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2026年2月15日 変容主日 

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2月15日
  • 読了時間: 11分

2026年2月15日 変容主日 

聖書交読 出エジプト24章12~18節(旧約p134)

司)24:12 主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、

会)24:13 モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、

司)24:14 長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」

会)24:15 モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。

司)24:16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。

会)24:17 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。

全)24:18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。


聖書朗読 2ペテロ1章16~21節(新約p437)

1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。

1:17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。

1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。

1:19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

1:20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。

1:21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。


説教 「栄光の目撃者」


説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。確信を持ってアーメンとご唱和ください。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


ミラノ・コルティナ冬季オリンピックが開幕して1週間が過ぎました。日本人選手の活躍、そしてメダルラッシュで、日本中が湧いています。恥ずかしながら、この年まで、スキーで後ろ向きに滑る競技があるということを、知らないでおりました。まだまだ世の中には、知らないことがあるものです。謙遜にさせられます。


知らないことと言えば、つい先日、2月9日の月曜日から水曜日まで、スロバキアのルーテル教会から、40人ものお客さんをお迎えし、観光にお付き合いしました。ほとんど知らなかったスロバキアのこと、その言葉のことも含めて、わずかながら垣間見る時となりました。


また、実はこの時は、人間の力の無力さを知るときでもありました。ご存じかもしれませんが、前日の日曜日、2月8日の夜からしんしんと雪が降り始め、教会の前の道にはうっすらと積雪が見られるほどでした。朝になってもまだ雪はそのままで、9日は京都観光だったのですが、電車が動いて本当に京都まで行けるのか、やきもきしました。でも、人間の力で天候を変えることはできません。ただただ神様に祈りながら、推移を見守るしかありませんでした。それでも、雪は残っていましたが、無事京都に行くことができ、またその期間中唯一雨の予報だった水曜日も、雨には確かに降られましたが、移動に困難をきたすほどでもなかったので、神様の守りとその御業、御威光に感謝したことでした。


さて、このスロバキアの方々の受け入れのために準備を重ねているうち、教会の暦は進み、本日は変容主日を迎えています。もちろん、イエス様のお姿が変わったという意味での変容です。普段であれば聖書日課から福音書を開くことが多いですが、今年は敢えて使徒書を開いております。聖書箇所だけを見て、ペトロの手紙第二と聞くと、何が書いてあるのだろう、と思われるかもしれませんが、イエス様の変容の出来事について書いてある箇所です。


ペトロの手紙は、第一の方に関しては、ルターがその『新約聖書への序言』において、キリストのことを示すうえで非常に重要な書であると述べています。今日開いている第二の方も、イエス様の変容の出来事を書いているという点では、非常に重要な書であるということができるでしょう。


手紙、と言う通り、この書は短い挨拶で始まり、新共同訳の小見出しを参考にすれば、「神のすばらしい約束」について、書かれています。そこでペトロは、非常に特徴的な、畳みかけるような表現を用いています。このような箇所です。


「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、

知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、

信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(ペトロの手紙二1章 5~7節)


このような印象的な箇所を経て、同じく新共同訳の小見出しで言うと、「キリストの栄光、預言の言葉」という箇所に進んで行きます。その個所を、今日、一緒に開いているのです。


まず16節、ペトロは「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」と記します。ここでペトロは、イエス・キリストを「わたしたちの主」と呼んだうえで、その「力に満ちた来臨」を知らせています。この場合の「来臨」は、イエス様の再臨を指すのではなく、イエス様が一度目にこの世に来られたときのことを指しています。そしてそれは、イエス様の弱々しい赤ちゃんの頃や、荒れ野で空腹に悩まされていた頃のことをすべて飛び越して、ペトロの前に力強いキリストとして現れ、変貌の山においてその神様としての栄光が現れ出た、その様子をイメージしているようです。


イエス様のお姿が変わった出来事については、福音書がヨハネを除いて共通して、報告しています。マタイによる福音書であれば17章、マルコとルカであれば9章に描かれています。聖書日課では、今年はマタイが選ばれていますが、それによると、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(17章2節)と言われています。マルコは、急いで、できるだけ短くイエス様のご生涯を描写していきながら、ここでは他の福音書と異なり、立ち止まって「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(マルコ9章3節)と説明を加え、それがどれだけ印象的な出来事であったかを示しています。


しかし、疑う人にとっては、いくらそのように表現しても、「巧みな作り話」にしか思われない、という可能性はありました。このペトロの手紙は、偽教師による異端が教会に現れ、その悪い影響が広まりつつあるのを防ぐために書かれたと考えられています。そのような間違った異端であればなおのこと、「ペトロたちは、自分たちがイエスの目撃者の第一世代だとか言っているが、その話の内容はでたらめだ。そんな荒唐無稽な話、誰が信じられるか」などと、ペトロたち使徒の目撃証言を批判したかもしれません。だからこそ、「わたしたちは巧みな作り話を用いらわけではありません」とペトロは弁明したのです。


ペトロの言いたかったことは、「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」ということでした。私たちも、自分たちではどうしようもない天候のことなどで、例えば雪から守られた、雨から守られたなど、神様の御威光が現れる時、その目撃者となるのです。


ペトロは、「荘厳な栄光」を目にしました。ですから、ペトロは「栄光の目撃者」であるとも言えます。光り輝くだけでなく、そこに神様がおられる、という、神様の御臨在を感じさせる雰囲気の中で、彼は言葉を聞きます。


「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」(17節)


このことを、ペトロは「主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました」と理解しています。その栄光の輝きを、ペトロは目撃したのです。


この、天からの言葉に戻りましょう。私たちは今年も、ご一緒に主の洗礼日を過ごしました。つい先日、1月11日のことです。そのときはマタイ3章13~17節から、イエス様の洗礼について、振り返りました。その出来事の最後でも、天からの声が鳴り響いていたのを、覚えておられるでしょうか。マタイによる福音書の、その個所を振り返りましょう。


「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイによる福音書3章17節)


そのときは、もう今となっては再現不可能で、追体験の出来ないこの出来事について、イエス様の洗礼という新しい出来事によって、世界が新しくされたことの象徴である、といったような説明をさせていただいたように思います。今回は、イエス様の洗礼の時の天からの声と、イエス様のお姿が変わった時の天からの声が全く同じであることに注目したいと思います。イエス様の洗礼の時の天の声、それは、神様からの認証の声でした。あなたは確かに人を救うメシア、救い主である、と認める声でした。それと同じ声が聞こえたということは、このイエス様のお姿が変わったその時にも、神様は改めて、あなたが救い主である、とキリストをお認めになった、ということがわかります。イエス様のお姿が変わったこと。それは、イエス様の神様としての御性質が現れ、世にキリスト、すなわち救い主としての姿が明らかにされた、そのような栄光ある出来事だったのです。


そして、ペトロは、その時一緒に変貌の山に登ったヤコブとヨハネと共に、その栄光の目撃者となった。そして、彼の歩みは、御威光の目撃者として、キリストを熱心に伝え、迫害をも、死をも恐れないものであったのです。ここに、今日私たちが受け取るべきメッセージがあります。私たちも、キリストの栄光の目撃者であり、ということは、ペトロらの姿に倣い、私たちもまた、キリストを伝えていく、ということです。


19節にあるように、ある意味でこの世界はまだ暗闇で、夜が明け、明けの明星が昇るのを心待ちにしている、そのような状態にある、と言えるのでしょう。こちらは、キリストの再臨を待ち望む時代のことを表しています。キリストの再臨を待ち望む今の時代は、思いがけぬ災害が起こったり、人と人とが争い、国同士が争い合う時代で、理想通りに事が運ばなかったり、心痛めるようなことが日常茶飯事のように起こる世界です。もちろん毎日日が昇り、今も日の光の下にはいるのですが、そのような意味ではなく、象徴的に、世は暗闇の中にある、ということです。暗い時には、前に何があるか分からず、自由に進めません。今の時代も、この先何があるか分からず、私たちは不安を胸に、恐る恐る前に進んでいる、といった趣です。そのような中では、私たちには世の光であるイエス様が欠かせません。そのような時、「暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」とペトロが熱心に勧めるように、私たちは私たちの栄光ある救い主、イエス様のことを告げるこの聖書の言葉を暗いところに輝くともし火として掲げ、「ここにあなたの救い主がおられる」と告げるのです。


そのように、今の暗闇の時代に、聖書の言葉は欠かせません。それが私たちの道の光となるからです。だからこそ、ペトロが言うのは、「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」ということなのです。


「自分勝手な解釈」というのは、「プライベートな解釈」ということで、以前は「私的解釈」と訳されていたこともありました。それは、人間から出る解釈であり、聖霊が教えてくださるものとは異なります。


自分勝手な解釈には、神様が勧めておられることを、人間の弱さを言い訳にして実現不可能と断言し、神様が禁じておられることを、同じく人間の弱さを言い訳に、容認されると言ってしまう、そういったことも含まれるでしょう。ルターは福音によって、外側からの救いを受けると主張した時、彼は誤解されて、常に「反律法主義者だ」と非難されました。そのように、正しく聖書の書かれていることを理解して、主張していてもなお、プライベートな聖書解釈によって、間違っている、と非難されることもあるのです。


そのような誤りを避けるには、宗教改革の伝統として、聖書で聖書を解釈する、ということが推奨されます。これからそのことについて詳しく論じることはできませんが、たとえば、今日この説教を組み立てるうえで、第二ペトロだけ見るのではなく、それとマタイの福音書など、同じテーマについて書かれている箇所を見比べながら、総合的に聖書を読んでいくことが、その具体的な姿です。


続く21節で、「預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」と、預言の言葉の霊感について語る、有名な御言葉が記されています。ここでの預言は、広く神様の言葉、聖書の言葉であると理解することができるでしょう。聖書の言葉は、決して人間の意志によってもたらされたのでなく、人々は聖霊に導かれて、霊感を受けた神様からの言葉を語った、ということです。この大事なテーマにおいても、十分に語るいとまがありませんが、聖書の言葉が神様の言葉であるからこそ、私たちはこの暗闇の世界において、イエス様のことを唯一の希望として信じて、御言葉からイエス様の栄光を目撃するかのようにして、歩むことができるのです。今週私たちは、御言葉から、イエス様の栄光を仰ぎ見ることにいたしましょう。そして、それをこの世界を歩む一筋の光として、大事にしていきましょう。


お祈りします。

天の父なる神様。あなたがお遣わしくださった救い主イエス様のゆえに、あなたに感謝いたします。この方の神様としての栄光が現れ、ペトロはその栄光の目撃者となりました。私たちも同じように、聖書の御言葉を通して、あなたの栄光の目撃者として、歩むことが出来ますように。この暗闇の世界において、一筋の光である聖書の言葉に希望を置いて、歩めますように助けてください。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日午後は1時から新約聖書の学びがあります。来週の午後1時からは、三浦綾子読書会です。






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