2025年12月7日 待降節第二主日
- 明裕 橘内
- 5 日前
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更新日:5 日前
2025年12月7日 待降節第二主日
聖書交読 ローマ15章1~6節(新約p295)
司)15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
会)15:2 おのおの善を行って隣人(りんじん)を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
司)15:3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
会)15:4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
司)15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
全)15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
聖書朗読 イザヤ11章1~10節(旧約p1078)
11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
11:5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
11:9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
11:10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
説教 「平和の幻」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日待降節第二主日は、聖書日課の旧約聖書の箇所を開いております。イザヤ書11章1節~10節を読んでいただきました。
この部分は、イザヤ書1~39章の、イザヤ書の中でも旧約に当たると言われるような部分に置かれています。それなのに、驚くべき平和の幻が記されています。細かく言うと、7章から続く、4つのインマヌエル説教の最後、4つ目のインマヌエル説教に当たるといわれます。インマヌエル説教の中に有名なインマヌエル預言があります。有名な7章14節後半です。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ」
このインマヌエルについてのメッセージが7章から今日開いている11章まで続いているのです。そして、このインマヌエルこそメシアである、と信じられてきました。ちなみに、ご存知のように、「インマヌエル」とは、「神われらと共に」という意味です。ですから、「神われらと共に」と思わず喜んで告白するような状況を作り出してくださる方、という意味になるのでしょう。そして、そのような存在こそ、メシア、すなわち救い主である、と思われていたのです。
この箇所の背景には、敵国アッシリアからの脅威がありました。そのような状況だったからこそ、この箇所で描かれているような平和な状況は、人々の心に残ったのです。そして、後に続きますのは、新共同訳の小見出しで言うと、「帰還と救い」という、喜ばしいメッセージです。
そのような流れの中にある本日の箇所ですが、その前半が、先ほども申し上げた、インマヌエル、すなわちメシアについてのメッセージ、あるいは預言であると受け取ることができます。エッサイの株から萌え出る芽であり、その根から育つ若枝と言われるのが、インマヌエルであるメシアのことです。1節から5節まで、このメシアのことについて描かれ、そののち、そのメシアによって実現する平和のすばらしさが、6節から10節までで描かれています。
このメシアこそ、私たちの救いのために赤ちゃんの姿でこの世に来てくださり、このアドベントの期間にその再臨を待ち望んでいるイエス・キリストです。この方は「エッサイの株から」(1節)と、エッサイとの関連で紹介されます。エッサイとは、イスラエルの民が尊敬するダビデの父のことです。偉大なる王の父となりましたが、エッサイは王家の人間ではありませんでした。イスラエルの初代の王はサウルで、ダビデはそのサウルと血縁関係があったわけではなく、イスラエルの次の王として、サウルの在位中に、油注がれました。エッサイは、ひとりの羊飼いに過ぎなかったのです。羊飼いは、羊の世話のために安息日律法を守ることができませんでしたから、イスラエルでは軽蔑されていました。そのような存在に由来するメシアは、低い姿で来られるメシアです。イエス様の貧しいお生まれを予感させます。
この方の上に「主の霊がとどまる」(2節)と言われるのは、イザヤ書42章で紹介される主のしもべの上に主の霊が置かれるのと共通しています。イザヤ書42章2節にはこうあります。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。」
イザヤ書42章2節で描かれている「主の僕」の姿が、裁きをする姿であるのは、先取りになりますが、11章3,4節で裁きを行うメシアの姿と重なります。そのように、メシアと主の僕には共通点があることがわかります。
そのように、メシアは正しい裁きを行いますが(3,4節)、アッシリアからの脅威にさらされながら、南王国ユダにおいては弱く貧しい人々が顧みられずにいたようです。このように言われています。
11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
ここで紹介されているインマヌエルであるメシアは、表面的な判断はせず、正当な裁きをする。そればかりか、逆らう者を滅ぼす、とまで言われています。
と言われているということは、この当時の南王国ユダに、しっかりと、よく見定めて裁きをしなければならいような現状があった、ということです。また、弱い人、貧しい人が虐げられていた現実があった、ということも暗示されています。
アッシリアが攻めて来る、という状況の中で、国の中がまとまっていなければならないときに、実際は不正が横行し、虐げられていた人がいた。まさに内憂外患といった状況のユダに、平和が訪れると、6節以降で絵画的に表現されています。9節前半に至るまで、動物たちと幼子たちが共存する、実に平和的な情景が、描かれているのです。共存するのは危険だと思われる動物同士が平和裏に共存するだけでなく、申し上げましたように、普通だったらここに登場するような動物と幼子たちが共存するなどとんでもない、考えられないはずなのですが、何とそれが実現してしまう。危険な動物と子どもたちが共存する、という表現で、この箇所では、誰にでもわかりやすい仕方で、平和な世界を描き出しているのです。
ただ、この平和的な光景は、単にユダに留まるわけではありません。「大地は主を知る知識で満たされる」(9節)との広がりを見せ、エッサイの根としてのメシアは、「すべての民の旗印」(10節)とされると言われています。ここでは全世界的な平和も意図されている、と言っても過言ではないでしょう。そして、もちろん、このような平和は、インマヌエルであるメシアによって実現するのです。神われらと共に、と思わず告白してしまうような神様の臨在の恵みの中で、平和は広がっていくのです。
このような表現からもわかるように、アドベントは、平和を求める季節でもあります。この地に平和が訪れ、主のとどまるところが栄光に輝きますように。
今日はこのように、エッサイの株から出る若枝としてのメシア預言を見てまいりました。そして、その方が実現する平和の幻を見てまいりました。
このメシア預言は、そのままキリスト預言として理解されます。このメシアこそ、私たちのために世に来られたイエス・キリストである、と信じるわけです。その時、次のような御言葉を思い起こします。ルカによる福音書24章44節の御言葉です。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
イエス様は、今でいう旧約聖書を、「モーセの律法と預言者の書と詩編」とお呼びになりました。イザヤ書は、その中でも「預言者の書」に属しています。まずそこには、「わたしにについて書いてある」、とイエス様は教えてくださいました。今日開いたメシア預言は、イエス様について書いていたのです。そして、それは「必ずすべて実現する」とイエス様は約束してくださいました。そして、その預言の通り、イエス様は救い主として、世を正しく、公正に裁く方として、また究極の平和をもたらす方として、この世に来てくださったのです。
私たちはこのメシア預言によって、イエス様について教えられ、導きをいただきます。そのことは、先に一緒に交読した本日の交読文の箇所でも語られていました。本日は、聖書日課の中の使徒書の箇所から交読しましたが、その中でこのように言われていました。
「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」(ローマの信徒への手紙15章4節)
かつて書かれたイザヤ書の中のメシア預言は、すべてわたしたちを教え導くためのものでした。それで私たちは、この御言葉から忍耐と慰めを学ぶのです。この世で報われず、自分が公正に扱われていないように思うときにも忍耐し、その私たちのために「神われらと共に」というインマヌエルを体現するメシア、イエス様が来てくださったことで、慰めを受けるのです。そして、このイエス様が再び来られる、到来されることを、希望として待ち望むのです。
イエス様の再臨を、私たちはどのように待ち望むのか。それは、毎月のように聖餐の恵みにあずかり、キリストのまことのからだであるパンと、まことの血であるぶどう酒を親しくいただいて、口で味わいながら過ごすのです。今日、私たちのために聖餐の恵みが用意されています。私たちの救いのために赤ちゃんの姿にまでなって、貧しいお生まれを体験し、十字架につけられ、そののち復活し、天に昇られた方が、私たちに何を成し遂げてくださったか、何を与えてくださったか、その大きな恵みを味わうときです。私たちの罪をすべて赦し、永遠の命に至る約束をくださいました。このイエス様が、私たちを天に迎えるために、再び到来される日を、共に聖餐にあずかりながら、待ち望みましょう。
かつて書かれた本日の御言葉の箇所から、アドベントには平和を思う、ということを教えられ、平和を願う信仰へと私たちは導かれています。イエス様のお誕生の時、天の大軍は天使と共にこう讃美しました。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2章14節)
イエス様の到来には、平和が関係していることがよくわかります。本日は、「平和の幻」という説教題になっていますが、聖書で「幻」とは、神様が与えてくださる大いなるヴィジョンであり、単なるゆめまぼろしではありません。本日の聖書箇所にあった、実にのどかな、平和な情景が、単にあこがれを越えて、実現しますよう共に祈りましょう。
お祈りします。
天の父なる神様。あなたの御名を賛美します。今年もこのアドベントの時期を無事迎え、その第二主日を共に過ごすことができ感謝します。私たちのためにお生まれくださったインマヌエルであるメシア、イエス様が、私たちの罪をすべて十字架の贖いによって赦してくださり、のちには再び来られることを覚えます。その日まで、聖餐を守り、信仰を強められ、歩み続けることができますように。今世界は、とても平和であるとは言えないような状況で、国と国が争い、国境を巡っていさかいが起こっている有様ですが、イエス様が究極の平和をもたらしてくださることを信じて感謝します。その平和を願い求めて、過ごすことができますように。聖餐の恵みにおいて、私たちを永遠の命に至るまで、強めてください。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日礼拝後、昼食会があります。そのあと役員会です。今年のクリスマス礼拝は12月21日です。お誘いください。





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