2025年12月28日 降誕節第一主日
- 明裕 橘内
- 7 時間前
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2025年12月28日 降誕節第一主日
聖書交読 イザヤ63章7~14節(旧約p1164)
司)63:7 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを。
会)63:8 主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。
司)63:9 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。
会)63:10 しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。
司)63:11 そのとき、主の民は思い起こした/昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか/その群れを飼う者を海から導き出された方は。どこにおられるのか/聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。
会)63:12 主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ/民の前で海を二つに分け/とこしえの名声を得られた。
司)63:13 主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが/彼らは荒れ野を行く馬のように/つまずくこともなかった。
全)63:14 谷間に下りて行く家畜のように/主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き/輝く名声を得られた。
聖書朗読 ヘブライ2章14~18節(新約p403)
2:14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
2:16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
説教 「同じ姿になる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
クリスマス礼拝も無事終わり、燭火礼拝の時も祝福のうちに一緒に過ごすことが出来ました。本日は降誕節第一主日を迎えています。クリスマスにこの世に来てくださった救い主であるイエス様がどのような方で、何をしてくださったのか、聖書のことばから共に確認してまいりましょう。
本日は、聖書日課の使徒書の箇所をもとに、ヘブライ人への手紙2章14~18節を開いております。この手紙が誰によって書かれたか、ということは、明らかになっていません。ルターは使徒言行録に出てくるアポロではないかと考えていました。英語訳の聖書では、パウロが著者であるとして翻訳しているものもあります。旧約聖書の大事な御言葉が、ローマ書、ガラテヤ書、そしてこのヘブライ書に引用されている、という現象があり、ローマ書とガラテヤ書の著者はパウロであると明らかになっていますので、そこから類推するとこのヘブライ書もパウロの筆による、と考えることもできます。
ヘブライ人への手紙、と言われながらも、この「ヘブライ人」がどういった人々のことを指すのか、この宛先に関してもまた、不明であると言われます。信仰についてしっかりと語る、当時の説教だったのではないかと言われるこの手紙ですが、1章から神の御子としてのイエス様について、特に天使にまさる存在である、と書いています。そして、この2章になると、御子イエス様は天使に対して働きかけをなさる方なのか、人間に深くかかわられる方なのか、ということが論じられていきます。その流れの中に、今日の聖書の箇所はあることになります。
さて、イエス様は、天におられる神様の御子であられましたが、人間を救うにあたり、その人間が「血と肉を備えているので」(14節)、同じ姿になられました。人間のことを「子ら」と呼んでいますが、これは、前の部分で、13節に、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われていることの影響です。御子イエス様は、天使ではなく、「子ら」と親しく呼ばれる人間に深く関わってくださる、ということを表している御言葉です。イザヤ書8章18節の御言葉がもとになっています。そちらは、このように言われています。
「見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。」(イザヤ8章18節)
この中の、前半を引用したのが、ヘブライ書2章13節です。そこで言われている「子ら」は人間のことを指しており、それを受けて、続く14節で、「子らは血と肉を備えられているので」、と言われているのです。人間とは、血肉を備えた存在である。それを受けて、「イエスもまた同様に、これらのものを備えられました」と記されています。これが、イエス様が私たち人間と同じ姿になられたことを表す御言葉です。
続いて、「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(14節後半~15節)と、イエス様が私たち人間と同じ姿になられた目的が記されています。イエス様は私たちの救いのために、私たちと同じ姿になられたのであり、その救いとは、「悪魔を御自分の死によって滅ぼ」すことで実現しました(14節)。
悪魔とは、ここで「死をつかさどる者」と言われています。もちろん、生も死も、両方とも全知全能の神様がその手に握っておられるのですが、悪魔は限られた権威の中で、人を恐れさせるために、死を限定的に利用しているのです。
その「死」というものがある限り、人は「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった」(15節)のです。人は自ら死を経験することが出来ないため、それを理解することが出来ず、何なのかわからない、得体のしれないものとして恐れる傾向があります。その恐れに振り回され、まるで奴隷のように縛られて、恐怖に打ち震えている人がなんと多いことでしょう。その現状を憐れんでくださり、イエス様はその恐れから人間を解放なさろうとしてくださいました。それを、イエス様は御自分の死によって実現しようとなさったのです。
ですから、当初からイエス様は、ご自分の死を予期しておられたのです。私たちは、このクリスマスに、私たちのために、救い主として「お生まれくださった」イエス様のことを喜び祝いましたが、実はこのことからすると、イエス様は犠牲の死に向けてお生まれになった救い主だった、ということになります。
死を目的として生まれる、ということの意味の深さ、重みを思います。普通、誕生は喜びであり、その先には希望があふれ、どんなこともできる、どんなものにでもなれる、と、可能性に満ちて、輝いているはずです。しかし、イエス様のお誕生はそれとは異なりました。貧しいお誕生だったことも、影を落としていますし、そもそも、「死ぬためのお誕生」とは、何と希望のないことか。それを、本来だったら天において、神様の御子として、何不自由なく光と豊かな富の中でお過ごしになれるはずだったお方が、身をもって体験される。しかも、それは私たちの救いのため。私たちが、悪魔のとりことなり、死の恐怖におびえながら生きることから解放するために、イエス様はあえて、その道をお選びになったのです。
なお心強いのは、「イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです」(16節)と明確に述べられていることです。天使にまさるところなどない私たち人間の方を、イエス様は助けようとしてくださり、事実、助けてくださいました。そうすることに、どんなメリットがあるのか。いや、そのようなことに関係なく、損得勘定抜きに、イエス様はあえて、損をなさる方をお選びになったのです。
その理由は、私たちへの愛、としか言いようがありません。私たちをたいせつに思うあまりに、そのようにしてくださったのです。そして、私たちの罪の償いのために、イエス様はわざわざ、私たちと同じような姿になられたのです。「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」と17節で言われている通りです。
イエス様は、私たちのために、「忠実な大祭司」となられました。大祭司は民のためにいけにえを携えて神殿に入り、神様にとりなしの祈りをささげました。イエス様は人間の大祭司をはるかに超えて、ご自身を永遠のいけにえとしてただ一度神様の御前に十字架でおささげになり、それで人間の罪の赦しを実現されたのです。このことのために、イエス様はとにかく、あらゆる点で、今度は「兄弟たち」と呼ばれる、私たち人間と同じ姿にならなければならなかったのです。
ただし、その結果、神の御子は試練を受けて苦しむ、ということになってしまいました。本来ならば、何の苦しみもない中で、光に囲まれて過ごすはずの神の御子が、試練のただなかに置かれる、ということになってしまったのです。これはありえないことでした。しかしそれは、試練を受けて悩み苦しむ私たちを助けるためには、むしろ好都合となったのです。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(18節)と書かれている通りです。イエス様は、私たちの悩み苦しみを、わかってくださるのです。
ここで、「試練を受ける」とは、「苦しむ、苦しめられる」あるいは「悪に苦しみ、それを耐え忍ぶ」という意味です。イエス様は空腹に苦しめられたことがあり、人々の無理解に直面し、十字架に際して、人の悪を目の当たりにし、それを身に浴びるかのように受け止め、忍耐されました。まさにこれは、試練をお受けになった、としか表現しようのないことでした。そのようなご自身の体験は、決して無駄にはなりませんでした。私たち人間も、欠乏に苦しみ、なんで私のことをわかってくれないんだろうと嘆き、この世の悪に直面して言葉を失い、絶望し、それでも何とか生きていこうと、歯を食いしばってきました。人間の世界からはるか高いところで、まばゆい光の中で暮らしておられるような方であれば、そのような人間の苦しみなど、わかりようもないし、わかろうともしなかったかもしれません。しかし、私たちの救い主、このクリスマスに私たちのもとに来てくださったイエス様は、地の低いところまでわざわざ降りて来られて、地面に近くあり、顔を地にこすりつけるように身を低くして、私たちの悩み苦しみをつぶさにご覧になり、わかるよ、と言ってくださって、助けてくださるのです。私たち人間と同じ姿になられたからこそ、わかることなのです。
しかも、ここで言われている「助け」というのは、本当に困った時の助け、緊急時の助け、といったような意味なのです。今年一年振り返って、いかがでしたでしょうか。あの時この時、本当に困った、あれはたいへんだった、と言うときがあったと思います。まさにそのような時こそ、この、私たちと同じ姿になられたイエス様は、助けの手をさっと伸べてくださるのです。
同じように、来たる2026年も、イエス様は私たちの近くにおられて、困ったときに、助けてくださいます。私たちのことを良く知っていてくださる方の助けですから、頼りになります。感謝してこの一年を終えて、期待と信頼を胸に、新しい年を迎えましょう。
お祈りします。
天の父なる神様。この一年も、あなたの御手の守りのうちにあり、私たちが今日まで過ごしてくることができ感謝します。あなたがお遣わしになった御子イエス様が、天使ではなく人間を助けることを旨としてくださり、私たち人間と同じ姿になられて、私たちを助けてくださったこと、感謝します。その死によって、悪魔の力を打ち砕いてくださったことは何よりも心強いことです。今年一年の感謝を胸に、新しい年、創立70周年の2026年に向かって行くことが出来ますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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・先週はクリスマス礼拝でした。1月1日午後1時半から元旦礼拝です。1月4日が、新年最初の主日礼拝です。





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