top of page

2025年12月21日 クリスマス礼拝

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 4 時間前
  • 読了時間: 10分

 

聖書交読 イザヤ7章10~16節(旧約p1071)

司)10: 主は更にアハズに向かって言われた。

会)11: 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

司)12: しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

会)13: イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。

司)14: それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

会)15: 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。

全)16: その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。



聖書朗読 マタイ1章18~25節(新約p1)

18: イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

19: 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

20: このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

21: マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

22: このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23: 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

24: ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、

25: 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。



説教 「インマヌエルであるキリスト」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日はクリスマス礼拝です。今年もいろいろあった世の中でしたが、無事クリスマスを迎えることが出来ました。今日は、このクリスマス礼拝の中で、喜びの洗礼式もありました。ご家族皆さんが洗礼を受けておられる花房さんが、導かれてこの度洗礼を受けられたことは、ご家族にとっても、教会にとっても大きな喜びです。また、今日は森由貴さんの特別賛美もありました。この後にもまた賛美していただきます。素晴らしい賛美のうちに、この礼拝の時を過ごすことができ感謝いたします。


さて、せっかくですから、先ほどお開きいただいた聖書の箇所から、しばしお話をさせていただきたいと思います。本日の聖書箇所は、イエス・キリストの系図が記されたあとに置かれ、イエス・キリストのお誕生の次第を述べています。まずこの箇所では、母マリアが身ごもったのが、聖霊によることであったことが述べられています。「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と18節で述べられるだけでなく、20節においても、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と繰り返し述べられています。ちなみに、「聖霊によって」というのは、シンプルに「聖霊から」という書き方になっています。


聖霊とは、「世界の中で働く神の力である」と説明されることがありますが、それ以上の存在です。聖なる三位一体において、聖霊である神様として知られています。また併せて、「新約聖書において、慰め主(ぬし)、あるいは助け主(ぬし)、弁護者として描かれる」と言われることがあります。マリアが身ごもったのは救い主イエス・キリストでしたが、それが聖霊による、というのは、どういうことでしょうか。それはひとつには、聖霊とは慰め主、あるいは助け主ということですから、民を慰め、助ける方が、民のことを思って、救い主を誕生させてくださる、ということです。救い主の誕生は、聖霊である神様の私たちに対する慰め、また助けの表われ、ということです。この方が私たちを救ってくださる、ということは、助けてくださる、という意味でもあるのです。


また、それだけでなく、聖霊は弁護者である、ということでしたから、弁護者である方が、マリアから生まれてくる子が不適切な関係によるものではないことを弁護してくださる、ということでもあります。確かに、マリアとヨセフはこのときまだ婚約関係にあっただけで、結婚はしていませんでした。しかし、マリアが聖霊によって救い主を宿した、ということは、イエス・キリストが不適切な関係から生まれた方ではない、ということの証明であって、これこそ弁護者である聖霊が、二人を弁護してくださった、ということでもあるのです。


この、聖霊が弁護してくださる、ということに関しては、また私たちにとって大きな慰めがあります。私たちはこの地上の歩みにおいて、「もう一言説明したかったのに」ということを何度も経験します。「あの時言葉足らずで、誤解されてしまった。あれは意図していたこととは違っていた」ということや、「私の不用意なふるまいで勘違いさせてしまった」ということなどいくらもあって、「言い訳したい」というのは私たちの思いの根底に残っていたりするものです。それでも、なかなか弁明する機会などないわけですが、そのような私たちにとって、聖霊が弁護者である、というのは何と大きな慰めでしょうか。私は弁解できない。しかし、聖霊が働いてくださるときに、私にできない弁明を代わりにしてくださって、いいようにしてくださる。そのことを希望として持つことができる慰めのメッセージです。


さて、このイエス・キリストの誕生は、「主が預言者を通して言われていることが実現するためであった」(22節)ということが打ち出されています。預言者イザヤの預言は、「インマヌエルと呼ばれる子が生まれる」と告げていました。このような預言が、旧約聖書から紹介されています。


「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(23節)


これは、先ほど聖書交読で一緒に読みました、イザヤ書7章からの引用です。


「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7章14節)


イザヤ書7章14節に、そのようにあらかじめ預言されていたのです。


その通りに、キリストが「インマヌエル」と表現される喜ばしい状況を実現するために、生まれてくださいました。そのことを祝うのがクリスマスです。「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」という、世界の様子の描写です。目に見える状況が、いくらそれとは異なるようであっても、実はこの世界に神様がおられて、私たちと一緒にいてくださる。そのことが、救い主イエス・キリストのお誕生によって実現したのです。まさに、このキリストこそインマヌエル、インマヌエルであるキリスト、ということです。


とは言うものの、このイエス・キリストのお誕生から2000年以上たち、世界は広くなり、科学は発達し、神話は排除されて、世界にあるのは物質のみ、そのような世界観は広まっていっています。その世界の中で、私たちは幸せだけ享受しているかと言うと、ほとんど触れてきませんでしたが、今年は終戦から80年、まだ悲惨な戦争の記憶は消し去られてはいません。その後日本は様々な災害を経験し、最近では異常とも思える物価高騰の連続、かと思うと、今年一年の漢字が「熊」であることからもわかる通り、私たちの住環境が脅かされて、少し前まで感染症によってあの「不要不急の外出を控えるように」というのが、今は危険な動物のせいで「不要不急の外出を控えるように」と言われるまでになっている。あのコロナ禍のあとで、「またいずれ今後も同じように感染症の恐怖によって外出が制限され、礼拝に自由に行くことができない時が来るかもしれない」とは思ったものの、まさか熊の出現の脅威によってそれが起こるとは、思っても見ないことでした。今挙げたようなものは、現代の社会の描写のほんの一部分であって、ほかにも様々なことで痛み、苦しみを抱えている人がたくさんいるわけです。そのような状態なのに、「神は我々と共におられる」と言うのは、少々楽天的過ぎはしないか、そのような言葉が聞こえてきてもおかしくはないでしょう。


しかし、「神は我々と共にいない」、としか思われないような世界のただ中で、たとえ目には見えなくても、「神は我々と共におられる」と宣言できるのは、周りの環境の良し悪しによるのではなく、そこにイエス・キリストがおられるかどうか、ということにかかっています。そして、確かに約2000年前、イエス・キリストは確かにお生まれになって、神が人となってこの世界に到来し、まさにご自身がインマヌエルとなって、「神は我々と共におられる」という世界が実現したのです。現実を打ち破る力。「もうこの世界はこうなのだから仕方ない」と俯いて過ごすことから私たちを解放するメッセージは、まさにこのインマヌエルであるキリストにあるのです。


このインマヌエルのメッセージが、世界を変えた。その具体例を紹介しましょう。このインマヌエル預言の成就の知らせを聞いて、ヨセフはマリアを妻として迎え入れていますが、実はこのメッセージがわからないとき、ヨセフは正しい人だったのですが、正しい人であったがゆえに、離別を心に決めていました。結婚もしないうちに身重になってしまった「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)とあります。そうです。神は我々と共におられる、という真理が明らかにされていなかったときは、それぞれの持つ倫理観によって、これが正しい、というのを振りかざして、物事を分け、人を切り離し、交わりを絶っていたのです。そういう世界だったのです。しかし、インマヌエル、神は我々と共におられる、という真理が明らかになると、このインマヌエルによって、新たな人のつながりができるのです。別れるはずだったヨセフとマリアが、一緒になったのです。そしてそのつながりは、豊かに祝福されていくのです。神様が一緒におられる世界では、分断が起きるのではなく、人々が一緒に生きる、ということが起こるのです。ですから、現代において、世界の分断が叫ばれているのは、本当は神様のお喜びにならないことなのではないでしょうか。


ひとこと言い訳したい、でもできない、という葛藤の中に生きる私たちに、聖霊は弁護者であり、きっと良い方向に私たちを導いてくださる。そして、この聖霊によって、すなわち聖霊から来る恵みによって、インマヌエルであるキリストはお生まれになり、誰もが神は我々と共におられない、と絶望してしまうような世において、それでも、神は我々と共におられる、と言えるような状況を作り出してくださり、分断ではなく、出会いを与え、人々を結びつけ、つながりをつくってくださる。一緒におられる神様だからこそ、人々が和合して一緒に過ごす恵みを実現してくださる。この恵みの状況を、私たちにとって「救いである」、すなわち救いとはこのことなんだ、と言っても、それは言い過ぎではないでしょう。このクリスマス、皆様がそのような神様の恵みのうちにお過ごしになられますように。


お祈りします。

天の父なる神様。このクリスマス礼拝の時をありがとうございます。花房さんの洗礼式、また森由貴さんの特別賛美を感謝します。

私たちのために聖霊が弁護者として私たちの側にいてくださり、弁護してくださることは心強いことです。また、この神もいないような世において、実はキリストの誕生によって、神は我々とともに、という状況が生まれていて、まさにこのキリストがインマヌエルの存在であることに感謝します。この世界に、神様がおられること、私たちと一緒におられること、感謝します。一緒にいる、ということを大事にする神様だからこそ、新しい出会いが生まれ、人とのつながりが出来ます。そのような喜びの中に生きることができることは大きな幸せです。いつもこの喜びの内にとどまらせてください。尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日は午前も午後もクリスマス礼拝です。午後は園田伝道所でのクリスマス礼拝です。昼食会があります。24日水曜日午後7時からクリスマスイブ燭火礼拝です。

ree




コメント


御影ルーテル教会

658-0047 神戸市東灘区御影3-10-5

tel: 0788420446

©2022 by 御影ルーテル教会  Wix.com で作成されました。

bottom of page