2026年1月11日 主の洗礼日
- 明裕 橘内
- 1月11日
- 読了時間: 12分
聖書交読 イザヤ42章1~9節(旧約p1128)
司)1:見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
会)2:彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
司)3:傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
会)4:暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
司)5:主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。
会)6:主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。
司)7:見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
会)8:わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
全)9:見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
聖書朗読 マタイ3章13~17節(新約p4)
13:そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
14:ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
15:しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
16:イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
17:そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
説教 「イエス様は受洗すべきだったのか」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
新しい年が明けてまだ2週間もたっていませんが、世界で、また日本で、実に様々なことが起こっております。新年早々驚いたのは、アメリカがベネズエラを攻撃して大統領を拘束したという知らせでした。国内では、6日の火曜日に鳥取、島根で大きな地震があり、8日木曜日には山梨で大規模な山火事が発生し、9日金曜日には、秋田でやや大きな地震が連続したかと思えば、今度は千葉で同じようにやや大きな地震があるという、激動の一週間でした。もはや、今まで当たり前であった平和や安全といったものは当たり前ではなく、世界は刻々と変化している、ということを痛感させられます。
さて、そのように変化の激しいこの世の中で、私たちは主の洗礼日に、変わらずイエス様の受洗の箇所を福音書において開いております。思い返せば、先週が顕現主日で、マタイによる福音書2章から、東方の博士たちが幼子イエス様を礼拝した出来事が、実は救い主イエス様が御自身を異邦人である博士たちに現した出来事だったのだ、という、いわば逆転現象について見てまいりました。目に見えるものばかりでなく、見えないことも重要である、などということもお話いたしました。マタイによる福音書はそのあと、幼子イエス様一行がヘロデ大王を逃れてエジプトに赴いたことを語っており、そこから無事帰ってきて、ナザレという町に住んだことを記しています。そこから実際はかなりの年月がたって、そして今日開いている3章のところに入るわけです。まずは洗礼者ヨハネについて語り、それを下地として、13節からのイエス様の登場となります。
ここでイエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けておられます。そこで、本日のテーマなのですが、「イエス様の受洗は必要だったのか?」ということを考えてみたいのです。人間が受洗するのは、これは必須なことです。生まれながらに罪人である人間は、イエス様の十字架と復活に基づく洗礼を受けて罪を赦していただき、神様と和解してお近づきとなり、罪と死と悪魔に打ち勝って、永遠の命の希望をいただいて生きるようになるのですから。
しかし、イエス様はどうなのか?人間のように、罪によって、神様との溝が出来ているわけではないのです。むしろ、その人間を助けるようにと、父なる神様から命を受けて派遣されてきているわけですから、本来であれば密接な関係を持っているわけで、救いと和解のための洗礼が必要だとはとても思えません。
そもそも、私たちがイエス様の生涯に起こった出来事で、受洗を真っ先に指摘できるでしょうか?今こぞってお祝いするイエス様のお誕生、本来は貧しいお誕生でしたが、そのことや、もちろん十字架、復活といったことは、真っ先に思い浮かびます。しかし、毎年のように主の洗礼日を1月にお祝いしながらも、イエス様が洗礼を受けられたことのリアルさといったものは、あまりピンとこないことも多いのではないでしょうか。であればこそ、イエス様の受洗の意味と重要性をよく理解しておきたいと思うのです。
さて、ではイエス様の行動に注目いたしましょう。「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」。13節の御言葉です。冒頭の「そのとき」がどんなときかについて、まずは確認をしておきましょう。前の部分を読まなければならないですね。13章7節からがひとつの段落になっていますが、聖霊者ヨハネが、自分のところに大勢、しかもファリサイ派やサドカイ派の人々が押しかけてきているのを見て、有名なスピーチをします。それは、「蝮の子らよ、」という、今だったらコンプライアンス的にどうなのだろうといった、使うのに躊躇するような呼びかけから始まりました。自らの罪など省みず、安易に自分のところに集まってきている彼らを非難したうえで、自分より後に、本当の意味での洗礼をお授けになる、すなわち、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(11節)という方のことを紹介します。これが勿論イエス様のことなのですが、そのような重要なスピーチがなされたそのとき、ということです。
このように、イエス様はガリラヤからヨルダン川へと移動し、ヨハネのもとに行きました。しかし、これは単なる移動ではなかったのです。「洗礼を受けるため」とはっきり書かれています。すなわち、かなり目的意識の高い行動だった、ということです。
私たちの日常を振り返り、いかがでしょうか。どれだけ私たちの日常の行動が、目的意識によるものかどうか、ということです。それどころか、特に意味もない、目的意識によらない行動も、もしかして結構あるのではないでしょうか。今、若者のSNSの利用時間やその弊害について議論がなされていて、オーストラリアでは16歳未満のSNS利用を禁止するということで、昨年の12月10日からそうなっているそうですけれど、16歳未満に限らず、大人でも、何となく意味もなくスマホをいじって、それで無為に時間を浪費する、などということは起こりうることです。あるいは、テレビをぼーっと何時間も見ていて、気づいたら夕方になっていて、ああ、もう夕飯の時間か、などということもあるわけです。この新しい2026年を尊いプレゼントとして神様からいただいた私たちは、できれば高い目的意識をもって、「これのため」と目的をはっきりさせて、行動できる1年になったら、だいぶ違うかもしれません。なかなかそううまくはいかないのですけれども、イエス様の行動を見ていると、ついそんなことを思ってしまいます。
それはそうと、イエス様の行動は、「洗礼を受けるため」というはっきりとした目的のもとにあったことがよくわかります。そのために、徒歩で100キロ以上とも言われる距離を移動なさったのです。恐らく3日から5日かかったのではないかと言われています。しかも、比較的標高の高いガリラヤから、世界で最も標高が低い場所のひとつとも言われるヨルダン川河口、これは海抜マイナス300~400メートルになると言われるのですが、そこまでの移動は標高差が多く、旅の後半はかなりの急な下り坂、それに伴って、急激な気温の上昇も経験したのではないか、と考えられます。そのような過酷な旅ですからこそ、高い目的意識なしにはできなかった、という側面もあります。イエス様は「洗礼を受けるのだ」というはっきりした目的のもとに、この苦難の多い旅を忍ばれたのです。
だから、なぜそこまで洗礼を受けるのにこだわるか、ということですよね。
そもそも、洗礼者ヨハネがイエス様にお会いして開口一番、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と引き留めています(14節)。こちらもまた、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った」とあって、目的がはっきりしています。洗礼者ヨハネは、意味もない言葉を口に出したりはしませんでした。明確に、「ここは何としてでも、イエス様の洗礼を止めなければ」という高い目的意識をもって、語っているのです。しかも、そのまえには「ところが」という言葉が付いていて、はっきりとその前に書かれていることを否定しようとしています。日本語で「ところが」とは、言うまでもないことですけれども、「『しかし』や『けれども』と同様に、前の内容と反対の事柄を導く場合」に用いられる、と説明されています。ヨハネからしたら、いくらイエス様の目的意識、「洗礼を受けるのだ」というのがはっきりしていても、それを否定して、止めなければならない、と思ったわけです。
そこで、続く15節を見てみましょう。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」これが、イエス様のお答えでした。ですから、ここに表れているのは、洗礼を受ける「理由」です。「正しいことをすべて行う」こと、これが洗礼を受ける理由なのだ、ということです。
では、この正しいこととは何かを理解するために、本日の交読文のイザヤ書の箇所を思い起こしましょう。イザヤ書42章から本日は交読しました。いわゆる「主のしもべの歌」と呼ばれる箇所で、いくつかあると指摘されるそれの第一の歌と言われているところです。分析によっては、本来主のしもべの歌第一歌はイザヤ書42章1節から4節までだ、と言われることもありますが、いや、7節までだ、あるいは、9節までがそれに含まれる、など、様々な考え方があります。その中で、ご注目いただきたいのは、9節なのです。このような御言葉でした。
このような御言葉を読むとき、ただ漠然と「何がしか新しいことをしてくださるのかな」と期待するだけかもしれません。ですが、聖書日課として選ばれている聖書の箇所は、それぞれ関係していると考えられていますから、本日のこの旧約聖書の箇所は、福音書の箇所と関連すると考えられるのです。ではどのように関連しているのか、ということを具体的に考えると、イザヤ書の主のしもべの歌で言われている「新しいこと」こそが、イエス様の洗礼である、と考えることもできるのです。
イエス様は、「正しいこと」とすべて行うために、洗礼を受けることを旨として、苦労して旅をして、ヨルダン川にお着きになりました。そして、その正しいことこそ、イザヤ書で言われていた「新しいこと」だったのです。今で言う旧約聖書を大事にし、旧態依然として何も変わらない、何も変えない、というのではない。神様は、新しいことをしようとしている。そして、それがイエス様の洗礼として、ひとつ具体化したのです。
ですから、ここで言う「新しい」とは、勿論「画期的」ということです。父なる神様に派遣された神の御子が、あたかも人間であるかのように洗礼を受けることこそ、まさに画期的な出来事だったのではないでしょうか。それによって、大きく時代が変わり、救いの時代が幕を開けた、などと言っても決して過言ではないでしょう。神様は、人間の罪をご覧になって、そのご自身の聖なるご性質からは、その罪を滅ぼさなければならない、と思われます。しかし、同時にその愛のご性質から、だからと言って人間を滅ぼしてしまうのは忍びない、と思われたのです。何しろ、ご自身と交わりを持つ大切な存在として、御自ら人間を造られたのですから。そこで、言ってみればイエス様を「人間に見立てて」、そのイエス様を人間の罪と共に滅ぼすことによって、代わりに人間自体を滅ぼすことなく、罪だけを滅ぼす、ということを可能としたのです。
そのような、イエス様が人間としてみなされるために、洗礼という新しい、画期的なことをなさった。そのことを見て、今まさに、旧約聖書において預言されていた新しいことが起こった、ということで天において喜びが起こった結果が、16節、17節の現象だと考えてみてはいかがでしょうか。今となってはどのような現象だったのか説明も再現もできない、天がイエス様に向かって開いたこと、神の霊が鳩のように降ってくること、天からの声が聞こえたこと。これらひとつひとつを、今であれば何に当たるのか、と詳細に検討するよりも、勿論そのようなことも時には必要かもしれませんが、でも、それらの諸々の出来事は、世界が新しくなったことの表れである、と捉えた方が、わかりやすいのではないでしょうか。
高い目的意識を持って、洗礼を受けるのだ、と決心してヨルダン川へ向かわれたイエス様は、正しいことをしようと思っておられました。それは、旧約聖書由来の、主なる神様ご自身が「見よ、新しいことをわたしは行う」(イザヤ書 43:19)とおっしゃった御声の響きを伴っていました。イエス様の受洗はまことに新しい、画期的な出来事で、それがあって、私たちの救いは成り立っている、とも言えるほどの出来事です。その意味では、「イエス様は受洗すべきだったのか」という問いかけに対して、私たちは自信を持って、「勿論、私たち人間の救いのために、私たちと同じ姿になるために、それは必要不可欠でした」と答えるのです。そのような恵みを受けた私たちは、同じように高い目的意識を持って、この救い主イエス様のために何かしたい、ご奉仕したい、という思いを胸に、今週の歩みを始めるのです。
お祈りします。
天の父なる神様。この時もあなたが共におられ、御言葉をさやかに示してくださり感謝します。本日は主の洗礼日で、私たちのためにイエス様が洗礼をお受けになったことをもうひとたび共に思い返す時となりました。私たち人間と同じ姿となり、私たちの救いの道を開くために、あえて洗礼を受けるために危険な長旅を耐え忍び、洗礼者ヨハネの前に立たれたイエス様。正しいこと、即ち旧約聖書から約束されていた新しいことそのものである洗礼を受けてくださって、私たちの罪の身代わりとなる一歩を踏み出してくださいました。このイエス様に感謝し、お仕えしたい、との思いをもって、この新しい年を過ごしていくことが出来ますように。各地で続く地震の被害から、また大規模な山火事の被害から、この日本を守ってください。また、世界で争いを引き起こし、欲しい、欲しいと貪欲に手を伸ばす国家をあなたが押しとどめてくださいますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・先週は昼食会があり、フェローシップMLCがあって、参加した皆さんの今年の抱負を伺いました。来週は礼拝後に新約聖書の学びがあります。




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