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2026年10月18日 聖霊降臨後第21主日

執筆者の写真: 明裕 橘内
明裕 橘内
30 分前
読了時間: 13分

聖書交読 詩編124編(旧約p970)

司)124:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】イスラエルよ、言え。「主がわたしたちの味方でなかったなら

会)124:2 主がわたしたちの味方でなかったなら/わたしたちに逆らう者が立ったとき

司)124:3 そのとき、わたしたちは生きながら/敵意の炎に呑み込まれていたであろう。

会)124:4 そのとき、大水がわたしたちを押し流し/激流がわたしたちを越えて行ったであろう。

司)124:5 そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう/驕り高ぶる大水が。」

会)124:6 主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。

司)124:7 仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

全)124:8 わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。

 

聖書朗読 ルカ1章1~4節(新約p99)

1:1 -2わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。

1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

 

説教 「御言葉のために働いた人々」

 

説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

教会では予算総会も終わり、あとは大きな行事として、11月23日の創立70周年記念式典に向かって行く時期です。聖霊降臨後の緑の季節も、もう本日で第21主日を数え、宗教改革主日と全聖徒主日を挟んで、あと3回の主日で終わりを迎え、待降節から教会の暦の新しい一年が始まる、というような時期となりました。教会の暦の一年のまとめ、仕上げのときにもなっています。そのようなときこそ、御言葉にしっかり向き合い、教えを受けていきたいと思います。

 

本日開いているのは実に短い箇所で、ルカによる福音書の冒頭の部分です。本日は、聖霊降臨後第21主日であるとともに、祝日としては、福音書記者ルカの日でもあります。ですので、その意味では、典礼色は緑ではなく、赤でもいいことになります。本日は敢えて、聖霊降臨後第21主日の方の聖書日課ではなく、福音書記者ルカの日の方の聖書日課を開き、その詩編の箇所を交読し、福音書の箇所を今、開いております。

 

本日は、「御言葉のために働いた人々」というテーマを掲げておりますが、お気づきの通り、ルカによる福音書1章1-2節にある御言葉です。もう一度お読みします。

 

1:1 -2「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」

 

冒頭で福音書記者ルカは、「わたしたちの間で実現した事柄」と書いています。「私たちの間で成し遂げられた事柄」という訳もあります。これは何のことでしょうか。おわかりのように、これは、イエス・キリストによって実現した、救いについての出来事のことを指します。これは、旧約聖書の昔からずっと約束されてきましたが、ついにイエス・キリストの出現によって、約束通り実現しました。ルカは、福音書記者として、これからイエス・キリストについて、そのご生涯を辿り、書き記していきます。ですが、ルカはその冒頭で、それはすでに実現しています、と述べているのです。もう実現しているのだけれども、そのことについて、これから書きます、と表明していることになります。

 

続いて、「最初から目撃して」とありますが、別な訳を見ますと、ここは「初めからの目撃者」と訳されています。イエス・キリストの救いの出来事の、初めからの目撃者、ということです。本日お読みいただきました箇所のすぐ次、1章の5節を見ますと、新共同訳の便利な小見出しによれば、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」とあります。「初めから」と言うとき、ルカはこの、洗礼者ヨハネの誕生の予告から始めているのです。スタートは、イエス様のお誕生ではないのです。その大事な出来事については、お誕生の予告がなされるのが1章26節から、実際のお誕生について述べるのは2章7節、ということになるのです。そこに至るまで、綿密な準備がなされていることがわかります。これを始めとして、ルカはイエス様が、その十字架と復活のあとに天に帰って行かれる、召天のことまで、福音書に収めております。

 

そしていよいよ、今日のテーマにあります「御言葉のために働いた人々」という言葉に至ります。これは、今お話しした「初めからの目撃者」と同じ人物たちとして述べられています。「初めからの目撃者であり、なおかつ、御言葉のために働いた人々」ということです。別な訳を見ますと、「みことばに仕える者と『なった』人たち」となっています。何かのことをきっかけとして、みことばに仕える者となった、というニュアンスがあります。イエス・キリストの救いの出来事について、洗礼者ヨハネに関することから始めて最初からの目撃者だった人々が、イエス・キリストの十字架の贖いの経験を経て、個々人がキリストとの出会いを体験して、御言葉に仕える者に変えられていった、そのような出来事を想像することができます。

 

お話ししたように、「御言葉のために働く」とは、「御言葉に仕える」という意味です。この部分には、「下で漕ぐ者」という意味を持つ言葉が使われています。この当時の大型船で、内部が幾層にもわたっているのですが、その最下層で、一生懸命舟をこぐ人々、という意味です。そこから、働くとか、仕えるとか、そのような意味となっていきました。そこには、たいへん地道で、過酷な努力が求められ、なおかつ、船長の指示に忠実に従う、という姿勢も必要でした。転じて、食卓に仕える給仕の働きにもこの言葉が用いられるようになると、料理人の作った料理を、そのまま食卓に運ぶ姿のイメージとなります。どうでしょう。給仕が、「どうもこの料理は見栄えが悪い。変えてしまおう」と言って、勝手に箸とか指で、料理の並びや盛り付けを変えてしまったら、どうでしょうか。せっかくの料理が、台無しになってしまいます。給仕は、料理人の作った料理を、そのまま食卓に運ぶのです。それと同じように、イエス・キリストによる救いの出来事の最初からの目撃者が御言葉に仕える者となる、と言う場合、それは、神様の御言葉を勝手に変えてしまわずに、そのまま人々に伝える、という意味合いがあることに気付きます。ルカを含め、このような人々がいたからこそ、私たちのもとに、正しく、貴重な神様の御言葉が届いたのです。

 

驚くべきことに、「物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」とルカは書いています。このようにイエス・キリストによる救いの出来事を書き記そうとしていたのは、ルカだけではなかった、ということです。ここでの「物語」には、作り話、といったような意味はありません。ストーリー性のある、イエス・キリストによる救いの出来事のことを指しています。

 

3節では、ルカがこの福音書を誰に献呈するか、ということについて、記されています。それは、「敬愛するテオフィロさま」と記されています。「テオフィロ」の名前の意味ですが、これは「神を愛する者」あるいは「神に愛される者」を意味すると言われています。「テオフィロさま」と言われているぐらいですから、高貴な人物であったことがわかります。ローマの高官、あるいは裕福な貴族であったのでしょう。いくらルカが福音書を書く、と言っても、その執筆やその後の配布のためには資金が必要でした。そのために、当時の習慣として、そのような面で経済的に支援する後援者、パトロンが存在したと言われます。まさに、このテオフィロが、ルカにとっては福音書を書き、それを広めるためのパトロンだった、ということです。ルカのように御言葉のために働き、仕え、そしてテオフィロのように、それを支える人がいて、今、私たちはこのように、ルカによる福音書を開くことができるのです。

 

ルカはテオフィロという支援者を得て、この福音書を書いていくわけですが、そのために、「すべての事を初めから詳しく調べている」と書いています。これは、「綿密に調べている」とも訳されています。現代の論文のように、注を付けたり、参考文献表を載せたり、ということではないにしても、彼なりに、よく調べて誤りのないように書く、という努力が払われたことがわかります。

 

そして更に、「順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」と、ルカは書いています。これは、年代順に、あるいは物事が起こった順序で、ということではありません。彼の持つ歴史観は、現代の私たちのそれとはやや異なりました。あくまで、イエス・キリストによる救いを伝えるうえで、その観点から順序正しく、ということでありました。そのためには、ルカは似たトピックはまとめて整理して述べるといったことをしています。一緒に述べてしまった方が、テーマも同じだし、キリストの救いについて述べるにはその方がいい、ということに関しては、多少の年代的な前後があったとしても、まとめて述べる、という工夫をしている、ということは、既に研究者によって指摘されています。テオフィロが読んで、あるいはその支援によって多くの人が目にするときに、どう書いたら、キリストによる救いがより伝わるか、その観点から、順序正しく、ということを考えたのです。

 

このような工夫は、テオフィロが、これからキリストについて詳しくなっていく、そういう人物であった、ということを思わせます。4節では、ルカは「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」と述べています。ですから、何らかの教えは、すでに受けているのです。しかし、それが確実なものであることがわかり、信じるためにあと一歩を踏み出せるように、というルカの配慮がここにはあった、ということは、十分想像できることです。そうでなければ、3節で、何とかテオフィロにわかってもらうために、よく調べて、わかりやすく、順を追って書く、という努力をしようと思うはずがありません。これは、テオフィロを、キリスト教に入信したい、求道者である、と捉える見方です。

 

また、あと2つ、考えられることがあります。まずは、テオフィロが、求道者だったのではなく、キリスト教について見定めようとする、ローマの高官であった、という考え方です。彼は、キリスト教のうわさを聞いていました。そしてそれが、ローマ帝国において、害をなす宗教なのかどうか、ということに関心がありました。害をなすものと分かったら、迫害して禁じようとしていた、ということです。ですからこそ、ルカは必死になって、イエス・キリストによる救いの出来事が確かなものであったことを、よく調べ、順序正しく述べて、何とかわかってもらおうとした、という考え方です。

 

もうひとつは、テオフィロをひとりの人物ではなく、複数と考える考え方です。先ほど、テオフィロの名前の意味を、「神を愛する者」あるいは「神に愛される者」とご説明しました。ですから、ひとりの人ではなく、「神を愛している人々」「神に愛されている人々」のことを指す、と考えるのです。この人々は、何らかのことで、神様のことを知っていました。旧約聖書を知っており、そこから神様の愛について知っていた、ということもあったでしょう。あるいは、4節にあるように、教えを受けていた、すなわち、入門講座のような形で、キリストについての初歩の教えを受けていたのかもしれません。言ってみれば、そのような求道者のグループに対して、受けた教えが確実なものであるのを確信していただき、信仰に入ることができるように、ということであったとも考えられるのです。

 

ここには、現代の私たちにとっても、大事な信仰の姿勢があります。それは、その「教えを受ける」ということです。ここには、自分で手を伸ばしてつかみ取る、という姿勢ではなく、謙虚になって、教えを受ける、あるいは教えを乞う、という姿勢が見られるのです。今、どうでしょうか。私たちの姿勢は、神様の前に身を低くして、教えを受ける、といった姿勢を見せているでしょうか。それとも、何とかして自分でつかみ取ろうと、あれやこれやと、手を伸ばしているところでしょうか。

 

普段は私たちは、あまりそのようなことを考えないかもしれません。しかし、ひとたび試練の時に陥った時、自らの病、人間関係、災害に遭う、そのようなときに、そこから逃れることのできる、信仰の強い私でありたい、と思うことはあるのではないでしょうか。その時に、一人静かに御言葉に向き合い、そこから教えを乞い、祈りつつ、「強くしてください」と謙虚に祈るのか。それとも、自分の力でそうなろうと、乱暴に手を伸ばすのか。聖書の言葉を自己流に読み、善い行いによって神様に認めていただき、強い信仰者にしていただこうと、無理に善行に走る。これは、先ほどの食卓の話で言えば、料理が出てくるまで待ち、出てきたら静かに感謝する、という姿ではないでしょう。むしろ、食事を出せとばかりに自分から厨房に向かい、荒々しくそこから奪い取るようにして料理を持ってくるようなものです。あるいは、ちょっと季節感が異なりますが、雪がはらはらと舞い降りてきて、それを手のひらでそっと受ければ美しい雪の結晶が見られるものの、それを荒々しく握り取ってしまえば、あっという間に溶けてしまって、美しい結晶を見るどころではない、ということとも繋がると思います。

 

このように、自ら手を伸ばしてつかみ取ろうとする信仰の姿勢には、とげとげしさ、荒々しさが伴い、外への攻撃性となって、他を害するものとなる危険性があります。私たちが内側に、何らかのフラストレーションを抱えたままにしているとき、往々にしてそのようになりがちです。今年の御言葉にあるように、感謝しながら祈りと願いをささげることで、神様に内なる思いを打ち明け、知っていただくことが、大事となるのです。そのうえで、身を低くして、謙遜に教えを受けるのです。

 

御言葉のために働いた、仕えた人々の中に、ルカがいました。彼の思い、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」、という願いは、今を生きる私たちにも向けられています。私たちがこのルカによる福音書をはじめ、御言葉をひらく時、今まで受けた教えが確かなものであることを、よくわかるようになること。御言葉のために働いたルカは、そのことを願っていました。そのことが私たちのうちに成就するよう、願うものです。

 

そして、そのことがよくわかったときに、今度は、私たちが「御言葉のために働く人々」になること、これが神様の願いです。どうでしょうか。そのような願いを、神様は私たちのうちに与えてくださいます。かつて御言葉のために働いた人々によって、今の私たちがある。それならば、私たちもまた、御言葉のために働く者となろうではないか。そのような願いが、私たちのうちにありますように。私たちの周りには、たくさんのテオフィロが存在します。神様によって愛されている人が、大勢いるのです。その人々が、イエス・キリストの十字架と復活という、素晴らしい救いの出来事を知っていくことができますように。それによって、一歩踏み出し、信じて救いをいただくことができますように。そのために私たちにできることがあるなら、ぜひさせていただこう。この時間がこのような願いをいただくひとときとなったら幸いです。

 

恵み深い天の父なる神様。

あなたの御言葉を、今、私たちの手に届けてくださり、感謝いたします。主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの救いを実現してくださった恵みを覚えます。どうか私たちが、自分の力で信仰をつかみ取ろうとするのではなく、あなたの御前に身を低くし、御言葉から謙虚に教えを受ける者となれますように。悩みや試練の中にあるときも、祈りと願いをもってあなたに心を打ち明け、あなたの恵みに委ねることができますように。

また、かつて御言葉に仕えた人々によって、今の私たちが支えられていることを感謝します。私たちも御言葉に仕える者とされ、あなたに愛されている人々に、キリストによる救いを伝えることができますように。私たちの思いも働きも、すべてあなたの恵みによって導いてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。


報告

・本日は、礼拝後に新約聖書の学びがあります。

・来週は、午後に三浦綾子読書会があります。


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