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2026年10月4日 聖霊降臨後第19主日 

執筆者の写真: 明裕 橘内
明裕 橘内
2 日前
読了時間: 10分

聖書交読 詩編80編8~16節(旧約p918)

司)8:万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。

会)9:あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。

司)10:そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。

会)11:その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。

司)12:あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。

会)13:なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。

司)14:森の猪がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。

会)15:万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください

全)16:あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。

 

聖書朗読 フィリピ4章4~9節(新約p366)

4:主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

5:あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

6:どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

7:そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

8:終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。

9:わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

 

説教 「神の平和、平和の神」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

皆さんおはようございます。午後に予算総会を控える朝の礼拝のひと時となりました。先週から予告しております通り、今年の御言葉が含まれる箇所を開いております。2月の決算総会のときにも、開いております。このように、総会のたびごとに今年の御言葉について触れていますから、年2回は今年の御言葉から説教をしていることになります。前回は、4章2~7節を取り上げ、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」という御言葉が、継続的な命令であること、思い煩いは身体の動きのように容易に制御できないため、対処法として祈り、願いを神に打ち明けること、そして「感謝」をもって祈ることが鍵となる、それは、感謝の心は思い煩いを抑える力があるからだ、とお話ししました。今日は、4章4~9節を取り上げて、「神の平和、平和の神」というテーマを掲げております。今年の御言葉と、どのような関係があるのでしょうか。

 

まずは、4節から見てまいりましょう。改めて読んでみます。

 

4:主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

 

「重ねて言います」とは、言うまでもありませんが、「もう一度言います」ということです。繰り返してパウロがこのように書くほど、喜びを強調している、ということです。このとき、喜びの「感情」、ということに重きを置くなら、難しい面もあります。そもそも、このときパウロは、福音を語り、それが周囲との摩擦を生んだために、ローマの獄中にいたのでした。獄中とは言うものの、地下牢のようなイメージではなく、家の中に監禁状態、というような様子だったようですが、それでも、いつも鎖でつながれており、裁判の結果次第では死刑になりうるような状況の中で、決して楽な状態ではなかったわけです。そのような中で、「喜びなさい」と言うときに、それは心の中から湧き上がる感情とは少し異なっていたことでしょう。「喜ぶのだ」という意志の表れ、とも言えるでしょうし、状況がどうあれ、自らを幸せだと認識していることの表れでもあったのです。たとえ鎖につながれて監禁状態にあっても、感情的にどうかは別として、「やはり私は幸せ者だ」と思うことは不可能ではないでしょう。なぜなら、救い主であるイエス・キリストがおられるのですから。今はつらい。でも、救い主であるイエス様がいてくださる。この思いをもって、パウロはフィリピの信徒たちに、「喜びなさい」と言ったとも考えられます。

 

続く5節は、4節の喜びの根拠でもあります。「主はすぐ近くにおられます」。先ほど、救い主イエス様がいてくださる、とお話ししましたが、そのことを述べています。また、新しい訳では「主は近いのです」と訳されていて、距離の近さだけを表しているのではないことがわかります。時間的な近さをも表すこの言葉は、「すぐに来られる」という意味も持ち得るもので、主の再び来られること、主の再臨は近い、というメッセージにも聞こえます。また、この近さは関係の親しさをも表しますから、このすぐにでも来てくださるキリストは、とっても私と親しい方なのだ、という親密な関係をも表します。これが、投獄中というつらい状況にあっても、私は幸せ者なのだ、という意味で喜ぶ、というパウロの心情を生み出し、だからフィリピの信徒たちにも、繰り返し「喜びなさい」と言うことにつながったのです。

 

そして、今年の御言葉である6節です。ここまで9か月ほど、「今週の御言葉」として週報に毎週掲げ、この講壇の所にも張り出している御言葉です。人は繰り返し接するものに好意を抱く傾向がありますから、だいぶ親近感が湧いてきている言葉なのではないでしょうか。これ自体説明が不要なほどわかりやすい言葉ですし、これだけ長い期間目にしてきていますから、今更付け加えることもないのですが、せっかくの機会ですから、少し見ていきましょう。

 

冒頭に「どんなことでも」とあります。本当に、ここで言われているのは「どんなことでも」なのです。大きなことでも些細なことでも、「思い煩うのはやめなさい」と言われています。「思い煩う」とは「心配する」と言うことであり、その心配によって心が千々に乱れる、ということでもあります。心にまとまりがつかない、自分の感情に収拾がつかないことでもあって、あれにしようか、これにしようかと迷う、というニュアンスもないことはありません。イエス様が山上の説教で、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(6章31節)と言われているところにも、同じ単語が使われています。どんなことでも、どんな些細なことでも、それで心配したり、あれこれ迷ったりしないように、ということで、しかも2月にお話ししたように、これが1度限りのことを言っているのではなく、継続的に、ずっとそうしていこう、という命令であるわけです。

 

つづいて、「何事につけ」とありますが、これは「どんな場合にも」と訳されますから、もちろん、自分が不利な立場に置かれているような場合でも、すなわち、パウロのことであれば、自分が投獄されているような場合でも、ということです。どんな場合にも、「感謝を込めて」、とあるように、心に感謝があるように、とパウロは勧めます。そしてそれは、パウロの言葉を通して、神様ご自身が、私たちに求めていることです。今日は第一週目の主日ですから、聖餐式が私たちのために用意されています。聖餐式とは、私たちがそのような尊い救いを備えてくださった神様に感謝する儀式、感謝のひとときです。私たちが感謝をもって聖餐の場に身を置くとき、私たちはこの「感謝を込めて」という言葉をクリアしていることにもなるのです。

 

そのときに、皆さんが配餐に与っている際に、「早く終わらないかな」「今日のお昼ご飯は何かな」ではなく、私たちが祈り心をもって、まさにこの御言葉にあるように、「祈りと願いをささげる」ならば、今年の御言葉通りに私たちが生きていることにもつながります。そうすることによって、私たちは「神に打ち明ける」のです。自分の心の中でいろいろと迷って、そこで葛藤しているのではなくて、その思いを外に出して、即ち神様にお伝えして、心の中の思いを打ち明けるのです。神様に知っていただくのです。本音と建前で生きざるを得ない日本人には、以外とできていないことかもしれません。神様、大丈夫です、と私たちは遠慮してしまっていないでしょうか。祈りの中で正直に神様にお話しして、心の中の未整理の思いを知っていただくのです。

 

「そうすれば」と始まる7節は、明確に今年の御言葉である6節につながっています。そのように、心の千々に乱れる思いを神様に打ち明けて知っていただくならば、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と言われているのです。「守る」がいわゆる未来形で書かれているため、このように訳のうえでは「守るでしょう」とありますが、どうしても日本語でそういうと、不確かなイメージがつきまといます。ですが、ギリシア語においては、未来形と言えど、未来に確実に起こることを表す、という側面もありますから、「守ります」と言い切るように訳すことも可能です。ここで、説教の題にも含まれています、「神の平和」が語られます。6節の結果としての神様の平和です。これは、神様からの平和、という意味でもあり、それが私たちに与えられ、それによって私たちが守られる、という側面も持っています。

 

8節は、「終わりに」という言葉で始まります。「手紙の終わりに」「結論として」と言う意味ではありますが、ここで意識されているのは、パウロがまさに主の再臨は近い、と信じていた、終末の世界です。そのときからもう2000年近くたってはいるのですが、世界は同じように、終末の時代にある、と言っても過言ではないでしょう。昨今の異常気象や社会の闇の深まり、犯罪の凶悪化などを見ても、そのように感じなくはありません。そのようなときだからこそ、ここで推奨されている「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、徳や称賛に値すること」は、この世界においてますます貴重になっていくのです。ときには、このようなものを追求することは、昨今の真面目に生きることを揶揄するような風潮にあっては、軽んじられる傾向があるかもしれません。社会派を自認するようなテレビドラマにあっては、「正直に生きると馬鹿を見る」というような捨て台詞が聞こえてきそうな気がしないこともありません。ですが、たとえそうであっても、この終末の時代に、教会が、そして信仰者たちが、真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきことなどにこだわって生きて行く。そうするならば、それはそれで他にない魅力となり、人を引き付けることになるのではないでしょうか。

 

最後に、パウロは「平和の神はあなたがたと共におられます」と述べます。これはある意味で、神様から直接与えられた、私たちへの約束でもあります。この平和の神様から、7節に言われているような、神様の平和が与えられるわけです。ですから、本日の説教題、「神の平和、平和の神」は、「神の平和が平和の神から」と言い換えることもできるわけです。私たちには、平和の神様が共にいてくださいます。この神様が、私たちの複雑な思いをわかってくださり、心に神様由来の、この世の与えるものとは決定的に異なる平和を与えてくださる。この言葉遣いからわかるように、これはヨハネによる福音書14章27節にある御言葉に基づいています。そこでは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」とイエス様が私たちに直接語っておられます。最後の「心を騒がせるな。おびえるな」には、今年の御言葉の、「思い煩うのはやめなさい」と似た響きがあります。イエス様も、私たちがあれこれと思い煩っているのを見て心配しておられて、「心を騒がせるな」と声をかけてくださるのです。つい思い煩い、心を騒がせてしまう私たちの心に、平和の神様から、神様由来の平和が今日、届きますように。

 

お祈りします。

平和の神である父なる神様。私たちは日々、さまざまなことを思い煩い、心を騒がせています。自分の力で何とかしようとして、心の中に抱え込んでしまうこともあります。どうか私たちが、どんなことでも感謝をもってあなたに祈り、願いをささげ、心の中にある思いを素直にあなたに打ち明けることができますように。

 

私たちがどのような状況に置かれていても、救い主イエス・キリストが共にいてくださることを覚えさせてください。そして、私たちの理解を超えるあなたの平和で、私たちの心と考えとを守ってください。真実なこと、正しいこと、清いこと、愛すべきことを大切にして歩むことができますように。

 

主よ、今日も私たちのただ中におられ、心を騒がせる私たちに「おびえるな」と語りかけてください。あなたから与えられる平和のうちに、喜びと感謝をもって歩ませてください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


報告

・本日は昼食会のあと、予算総会となります。


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