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2026年3月22日 四旬節第五主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 4 時間前
  • 読了時間: 14分

聖書交読 詩編130編(旧約p973)

司)130:1 【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

会)130:2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

司)130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。

会)130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。

司)130:5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。

会)130:6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。

司)130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。

全)130:8 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。

 

聖書朗読 ヨハネ11章17~27節(新約p189)

11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

説教 「復活の兆し」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

四旬節も第五主日を迎えるまでになりました。イエス様のお苦しみを思う季節に、私たちは戦争によって世界が混乱し、多くの尊い命が奪われていることに心を痛めています。そのような現実のただなかで、私たちは神様を求めて、御言葉を開いております。聖書日課における、四旬節のヨハネの福音書の箇所はたいへん長いのですが、本日ヨハネの福音書11章1節から45節が聖書日課になっているところ、限定して17節から27節のみお読みいただきました。

 

この部分は、新共同訳ではちょうど「イエスは復活と命」というタイトルがつけられている部分です。イエス様の十字架の苦しみを思う四旬節でありながら、ここにはすでに、復活について述べられているのです。

 

舞台となるのはベタニアです。エルサレムの東約3.2キロにあった小さな村でした。そこに、ラザロ、マルタ、マリアというきょうだいが住んでいて、そのラザロが病気である、という知らせがイエス様のもとにありました。イエス様は、ユダヤ人の反対が強かったのでヨルダンの向こう側まで逃れておられたのですが、そこからベタニアに行こうとされます。それはたいへん危険だと思われていて、弟子たちは、「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と8節でイエス様をいさめています。最後は覚悟を決めて、弟子のひとりであるトマスが「私たちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)と言って、出かけることにはなったのですが、そのような覚悟が必要だと思われるほど、この時イエス様ご一行がベタニアなどのユダヤ方面に行くことは危険だと思われていました。

 

そのような状況下で、イエス様はベタニアに向かわれます。17節で「イエスが行って御覧になると」と言うのは、ベタニアに行かれた、ということで、まだこの時はラザロの葬られている墓にまで行ったわけではありません。ちなみにこの「墓」ですが、私たちが現代想像する、あの黒やグレーの墓石が置かれているお墓ではなく、当時は山に横穴を掘って造られたお墓でした。パレスチナの柔らかい石灰岩の山腹を掘って造られていたと言われています。まだお墓までは行っていませんが、聞くところによると、ラザロは病気であっただけではなくもうすでに亡くなっており、そればかりか、もうお墓に葬られて四日もたっている、というのです。これは、ラザロの死が決定的な事実で、もう復活などありえない、という状況を表しています。

 

18節で一旦、ベタニア村の説明が入ります。エルサレムに近かったこと、その距離が15スタディオンほどだったことが報告されています。当時、「ベタニア」と言われてもその位置を思い浮かべることが出来なかった人々がいた、ということがわかります。1スタディオンは約185メートルと言われます。それで15スタディオンですから、約2800メートルということで、先ほど「エルサレムの東、約3.2キロ」と申し上げたことと合致します。エルサレムに近かったということは、そこにはイエス様に対する反対勢力が渦巻いていましたから、非常に危険であった、イエス様にとってベタニアに行くのはリスクのある行為だった、ということを暗示しています。そのような危険を冒してでも、イエス様はラザロに、また、マルタ、マリアに会いに行きたかったのです。

 

その頃、「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来て」いました(19節)。「多くのユダヤ人」とありますけれども、少し気になる言葉です。ヨハネによる福音書では、「ユダヤ人」と言うとき、イエス様に反対する勢力のことを指す場合があるからです。ここではどうだったのでしょうか。「多くの友人たちが」ではなく、わざわざ「ユダヤ人たちが」と書かれているので、多少そのような意味合いはあったかもしれません。少なくとも、イエス様に対し、「今頃何をしにやって来たのだ」という、冷ややかな目を向けていた人々だったのではないかと推察します。

 

続く20節で、「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行った」とありますが、正確には、30節によると、「イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた」とありますので、まだベタニア村の中までは入っていなかった、その手前におられた、ということがわかります。ここで「村」と言われていることから、改めてこのベタニアが「町」と呼ばれるよりは「村」と呼ばれる小さな共同体であったことがわかります。マルタ、マリアの姉妹に関しては、ルカによる福音書10章に詳しく記されています。今日はその詳細をお話しするいとまはありませんが、そこに描写されている、忙しく立ち回っているマルタがイエス様を迎えに出て、イエス様のもとで座って御言葉を聞いていたマリアが家の中に座っていた、というのは、何かこの姉妹らしい姿のように感じられます。ヨハネが、ルカの10章のエピソードを知っていたのではないか、と思わせるほどです。もちろんここには、どちらの行動が良かった、というような価値判断はありません。マルタはマルタらしく振る舞い、マリアはマリアらしく振舞っていたのです。

 

敢えて一言加えるなら、人はそれぞれ違う、ということでしょう。マルタのような人もいれば、マリアのような人もいるのです。それが、互いに非難し合うようになると問題なのです。時々、マルタはマリアのようにならなければ、と自分を責め、マリアはマルタのようになるべきだとプレッシャーに感じる、というようなことが起こります。しかし、神様が私たち一人一人を、それぞれの姿に造られたのです。無理に、別の人のようになろうとする必要はないのです。

 

それはそうと、話は核心部分に迫ってきます。マルタは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。21,22節の御言葉です。マルタは、イエス様に対して「なぜここにいてくださらなかったのですか」と責めているのではありません。大事なのは、「しかし」以降の部分です。往々にして、この短い「しかし」という言葉は、それまでの流れを一変させる力があります。確かに、マルタの心には嘆きがありました。イエス様がいてくださったら・・・。しかし、すぐに彼女は信仰を取り戻し、「しかし」と今までの思いを断ち切って、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と、確信を持って自らの信仰を表明します。聖書は、そのような、信仰者たちの信仰表明の言葉を記した書物でもあります。私たちも、マルタと同じ心の動きを経験します。「あの日あの時、なぜイエス様は一緒にいてくださらなかったのか・・・いや、しかし、私はイエス様を信じております」と、疑問の声を抑えて、イエス様を信じる言葉を口にするのです。

 

そもそも、考えてみれば、このマルタのときとは異なり、今やイエス様は、十字架での罪の贖いを成し遂げられ、それが父なる神様に認められて復活なさり、全世界の全人類の主となるために、天に昇られた方として、霊的な意味で、いつでも私たちと共にいてくださる存在です。この時のマルタのケースでは、確かに肉体的に、イエス様はラザロが病気、そして死に向かっていく時、その場に共にはおられませんでした。しかし、イエス様はもともと神様として、そのご性質には「遍在」という、あまねくどこにも存在される、という性質を有しておられます。地上におられた時、制限しておられましたけれども、今はその神様としてのご性質をいかんなく発揮され、私たちがたとえ「本当にイエス様は一緒におられるのだろうか」と疑うような時にも、心細く思うような時にも、実はイエス様は霊的な意味で共にいてくださるのです。ですから、私たちは心強いのです。

 

そしていよいよ次の23節において、イエス様の復活に関する御言葉が響いてきます。「あなたの兄弟は復活する」。もちろん、ラザロを念頭に置いて、イエス様はそのようにマルタにお告げになります。ここに、イエス様の復活の兆しが見えます。もちろん、ここで復活しようとしているのはラザロです。しかし、その復活というのは、超自然的なことがたまたま起ころうとしている、というのではなく、イエス様がすぐのちに十字架にかかられ、復活されることを前提とした、それを見越しての復活なのです。ラザロの復活の土台、それは、後に起こるイエス様の復活なのです。まだそれは起こっておらず、見えていないので、単なる兆しにすぎません。しかし、イエス様の十字架の苦しみを思う四旬節に、もうすでにこのような復活の兆しを見ることができるのは何と幸いなことでしょう。

 

これは、私たち個人の人生の復活も暗示するものです。私たちの心の、固く閉ざされていた部分に、命の息吹が吹き込まれるのです。長く光の当てられていなかった部分に、光が当てられる。力なく横たわっていたのが、力強くその足で立ち上がる。いろいろな表現ができると思います。復活、と言うとき、新しくなる、という意味合いでその言葉を使うこともあります。ですから、私たちが全く新しい存在となる、ということも、ここに含めることができるでしょう。信じることに臆病だったところから、まったく新しくされて、大胆に信じ、それを表立って告白するような私に変えられる。病を持っていた者が、すっかり新しくされて癒されていく。このようなことも、復活である、と表現することができるかと思います。ラザロの復活の可能性がここで示されることを通して、私たちの人生にも、復活の兆しが見えてきました。

 

それは、そのような個人レベルのことでとどまるのではなく、必ずや社会的なこと、また世界にまで影響を与えると信じます。今、平気で人の命が奪われ、ほしい、ほしいと手を伸ばしてその貪欲さを隠そうとしない世界は、まったく新しい姿に復活する。人と人が互いに仕え合い、支え合って生きる平和な世界へと、必ずや復活する。その兆しが、今見えている。そのように信じていきたいと思います。

 

次の24節に記されているマルタの言葉も、信仰の表明の言葉です。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。ここでの「存じております」は、先ほどの22節の「承知しています」と同じ「知っている」という意味の言葉です。ここには、この当時のユダヤにおける信仰が表れています。当時、人々は「終わりの日の復活の時」を信じていたのです。現在イランやその周辺に攻撃を続けているイスラエルの人々も、この当時の人々の純粋な信仰をぜひ取り戻していただきたいと思うものです。

 

イエス様の言葉が抱える大いなる矛盾は、イエス様の本質、イエス様が何を与えようとしておられるのか、ということを際立たせるために非常に有効に用いられています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。このように、25節で言われている、「死んでも生きる」。また、続く26節で、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われるとき、人間は生きていれば最後には必ず死を迎えなければならない存在であるにもかかわらず、それに矛盾するかのように、「決して死ぬことはない」と断言される。この断言の言葉の力は、マルタの信仰をさらに深めるためのものでした。終わりの日の復活を信じていたマルタに、そこまで待たなくても、今ここで復活が起こる、ということを信じるよう、イエス様は促されたのです。

 

それに対し、「はい」とは言うものの、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と続くマルタの返事は、本当に、イエス様を今にでもラザロを復活させることができる方であると信じていることを表しているのか、そこまで行っていないのか、判断するのに難しいものです。彼女の返事はイエス様の質問に対して微妙にずれており、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という問いに対し、「イエス様、その通りです。私の兄弟でも、必ず復活します」とでも答えれば、彼女がそのように信じていたことがわかるのですが、難しいところです。いずれにしても、ある程度、そのときに到達可能なところまで、この時マルタがイエス様をメシア、すなわちキリストであると信じたことは確かです。「ある程度」と申しますのは、人が本当にイエス様をキリストであるとはっきりと信じるのは、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかられ、復活なさった後だからです。まだこの時はそこまで行っていませんでしたから、直接イエス様の御言葉を聞いたマルタの信仰とは言え、まだ完全ではありませんでした。とは言うものの、今日の聖書の箇所は、このように、一人の信仰者の信仰告白の言葉で締めくくられています。

 

私たちも同じく信仰へと導かれた者として、イエス様への信仰を告白して生きたいものです。その私たちには、礼拝という機会があり、その中では、使徒信条を用いて、信仰の表明のときがあります。これは絶好の機会です。ぜひそれを捉えていただきたいと思います。人は、「信仰を表明しなさい」と言われても、何をどう言葉にしたらいいか、なかなかわからないものです。そのような私たちに、いにしえの信仰者たちが、「このように表明したらいい」ということで、使徒信条を遺してくれているのは、実にありがたいことです。

 

その私たちが信じ、言葉にして表明するのは、復活の兆しです。私たちは、自分たちの、そして世界の復活の兆しをイエス様の復活に見て、それを信じ、表明します。本当なら、兆しなどなくても、私たちは信じるべきです。しかし、人はそれほど強くないし、完ぺきではありません。そのような私たちのことを想いやってくださり、神様は私たちに、兆しを与えてくださいました。イエス様の復活を見たら、それを兆しとして、同じように私も復活するし、この世界も新しくなる、そのように信じるのです。今日は四旬節でありながら、復活を先取りするような内容となりましたが、まだイースターは先なので、今日はあくまでもその「兆し」ということでお話ししてまいりました。戦争によって世界が混迷を極める今のときであるからこそ、御言葉から復活の兆しをいただき、それを確かに握って、復活を信じて、それを「信じています」と口で告白しながら、日々を過ごしてまいりましょう。

 

 

お祈りいたします。

天の父なる神様。あなたの御名を賛美します。あなたの与えてくださる復活の兆し、ありがとうございます。私も、また世界も、新しくなれるような気がいたします。共にあなたに対する信仰を使徒信条によって表明しながら、地道に、でも希望を持って、歩み続けることができますように。今、尊い人命が奪われ、生きる世界の安全が奪われる戦争が続いています。そこにあなたが御介入くださり、一日も早くそれを収めてください。日々の生活に疲れ、俯き、倒れている人に、復活の兆しが与えられますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン 

 

 

報告

・本日は午後1時より、三浦綾子読書会があります。各自昼食をとってご参加ください。


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