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2026年2月8日 顕現後第五主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2月8日
  • 読了時間: 16分

聖書交読 詩112編(旧約p953)

司)1 ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。

会)2 彼の子孫はこの地で勇士となり/祝福されたまっすぐな人々の世代となる。

司)3 彼の家には多くの富があり/彼の善い業は永遠に堪える。

会)4 まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。

司)5 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。

会)6 主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。

司)7 彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。

会)8 彼の心は堅固で恐れることなく/ついに彼は敵を支配する。

司)9 貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。

全)10 神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。


聖書朗読 マタイ5章13~20節(新約p6)

13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」


説教 「何もまさるものはないけれど」


説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。確信を持ってアーメンとご唱和ください。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


新しい年、2026年も2月の第2週に入っております。個人的には、突然降ってわいたような、40人ものスロバキアからのお客さんをお迎えするという大きな働きで頭もいっぱい、というのが現実ですが、同じく突然行われることとなった選挙のことも、解散から投開票までの期間が16日と戦後最短であるということで、大きく話題となってきました。今回この選挙には今までと異なった印象を持っております。それは、昨年末から、ある方のご紹介で『福音派――終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(加藤喜之、中央公論新社、2025年)という本を読んでいたからです。年末にだいぶ読んでいて、それから少し忙しくて読書が止まっていたのですが、ようやくついこの前読み終わりました。この教会でも、何人かの方が読んでおられます。そこで驚きをもって知ったことは、アメリカにおいて、いかに政治と教会の距離が近いか、ということです。勝手な印象ですが、アメリカは政教分離の国で、だからこそキリスト教の影響が強い国なのに、キリストを国教にしなかった、と思い込んでいたのですが、これは私の誤解だったのか、教会が強い影響力を政治に対して持っていることが、この本を読んでいてよくわかります。今回の選挙を前に、アメリカだったら、もっと教会でも選挙のことが語られるのだろうか、など、いろいろ考えました。皆さんはいかがでしょうか。


そのようなときに、「あなたがたは地の塩である」などと言われると、ハッとします。もっと信仰者として、この世にインパクト、強い印象を与えなければならないのだろうか、などと考えてしまいます。そもそも、世に対してインパクトを与えるも何も、選挙に打って出るわけでもないし、選挙で投票したところで、私の一票で何が変わるか、といったような無力感も日本ではないわけではないのですから、どうしたらいいのか、と思ってしまいます。


今日開いているのは、皆さん良くご存じの、イエス様の山上の説教と呼ばれる部分で、マタイによる福音書の5章から始まっています。5章1,2節を見ると、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とあります。このことから、まずこのイエス様の教えを聞いたのは、弟子たちであることがわかります。たいへん有名な「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉から始まるこの一連の説教は、4章で、イエス様に従っていく生活を送るように、イエス様ご自身によって呼ばれた、招かれた弟子たちに語られたものだったのです。


ですから、イエス様を信じる者一般に向けて「あなたがたは地の塩である」と、地の塩であるべきことを勧めているとか、あるいは、そういった信仰のことを度外視して、広く社会にインパクトを与えようと意気込んでいる人に、「地の塩であれ」と呼びかけているのでもないことは、理解しておく必要があるでしょう。弟子として、困難を乗り越え、イエス様につき従って行こうとする覚悟を持っている人に対して言われている、ということです。


「塩に塩気がなくなる」とはイメージしにくいですが、イエス様の当時、ユダヤでは主に岩塩が用いられていたので、放っておくと味がしなくなって砂に戻ってしまうというか、そういったことがあったと言われています。その辺りのことは、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」という表現からも類推できます。「何の役にも立たず」と言われると、いかにも「信仰者は何かの役に立つ者である」と言われているかのようで、苦しく思われる方もおられるでしょう。これは、「塩としての力を失う」ということで、第一にはあくまで塩の話をしているのです。それに、そもそも塩に塩味を与えられるのは、世界をつくられた神様です。人の手によるのではない、岩塩というものをつくりだされるのは神様の御業です。であるならば、この塩のエピソードがたとえであって、信仰者が塩であれ、というのであれば、その味をつくられるのはあくまで神様です。そのことを受け取り、私たちはただ、「私たちに塩としての味を付けてください」と祈るのみです。


次の「あなたがたは世の光である」というイエス様の御言葉に関しても注意が必要であって、これは、決して「世の光でありなさい」という勧め、あるいは命令ではないのです。あえて言葉を加えて言うならば、「あなたがたはもうすでに世の光になっている」ということになるでしょう。もちろんこれは先の「地の塩である」というところにも当てはまります。これから地の塩になれ、あるいはあなたがたは地の塩であれ、ということではなく、「もう最初から地の塩である」という説明、描写、あるいは宣言であることを理解しておきましょう。


「山の上にある町は、隠れることができない」とは、実は私の愛唱聖句であって、思い出すのは、今から31年前、神戸ルーテル神学校に入学して男子寮に入った時、その部屋の入り口に新改訳でこの御言葉を書き、山の絵をイラストで描いて貼っておいたことです。別に、何かいきがって当時そのようにした、というわけでもないのですが、周りには、何かガチガチに信仰に凝り固まった、とんでもない学生が入ってきたように思われていたようです。


これも、「世の光」あるいは「山の上にある町」が信仰者のことを表すとすれば、その性質を表している御言葉です。決して、「そうであれ」ということを押し付けてきているのではなく、「そうなるのだ」という、当然の帰結を述べているにすぎないのです。


私たちは、地上で出会う様々な人々、特に上の人々との関わりの経験から、イエス様を、それと似たような存在だとイメージしてしまうことがありはしないでしょうか。イエス様は、「あなたがたは地の塩であれ」また「世の光であれ」と要求してくる上司、上役、あるいは先生のような存在で、そのように私たちができなければ、ため息をついて、「だめだなあ」というような存在ではないのです。私たちはどこかに、「イエス様はきっと私の今の姿を見て、できていない、地の塩にも世の光にもなっていない、と思ってがっかりしておられるにちがいない」という申し訳なさのような気持ちを持っているのではないでしょうか。それが、どこかクリスチャンとしてふっきれない、自由にのびのびとできない理由になっているようにも思われてなりません。そのような、イエス様に対する申し訳なさ、というのは、特に真面目な日本人信仰者にはありがちなものかとは思いますが、思い出したいのは、この光の方に関しては、ありがたいことに、後にイエス様ご自身が、「私は世の光です」と言っておられることです。ヨハネによる福音書において、イエス様は何と3度も、ご自分が世の光である、と高らかに宣言しておられます。せっかくの機会ですから、思い切ってこの3か所全部、ご紹介いたしましょう。


1:イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書/ 8章 12節)

2:「わたしは、世にいる間、世の光である。」(ヨハネによる福音書/ 9章 5節)

3:イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。」(ヨハネによる福音書/ 11章 9節)


3つ目の、ヨハネ11章9節の「世の光」は解釈が難しいですが、ご自分を世の光に例えていることは十分にあり得ます。


単に「光」ではなく、「世の光」と限定して言われるのは、実は聖書の中で、「あなたがたは世の光です」を合わせて、4回しかないのです。しかも、そのうち3回は、イエス様のことを表しているのです。ですから、ここからわかることは、まず第一に、イエス様が世の光なのであり、その限りにおいて、そのイエス様のご性質をいただく者として、信仰者が世の光のように輝く、しかしそれは決して努力目標ではなく、すでに与えられた性質である、ということなのです。


イエス様は、光を輝かせることの目的が、「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるため」であると16節ではっきりと定義しておられます。善い行いをして、私たちが自己満足するためではありません。ましてや、「やっぱりクリスチャンは立派ですね」と、私たちがほめてもらうためでもありません。あくまで、私たちの行いは、天の父なる神様に関係しています。私たちの行うことによって、天の父が尊敬されるようになるかどうか、そこが鍵なのです。


そのことを語られたうえで、イエス様は律法について語り出されます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。これを聞いた弟子たちは、まだ12弟子という正式な形ではありませんでしたが、どう思ったのでしょうか。イエス様以前、イエス様後、ではありませんが、やはり律法学者やファリサイ派の教えと、新しく来られたイエス様の教えと、どう違うのか、ということに注目していたと思います。特に、「律法学者」というぐらいですから、律法遵守を要求してくる古い勢力に対して、それに反し、律法を廃棄する、というのが、新しい勢力に期待されたのは無理もありません。それを見越して、イエス様はこのように言っておられるとも思われます。イエス様が、自分は律法を「完成するため」に来た、とおっしゃるとき、それは、律法を「成就するため」、という意味だったのです。


これを聞いた時のその当時の弟子たちの落胆、あるいは混乱は、今のわたしたちでも十分理解できるように思います。私たちも、イエス様は古い律法主義の束縛からの解放者、というイメージを持たないとは限らないので、そのような見方からすると、いったいこの発言の意味は何なのか、どこにイエス様の新しさ、また違いはあるのか、と思ってしまいます。イエス様は、物事を明らかにするために、やや極端にお話しされることもありますので、ある程度割り引いて聞かなければならない面もあるかと思います。それにしても、私たちが薄々期待してしまうような、律法の廃棄者としてのイエス様の姿は、ここではイエス様ご自身の御言葉によって否定されています。


かと言って、イエス様のその後の歩みを見ていくと、例えば、安息日に空腹のあまり麦の穂を摘んで食べ始めた弟子を見て、それは安息日に禁じられている労働をしたのだ、と言って非難するファリサイ派の人々に対して、イエス様は「人の子は安息日の主なのである」と言って、まず人間の空腹に対処すべきであることを明確に打ち出されました。これは同じマタイによる福音書の12章に記されている出来事です。このお姿と、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」との御言葉は、どのようにつり合いが取れるのか。しかし、これらの整合性を見つけ出すことが、私たちにとっては大事であるのです。


ここで受け止めておかなければならないことは、それがどんなに人を束縛したとしても、「律法や預言者」は、神様の言葉である、というイエス様の考え方です。確かに、それがあって、人がそれに束縛されたという事実はあったかもしれない。しかし、それはもともとの律法や預言者の意図ではなかったし、そもそも、それで人ががんじがらめになったという結果だけを見て、それを悪いとか、神様の言葉でない、と否定してしまうことはできないのです。それらが神様の言葉である限り、神様の御子としてこの世に来られたイエス様は、それを否定し、廃棄するようなことはできないのです。むしろ、御子として、その本来の意味を取り戻し、その成就を図ることは、ごく自然なことでもあるのです。


人間の罪と弱さによって、本来良いものであったはずの律法と預言者、すなわち今でいう旧約聖書は、「あなたはできていない」と、人を追い込む者となってしまった、という側面は否めない。しかし、それは本来的な意図ではなく、あくまで神様は人間が幸せに生きるための指針として、神様の祝福を受けて生きるために、律法と預言者をお与えになったのです。その本来の意図に基づいて、それを成就しようとするイエス様。ですから、その本来の意図とは離れて、空腹の人をさらに追い込むような形で律法が用いられるような時には、イエス様は決然と反対されるのです。


そう思えば、18節で「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われるのもごもっともだし、19節で「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」と言われるのも、まことにその通り、ということになるのです。


そこで、最後の「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」という御言葉がやってきます。


律法学者やファリサイ派とやり合うのは、律法や預言者を廃棄するといった、神様の御心にそぐわないことによって行われるのではありません。本当に律法学者やファリサイ派に対抗するというなら、そういった誤ったことではなく、むしろ、彼らの義にまさる、という、正攻法で行きなさい、ということです。


冒頭で選挙の話をしましたが、何もこんな時期にしなくても、であるとか、各党の主張に対して、そうは言ってもそんなに簡単ではない、そこが大事なのではない、などと、いろいろ言いたいことはあるのです。しかし、そうやって批判するなら、もしかして、「あなたたちの義が〇〇党の義や▽△党の義にまさらなければ」ということになるのかもしれません。


当時の少数の弟子たちは、イエス様の呼びかけに対し、言葉が詰まったと思います。相手はお歴々の、宗教歴〇十年といった、ベテランです。律法学者もファリサイ派も信徒集団でしたから、その意味では立場的には変わらなかったかもしれませんが、その知識と経験は、専門的に律法を学んだわけでもない当時の弟子たちのそれとは比べ物にもならなかったのです。自分たちの義が、彼らの義にまさる。言い換えれば、私たちの方が、神様の前に正しいとされる、ということになりますが、そんなことが言えるだろうか。そう思ったに違いありません。


私たちも同じで、この選挙に際して、「言っていることがどの党も同じだ」とか、「そもそも、こんな時期に選挙をするなんて、雪国の人々のことや、受験に向かっている若者たちのことを考えていない」などなど、様々なことを言うかもしれませんけれども、それで、私たちの方が正しいのかと言えば、国を動かす力を持っているのは確かに彼らの方ですし、もしかして彼らほど、今の日本、あるいは日本の行く末のことを、私たちは考えていないかもしれないのです。


弟子たちは、「自分たちには、彼らにまさるものなど何もない」と気づいたかもしれません。私たちも、批判する相手に対して、何もまさるものはない、と無力感を覚えるものです。しかし、ここからが大事なのです。この、今日の説教のタイトルにもなっている「何もまさるものはないけれど」、ということです。まさに神様の起こされる逆転現象としか言えないのですが、私たちはただただイエス様によって義とされる、神様の前に正しいとされる、という真理に導き入れられるのです。私たちは、自分の正しさを引っ提げて、天の国に入ることはできません。その点では、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」との20節の御言葉は、まことにその通りなのです。だからこそ、イエス様が必要なのです。何のまさるものもない私たちです。私たちがもともと持っている正しさで、誰かと比べて優れているとされて、それで天の国に招き入れられるのではないのです。そうではなく、そのような私たちだからこそ、イエス様があわれんでくださり、私たちにご自分の正しさを与えてくださり、それによって、私たちを天の国に入れる者としてくださいました。その背後に、イエス様が十字架にかけられ、ご自分の命を犠牲にするということがあったことはもう言うまでもありません。


何のまさるところも、誇るところもない者が、神様の起こされる逆転現象によって、天の国に招き入れられるというメッセージは、困難な時代を生きる私たちに、勇気と希望を与えます。2月の冷たい風のように、私たちの日々の歩みには強い向かい風も多いのですけれども、神様からの恵みが私たちの追い風となって、神様に期待しながら歩むことを助けます。世の光であるイエス様が私たちと共におられ、私たちを励ましておられますから、私たちは日々の思い煩いを離れ、神様に感謝をもって祈りを続け、思いを知っていただきながら、今週の歩みを進めてまいりましょう。


お祈りします。

天の父なる神様。今日もあなたの温かいまなざしを感謝します。その憐れみによって、私たちを地の塩、世の光としていてくださること、感謝します。また、イエス様ご自身が世の光であることも心強いことです。何もまさるものはないけれど、その私たちをイエス様によって義とし、神様の前に正しいと認めてくださいました。それで、私たちは天の国へと招かれていることがわかります。ありがとうございます。そのことに安心して歩めますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・先週は教会総会でした。会員の方々には、議事録をお渡ししております。来週は礼拝後に新約聖書の学びがあります。


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