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2026年10月25日 宗教改革主日

執筆者の写真: 明裕 橘内
明裕 橘内
2 分前
読了時間: 17分

2026年10月25日 宗教改革主日 

聖書交読 エレミヤ31章31~34節(旧約p1237)

司)31:見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

会)32:この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

司)33:しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

全)34:そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 

聖書朗読 ヨハネ8章31~36節(新約p182)

31:イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

32:あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

33:すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

34:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。

35:奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。

36:だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

 

説教 「私たちを自由にする言葉」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

 本日は宗教改革主日です。伝統的に10月31日をルターの宗教改革記念日としておりまして、その直前の日曜日、主の日を宗教改革主日として祝っています。今年は、宗教改革記念日当日から、最も遠い宗教改革主日となっております。昨年は10月26日が宗教改革主日でした。来年は、10月31日、宗教改革記念日当日が日曜日となります。

 今から9年前、2017年の10月は、ルターの宗教改革500周年ということで、様々な記念集会がありました。神戸ルーテル神学校を中心に、宗教改革500周年記念礼拝を企画いたしましたが、その聖歌隊に、この教会からもご参加くださった方があったと思います。その練習のときに、ちょうどその頃も今年のように、季節外れの、遅い時期の台風が来ていまして、暴風雨の中をびしょ濡れになりながら帰ったことを思い出します。

 そのように、2017年がルターの宗教改革500周年だったということは、ルターの宗教改革は1517年に起こった、ということになります。一説によれば、1517年の10月31日、ドイツのヴィッテンベルクにあるお城の教会の門に、ルターは公開討論のための、95箇条の提題、議案書のようなものを貼り出しました。その冒頭には、「われわれの主であり師であるイエス・キリストは、『悔い改めよ』などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである」とありました。安易に金銭によって免罪符、これは現在は贖宥状と言われていますが、それを購入することで、死後の魂の安寧を得る、煉獄で過ごす期間を短くできるのではない。キリストのもとに帰ることが重要なのだ、と主張しました。贖宥状は、自らのためだけではなく、既に天に召された家族のためにも有効であるとして売買されていましたので、多くの人々が買い求めていたものでした。特に、11月1日、全聖徒の日には、過去の聖人の遺物の御開帳もあり、盛んに贖宥状が売買される可能性があり、その日の前に、そのようなことが正しいのかどうか、もう一度よく考えよう、ということで、ルターは議論を呼びかけたのです。

 このことがきっかけとなり、結局この公開討論会は開催されなかったものの、ルターの書いたこの95箇条の議案書のみがドイツ国内に広まり、これが宗教改革の事の起こりであると後に理解されるようになりました。それで、諸説ありますけれども、1517年10月31日を宗教改革の起点として捉え、その日を宗教改革記念日として、プロテスタント教会では祝っております。カトリック教会と多くの伝統を共有する私たちルーテル教会ではありますが、さすがにこの10月31日、宗教改革記念日は、カトリック教会にはありません。ただ、近年はカトリック教会内でもルターの宗教改革に対する理解も高まり、カトリックとプロテスタントが分かれることなった悲しみの日とは捉えず、ルターを「福音を再発見しようとした人物」として再評価し、世界では、2016年にはルーテル教会とカトリック教会で宗教改革500周年を記念する共同の祈りが開催されたりしたようです。

 この1517年10月31日の出来事を起点とすると、今年2026年10月25日の子の宗教改革主日は、第509回目の記念のときとなります。来年が510回目の記念となります。そのような中、開かれておりますのは、交読文が宗教改革記念日の旧約聖書の箇所で、主がわたしたち人間と結んでくださる「新しい契約」について述べられていました。エレミヤ書31章33節において、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と主なる神様は約束してくださいました。外側にある教えが目の前にちらついて、それを見ながらなんとかそれに向かってあくせく努力する、というのではない。すでに私たちの心に神様の教えが刻まれていて、ごく自然に私たちは、それを守るようになる。そして、主なる神様は、私たちの神様となってくださるのだ。そのような恵みが語られていました。

 そしてさらに、宗教改革記念日の福音書の箇所、ヨハネによる福音書8章31節から36節が今、開かれております。

 禅問答のような部分もあるヨハネによる福音書、それによって難解な部分もあるのですが、今日の箇所も、対話によって成り立っています。今日の箇所では、イエス様を信じたユダヤ人たちと、イエス様の対話です。少しずつ見てまいりましょう。

 31節、まずはイエス様の宣言です。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である』」。ここに、先ほど述べました通り、イエス様を信じたユダヤ人が登場します。彼らに向けて、イエス様は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と宣言しておられるわけです。

 実は、細かいことにこだわると、この「ご自分を信じたユダヤ人たち」という言葉は、矛盾を含んでいます。と言いますのも、ヨハネによる福音書において、「ユダヤ人」ということばは、イエス様に反対する勢力であることが多いからです。単なる民族名ではありません。そうすると、なぜここで「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とイエス様が「本当に」という言葉を使っておられるかがわかります。まだまだ彼らの信仰は浅かったのです。もともとイエス様を排斥しようとしていた人々が、何らかのきっかけでイエス様に関心を寄せ、侵攻の入り口に立つようになった、という状態であったのです。ですから、何かのきっかけで、またイエス様から離れて行くことは十分考えられました。ですからこそ、イエス様は「しっかりとわたしの言葉にとどまっていなさいね」と言われたのです。

 これはそのようなユダヤ人たちだけでなく、今を生きる私たちにも向けて語られている言葉です。目覚ましいAIの発展によって、AI JESUSなるものが誕生している、と聞きました。これは、この前の木曜日、神戸ルーテル神学校の理事会に、神学校の後援会会長として出席した時、昼食の時間に聞いたことです。そのような時代に、私たちの前には、家に座って、AI JESUSに聞いて、という、安易な信仰、それを信仰というかどうかは別ですが、そのようなものにも堕して行ってしまうような生き方も少しずつ広まりつつあるのです。もちろん、昨今のAIが引き金となっているとも言われるサイバー攻撃の激化によって、少しAIに対する見方も変わりつつあるかもしれませんが、とにかく時代が急速に変わりつつあることは否定できません。そのような中で、私たちが、犠牲を伴わず、広く浅く、のような感じで、あまり根を深く張らない、そのような、気楽な、カジュアルな信仰の方に流れて行ってしまう可能性もないわけではないのです。もちろん、現代において信仰というものが再評価され、そのような生き方こそ現代の信仰なのだ、と言われてしまうのかもしれない。それはこれからの評価を待たないといけないのかもしれませんが、いずれにせよ、私たちが、イエス様がおっしゃった、「イエス様の言葉にとどまる」ということが、現代において、簡単なことでも、やりやすいことでもない、ということは、一つ言えるような気がいたします。

 そのような中にあっても、私たちが腰を据えて、しっかりと根を張りつつ、地道に「イエス様の言葉にとどまる」。「とどまる」というのは、「離れない、そこに居続ける」ということで、それ自体に継続的な意味があります。それがなお、原文では継続的な書き方になっていますので、「離れないことをし続ける」といったニュアンスにもなります。ここでは、私たちが耳にする言葉が、ある場所を示すかのように表現され、そこにとどまり続ける、と言われます。そうすると、この「イエス様の言葉にとどまる」とは、それを聞き続ける、それに触れ続ける、というだけでなく、それを語られるイエス様のそばを離れない、という意味にもなってきます。

 そうするならば、かつてイエス様に対する反対勢力に属していたのが、何らかのきっかけで信仰の入り口に立ったに過ぎない、新しい、幼い信仰者であるユダヤ人たちも、しっかりとした、真の信仰者となっていくであろう、というのが、この31節で言われていることです。それはそのまま私たち御言葉を聞く者にも当てはまります。ここには信仰生活の長い方々も、比較的フレッシュな方々もおられます。いずれにしても、かつては神も知らず、神に背を向けて過ごしてきました。その私たちが、イエス様との出会いによって変えられて、今はイエス様を信じる側についている。その私たちが、この急速に変化する時代に、価値観も変わっていく中で、それに流されないで、信仰を保ち続けるには、やはり御言葉を聞き続ける、というだけでなく、イエス様のそばから離れないでいる、ということが、必要とされるのです。それは、具体的には教会との親しい関係の中にとどまり続ける、ということでもあります。教会抜きに、私はイエス様と私の関係だけでやっていけます、と言えるほど、人間は強くありません。この宗教改革主日に改めて、キリストにとどまり続けること、そのために具体的に、教会にとどまり続けることの意味を再確認したいものです。

 続く32節で、今日の説教のテーマともなっている、「自由」という言葉が出てまいります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。ご存じのように、これが門に刻まれているキリスト教系の大学もあるほど、有名な御言葉です。また、日本の国会図書館にも、「真理がわれらを自由にする」という形で、掲げられています。 

 ここではまず、「自由」という言葉の意味を考える必要があります。戦後の日本において、「自由」という言葉は強調され、今私たちは、ごく普通に、「自由」という言葉を使っています。「何を言っても、何をしても自由」「何を選んでも自由」「どんな生き方をして」も、自由」。このように、日本では「自由」という言葉が使われています。

 日本において、この「自由」という一つの言葉が、広い意味で使われている一方で、英語圏では、「freedom」と「liberty」という2つの言葉があり、それぞれが別の文脈で使われています。どちらも、団体名やお店の名前、何らかの作品名で日本でもよく聞かれる言葉でしょう。とくに後者の「liberty」ですと、私たちフェローシップ・ディコンリー(「交わりと奉仕」)の流れに属する教会においては、アメリカの本部がリバティー・コーナーという場所に置かれていますので、この「liberty」という言葉をよく耳にしておられる、という方もおられると思います。今年御影ルーテル教会創立70周年、記念文集ももう完成いたしましたが、その中には、フェローシップ・ディコンリーの源流をたどる、歴史にまつわるページもあり、その中には「リバティー・コーナー」という名前に何度も触れています。また皆さん、記念文集をお手に取られたときに、目にされることでしょう。

 この「freedom」と「liberty」の違いですが、「freedom」の方は、「縛るものが何もなく自由であること」を表します。抑圧からの自由、などというように使われます。一方で「liberty」は、「不当な束縛を断ち切って権利を手に入れること」という意味で使われます。ですから、アメリカの「自由の女神」は、フリーダムの方ではなく、「スタチュー・オブ・リバティ」と、リバティーの方が使われています。

 ではここでヨハネの福音書が語る「自由」とは、どちらの自由なのか。数ある英訳聖書を参照すると、一貫して実は「フリーダム」に関係する方の言葉が使われています。具体的には、「フリーダム」は名詞、その形容詞である「フリー」が使われている、ということになります。これは見事に各翻訳で一致しています。そのような聖書理解であった、ということです。すなわち、ここで言われている自由は、獲得した権利としての自由ではなく、与えられた状態としての自由である、ということです。

 そして、その自由は、「真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われていますように、真理によって与えられる状態です。この真理とは、イエス・キリストのことです。のちにイエス様が、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14章6節)とはっきりと述べられたことで、それは確かめられます。

 このようにイエス様が述べられると、信仰に入りたてのユダヤ人たちはこう答えます。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」。このように、ユダヤ人たちとイエス様の対話が生まれています。ここでは、彼らが「私たちはだれかの奴隷状態になったことはない」と答えています。この「奴隷」という言葉を聞くと、奴隷解放、という運動を思い浮かべ、戦って奴隷が解放される権利を獲得したことを連想し、それではここで言われている自由は「リバティー」の方ではないか、と思われるかもしれませんが、ここで言われているのは、そのような権利獲得のことではありません。むしろ、状態のことです。奴隷状態と、それと対比される自由な状態、身分のことを、ここでは指しているのです。

 そもそも、ここでユダヤ人たちが、今まで私たちは奴隷状態に陥ったことはない、と言っているところに、矛盾と言いますか、認識の誤りが見受けられます。ユダヤ人たちは、紀元前6世紀にはバビロン捕囚という民族の危機を体験し、またこの当時は、ローマに支配されている、という状態でした。それを度外視して、「私たちは奴隷となったことはない」と言うのは、ある意味で彼らのプライドです。制度的なことよりも、彼らの精神と魂の状態のことを指して言っているのです。私たちの魂が、誰かの支配の下に、奴隷状態になったことなどないのです、私たちはれっきとした、アブラハムの子孫なのですから、という主張です。彼らにとって、アブラハムの子孫であることは、それだけ誇りであったのです。

 その彼らに、イエス様は「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と強く主張されます。「はっきり言っておく」という1987年の新共同訳の翻訳は、2017年の新改訳2017では「まことに、まことに、あなたがたに言います」と訳され、2018年に出された聖書協会共同訳においては、「よくよく言っておく」へと変わっていきました。いずれも、イエス様の言葉の重々しさを伝えようと工夫がなされています。この背後には、「アーメン」という言葉が2度繰り返されています。今から言うことは真実である、というような意味合いです。

 「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」。イエス様は、このように、人間が罪の奴隷状態にあることを告げます。これも、状態、身分のことです。そこでは、罪から離れて、自由に身動きする、ということがかないません。何をするにも、いつも罪というものが、陰を落とす。良いことをしようとしても、その背後にはプライドがあり、自らを良く見せようとする欲があり、それによって自らがより良い立場に立とうとする計算がある。そのようなものと同じと考えていただいてもいいでしょう。これは、罪の奴隷状態である、ということです。確かに、バビロンも、ローマも、その魂の深い所で、あなたがたを束縛するまでには至らなかったかもしれない。彼らが制度的には支配していても、その中であなたがたは確かに、思想を繰り広げ、深い精神生活を送ってきたのであろう。しかし、どうか。あなたの行動に、その思想に、罪の影響はないか。そこに投げかけられている罪の暗い影はないのか。そのように、イエス様は鋭く問いかけられたのです。

 このイエス様の言葉に対するこのユダヤ人たちの応答は、すぐには書かれていません。彼らはこれを聞いて、どう思ったのでしょうか。このあともイエス様とこのユダヤ人たちの問答は続いて行きますが、最終的にこの8章の終わりでは、ユダヤ人たちがイエス様に立腹し、何と石を投げつける、というところにまで至ります。信仰の入り口には立つことができた彼らユダヤ人たちではありますが、最終的には、もともとの、イエス様を排斥しようとする動きに戻ってしまった、ということかもしれません。

 このあとイエス様は、35,36節で、「子」あるいは「息子」のことを引き合いに出して、お話を続けておられます。35節では、「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」と述べられます。この「子」あるいは「息子」とも訳されますが、この存在はイエス様のことである、と今日は読んでいきたいと思います。罪の奴隷は、神の家にいつまでもいることはできません。しかし、神の子であるイエス様は、いつまでも、神の家にいることのできる方です。36節で、「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と言われるとき、それは、イエス様があなたたちをフリーにすれば、あなたたちは本当にフリーになる、という意味です。自由になる権利獲得の方の、リバティーの方ではありません。もう少し言葉を加えれば、イエス様があなたたちをフリーな立場にしてくださったら、本当にあなたたちはフリーな立場になることができる、ということです。神の子として、神の家にいつまでもいることができる、その資格を持ったイエス様であるからこそ、そのような罪のない、尊い存在であるからこそ、私たちを本当の意味で、罪の奴隷状態からフリーな状態にしてくださる、という恵みなのです。

 これまでのところを、フリーダムとリバティーの違い、ということで、ごく簡単に整理してみましょう。ユダヤ人がイメージしていた自由がリバティー、イエス様が与えようとしておられる自由がフリーダム、と理解していただいてもよいでしょう。一言で言えば、リバティーは獲得する自由です。ユダヤ人は、ローマの属国にあって、リバティーを得ようと、必死で手を伸ばし、努力していました。その彼らに、イエス様の説くフリーダムとしての自由は響かず、「私たちはアブラハムの子孫だから、奴隷になどなったことはない」と言った反応を引き出すことになってしまいました。しかし、イエス様の御心にあった自由はフリーダムであって、あくまでもイエス様がお与えになる自由、その立場、自由な状態を表すものでした。それは、人間の魂の罪に囚われている、罪の奴隷となっている様相をあぶり出し、むしろそれによって、イエス様によって自由な状態にされることを望むようになる、という作用を持っていました。神の子であり、罪がないので永遠に神の家にいる資格のあるイエス様だからこそ、私たちを罪の奴隷の状態から、自由にすることができる。もう罪の影響下にあって、その影におびえながら生きるのではなく、堂々と人生を楽しみながら、自由に人に親切にし、何の囚われもない心で、良いことをして、生きて行くことができるようになったのです。イエス様こそが、そのように私たちを自由にする言葉を語ることができます。このイエス様から離れないようにしましょう。イエス様の祝福が、もれなく皆さんのもとに届きますように。

 

恵み深い主なる神様。

宗教改革主日に、私たちを自由にする福音を、改めて心に刻ませてくださり、感謝いたします。私たちは、自分の力や努力によって罪から自由になれると思い、自らを誇り、また自分の弱さや罪に苦しむ者です。どうか、そのような私たちの心を照らし、救いは私たちの功績によるのではなく、主イエス・キリストの恵みによって与えられることを、深く悟らせてください。

主よ、移り変わりの激しい時代にあっても、私たちが御言葉から離れることなく、キリストのそばにとどまり続けることができますように。また、教会の交わりを大切にし、互いに祈り、支え合いながら、信仰の歩みを続けさせてください。

罪の奴隷であった私たちを自由にしてくださった主よ、感謝と喜びをもって、隣人に親切にし、愛をもって仕える者としてください。

私たちを自由へと導いてくださる、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


報告

・本日は10月31日の宗教改革記念日に合わせ、宗教改革主日でした。

・本日午後1時より、三浦綾子読書会が開催されます。


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