してこの女性個人を責めたり、非難したりなさったわけではなかったのです。民族間に横たわる敵意、それによる分断というものが、いかに苦しみ、悲しみを引き起こすことか。言ってみれば、この女性はその犠牲になって、孤独の苦しみの上になおまた拒絶の悲しみを加えることになっていたのです。イエス様はよくそのことを知っておられました。ご自分が苦しみを経験され、人の苦しみを理解するのに人一倍長けておられた、人の苦しみ悲しみといったものにたいへん敏感であられたイエス様は、この女性の内にある苦しみ、悲しみといったものを良く知っておられたのです。言葉を加えて言うならば、「あなたがキリストのことを知っていれば、あなたの方からキリストに求めただろうに、悲しいかな、この歴史的・民族的分断というものは、そのことを妨げている。何と悲惨なことか」といったことを、イエス様はおっしゃりたかったのではないでしょうか。

 

それでも、すぐには長く横たわった分断というものが解消するわけではありません。それは黒雲のように彼女の心を覆い、今自分に話しかけておられる方が特別な存在で、実は今の世の様々な苦しみ、悲しみといったものから解放してくださる救い主メシアである、ということを気づかせないようにしていました。まだまだ彼女の考え方は地上的で、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」と、現実の水のことにしか目が向いていません。

 

ここに、私たち人間が救い主、メシアであられるイエス様に近づくのを阻む、目に見える現実の不可能性、といったものがあります。目の前にいる男性は水をくれと言いながら、くむものすら持っていない。しかも、井戸は深い。にもかかわらず、何だかよくわからないけれども、どうも自分から水を与える、と言っているようだ。しかし、そんなことは不可能だ、ということです。

 

5日の海老原綾子姉の告別式の弔辞において、「神が私たちと共に歩まれるなどという事が現実にあるのだろうか。」という疑問から、綾子さんが洗礼へと導かれた、とありました。裏を返せば、「神が私たちと共に歩まれるなど、不可能だ」という思いが当初はあった、ということです。私たちも同じように、例えば、「福音書に書かれているイエス様は、本当に神の御子なのだろうか」と疑問に思うかもしれません。その背後には、「イエス様が神の御子であるなど、不可能だ」という思いがあります。同じような疑問は、今三浦綾子読書会で読んでいる『光あるうちに』というエッセーの中でも、取り上げられています。また、「イエス・キリストが十字架にかかったというのは歴史的事実であったとしても、それで私たち全人類を救うなど、不可能だ」などなど、疑問に思おうと思えば、いくらでも疑問に思うことができる、といったところがあるのではないでしょうか。イエス様、あなたは水を与えるとは言いながら、くむものもお持ちでないし、そもそも井戸は深いのです。どうやって水をお与えくださるのですか。不可能ではないですか。そのような疑問は、根の深いものです。

 

幸いにも、ご存じのように、綾子姉はその疑問をきっかけに求道なさり、確かにイエス様にお出会いになって、洗礼を受けていかれました。私たちも、疑問は数あれど、圧倒的なイエス様の迫りを受けて、疑問に答えていただいたから、納得して洗礼を受けた、というよりも、全部お答えいただかなくても十分です、あなたの恵みによって、私は今の私になりまして、感謝しているのです、という思いで、洗礼を受けるに至りました。しかし、このサマリアの女性は、まだはっきりと、イエス様との出会いを経験していません。

 

彼女はこう続けます。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。12節の御言葉です。まだ彼女には、目の前にいる疲れたひとりのユダヤ人男性よりも、ご先祖様のヤコブの方が偉大に思われるのです。日中暑い時に、孤独をひしひしと感じながら、ひっそりとくみに来なければならないにしても、この井戸で生活が成り立っているわけだから、ヤコブ様がありがたい存在なのだ、というところだったのでしょう。

 

そこで、イエス様の決め台詞が響いてきます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」。このことばは、このサマリア人の女性の心に決定的に鳴り響いたのではないでしょうか。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」。確かにその通りだ。このように、毎日毎日、暑い中、罪悪感の中でひとりこっそり、水をくみにこなければならない。そのことを、決定的に思い知らされたのです。本日の説教の題、「いずれまた渇く」の土台となっていることはすでにお分かりのことでしょう。イエス様の短い、心に残る名言と言ってもいいでしょう。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」。そうです。また渇くのです。それだったら、もう二度と渇かない水を求めるのではないでしょうか。

 

そのような思いが少しずつ湧き上がってきたところに、イエス様はまた重ねて、決定的なことを語られます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」。何という素晴らしいお言葉でしょう。このような言葉を待っていました。私たちは、日常に起こってくる大小さまざまな苦しみ、悲しみといったもので、心がカラカラに渇いていきます。戦争の悲惨さ。いのちのはかなさ。災害の恐怖。その思い出を受け継いでいくことに伴う困難と心の痛み。そのようなものを常日頃多かれ少なかれ経験しながら、そこに物価高による負担増という心労も加わって、まさに私の心は乾ききっている、と表現せざるを得ないような状況へと私たちは追い込まれていくことがあるのです。それは、地上のどんなものでも、完全に癒すことはできません。一時は、地上にあふれる様々なエンターテインメントやスポーツ観戦に没頭し、心奪われても、それはあくまで一時的。それが終われば、その興奮もどこへやら、目の前には厳しい現実というのが変わらなくあって、そのような一時の享楽のようなものがあればあるほど、その落差で苦しむというのか、より現実に向き合うことがつらくなるようなこともないとは言い切れません。そのようなつらい現実の中に、イエス様は入ってきてくださって、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と堂々と、自信をもって宣言してくださる。約束してくださる。このことの喜びといったら、いかばかりでしょうか。私たちは、このような言葉をこそ、待ち望んでいたのです。二度と、決して渇かない。これぞ私たちの熱望していた、憧れの言葉。そのようなことばを、実に私たちは、私たちの救い主、イエス様から聞くことができるのです。

 

ご自身、荒野で40日の断食を経験され、空腹も、のどが張り付くような強烈な渇きも経験された方が、それを神の御言葉によって乗り越えられておっしゃる、実に重みのある言葉です。しかも、私は神の御子なので、下々の人間の苦しみなどわかりません、などといった超越的な姿勢でおっしゃるのではないのです。イエス様はまさに、すぐそこにまで、わたしたちのところまで降りて来られて、今、一人の旅に疲れた男性として、のどの渇きのゆえに声もかすれながら、それでもおっしゃる「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」ということばだからこそ、実感がこもっており、真に迫る、このサマリア人の女性の心に届く言葉だったのです。

 

イエス様の言葉にはまだ続きがあります。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。この言葉のすばらしさを表す十分な言葉が見つからないもどかしさを感じます。この渇きに満ちた、そこで生きていれば渇きを感じざるを得ないこの世界において、何と私たちが渇きをいやす水の泉を有することとなり、それは何と、永遠の命に至る水となる。このことに対する感謝の言葉も見つからないほどで、「何と素晴らしい言葉でしょう」としか表現できない、自らの説教者としての言葉の貧しさを痛感させられる言葉です。

 

それを聞いて思わずこの女性が、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と言ったその気持ちはよくわかります。この女性が、「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言うようになるのは29節のことで、それまではまだもう少しイエス様とのやり取りがあり、またこの「イエスとサマリアの女」という単元が終わる42節までももう少し時間がかかります。しかし、この女性の心に宿った、「その水をください」という憧れ、それを求める熱意というものは本物だったと思います。私たちも今日、「わたしもその水が欲しい」と思うのではないでしょうか。日常の現実に疲れ切り、カラカラに渇く私たちだからこそ、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」というのは、私たちの言葉でもあります。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」という言葉を心から信じて、私たちは「その水をください」と願います。この世の灼熱の光のもと、私たちは私たち自身で見つけてくるようなもので渇きをいやそうとしたところで、「いずれまた渇く」というのは目に見えています。もうそのような無駄な努力は終わりの時を迎えました。今こそ私たちはイエス様の方に向き直り、「あなたから、決して渇くことのない水をいただきます」と申し述べて、決して渇くことのない水をいただきます。それは言い換えれば、イエス様を私の救い主として受け入れる、ということであり、また、私の人生の主として受け入れる、ということでもあります。また、「あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです」という言葉のように、「聖書に書いてあることなど、不可能ばかりではないか」と疑問に思う生活を離れて、「御言葉にあることは、私を救うための、尊い命の御言葉だ」と信じて告白して生きることでもあります。あなたもこのような世界に一緒に入っていきましょう。

 

お祈りします。

天の父なる神様。あなたの尊い御名を賛美します。あなたがお遣わしになった御子イエス様が、ひとりの女性と出会い、その渇きをいやしてくださいました。同じように、日々様々なことで飢え渇きを覚える私たちにも、渇くことがないように、命の水をください。そしてそれが私たちのうちで泉となり、私たちが天のみ国に招かれる日まで、私たちを潤し続けますように。新たな悲惨な戦争が始まり1週間となりました。主よ、御心の通り、平和をお与えください。また、心騒ぐ私たちにも、平安をお与えください。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・先週は御影ルーテル教会の創立70周年記念礼拝でした。11月23日が、創立70周年記念式典です。


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