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2025年12月14日 待降節第三主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 1 分前
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2025年12月14日 待降節第三主日 

聖書交読 詩編146編5~10節(旧約p986)

司)146:5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人

会)146:6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は

司)146:7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち

会)146:8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し

司)146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

全)146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。


聖書朗読 マタイ11章2~11節(新約p19)

11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、

11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。

11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」

11:7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。

11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。

11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。

11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。

11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。


説教 「使者の存在」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


先週は、週報にも記したとおり、原春美姉の召天という大きな出来事がありました。104歳でした。11日木曜日午後に告別式が執り行われましたが、その時の印象的な、美しいご遺影は、今年同じく104歳で天に召された西村姉がお撮りくださったものでした。ご家族に神様からの慰めがありますようお祈りします。


本日待降節第三主日は、聖書日課の福音書の箇所を開いております。洗礼者ヨハネについて語るところです。前の単元では、具体的には9章35~11章1節ですが、12弟子の派遣について記されていました。ここでは、イエス様の働きに対する反対について記されています。11章2~12章50節の部分です。すでにあったイエス様に対する反対が強まっていく様子を描いています。その中で、11章19節までが、洗礼者ヨハネとイエス様のことについての箇所になっていますが、本日読むのはその前半、11節までとなっております。



この時洗礼者ヨハネは牢の中にいました。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」と2節に記されていることからそれがわかります。ここで、念のため、「キリスト」という言葉について確認しておきましょう。「キリスト」というのは、ヘブル語の「メシア」という言葉のギリシア語訳です。「選ばれた者」あるいは「油注がれた者」という意味です。油を注ぐことで、油を注がれた者が特別に重要な職務に選ばれた者であることを示したと言われます(サムエル上12章13~15節)。イスラエルでは、民の信仰を新たにし、神の目的を成就する指導者を、神ご自身が選び、その者に力を与えると信じられていた、とも言われています。


イエス様がそのメシア、すなわちキリストであると予感していたヨハネでしたが、彼の持っていたメシア像と異なったからか、「ほかの方を待たなければなりませんか」(13節)と尋ねます。恐らく多くのユダヤ人と同じように、洗礼者ヨハネは、イスラエルをローマの支配下から解放する軍事的なメシア像を信じていたのだと思います。そうすると、いくら直感的に、イエス様がメシアではないかと思い、イエス様に洗礼を授けにしても、一向に軍事的な活動を開始しないイエス様の姿に、ふと心配になることがあったのでしょう。特に今彼は牢の中にいます。不安が駆り立てられる要件は揃っていました。だからつい、弟子を通して、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねてしまったのです。


それに対し、イエス様は、ご自分を旧約聖書イザヤ書の預言の成就であると語り、ヨハネを安心させようとなさいます。


「 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(5節)


これは、イザヤ書35章、また61章の預言がもとになっています。ちょっと確認してみましょう。


「そのとき、見えない人の目が開き

  聞こえない人の耳が開く。

 そのとき

  歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」(イザヤ書35章5節、6節前半)


「主はわたしに油を注ぎ

  主なる神の霊がわたしをとらえた。

 わたしを遣わして

  貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」(61章1節前半)


ユダヤ人たちは、これらのことが、メシアの到来によって実現する、と信じていました。特に、二番目に読みましたイザヤ書61章に登場する「わたし」、油注がれ、貧しい人に良い知らせ、すなわち福音を伝えるために遣わされる者こそが、メシアだと信じられていたのです。これらのことが、実に、イエス様の到来によって、実現した。そのことを、この箇所では宣言しています。この「到来」を意味するのが「アドベント」で、今このアドベントの期間はこのイエス様の到来に思いをはせる期間です。イエス様が到来することによって、メシアによって実現する、と信じられていた事柄が実現していった。そのことが、イエス様をメシア、すなわちキリストとして信じる材料となるのです。


イエス様はそれをヨハネの弟子たちに示して、師であるヨハネを安心させようとなさったのです。イエス様の深い思いやりを知ることができます。「わたしにつまずかない人は幸いである」(6節)とは、ヨハネを励ます言葉でもあり、また、イエス様に反対する力が強まっていくことが記されているこの11,12章において、テーマとなる御言葉であるとも言われます。


私たちも、この「わたしにつまずかない人は幸いである」という言葉は語られています。私たちが、イエス様がキリスト、メシアである、ということを見失う時、それがイエス様につまずく時です。ヨハネ同様、「来(きた)るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねてしまう時、疑問に思うような時、せっかく一度はイエス様を信じるに値する方、私を救ってくださる方ではないかと信じたのに、何かで目がふさがれ、その信仰を見失ってしまう。それは地上における悲しみかもしれない。あまりにもこの地上には、悲しみや痛みが満ちあふれています。別れの悲しみがあります。失う悲しみがあります。病やケガといったものも、私たちに痛み、悲しみをもたらします。期待が裏切られた時。理想通りにいかないことが分かった時。それまで太陽が明るく照っていて、温かい日差しを喜んでいたものが、急に黒い雲が現れ、雨嵐になって心ふさぐように、順調に行っていたときは信じ、逆境に陥ると疑う。これは、人間の自然な心の動きなのでしょう。しかし、イエス様は、「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃいました。詳しく調べると、「幸いである」という言葉がまず最初に語られていることがわかります。これは、同じマタイによる福音書で、たいへん良く似た言い方、「心の貧しい人々は、幸いである」(5章3節前半)という有名な言葉がありますが、それと共通しています。そちらも、まずは「幸いである」という言葉がいちばん最初に語られているのです。まず何よりも、イエス様が洗礼者ヨハネの、そして私たちの「幸い」のことを考えていてくださる、ということがうかがい知れる表現です。


さて、この箇所では、イエス様が、洗礼者ヨハネとは誰だったのか、群衆に教えておられます。イエス様は、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか」と7節から9節で群衆に迫っています。そして、そのヨハネを、「預言者以上の者である」(9節)と断言なさいます。


では、預言者以上の者であるならば、どのような存在なのか。イエス様は、今度はマラキ3章1節の預言の成就として、彼を「使者」(10節)である、と呼んでいます。


「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。」(10節)


このように書かれている通りです。この中の、二重鍵括弧でくくられている部分、『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』が、マラキ書3章1節からの引用です。そして、「そのように書いてあるのは、この人のことだ」と断言することによって、イエス様は、このマラキの預言の中で言われている「使者」こそが、洗礼者ヨハネであったことを明らかにしておられるのです。


では、この使者という存在は、何のために必要だったのでしょうか。メシアであるキリストの到来は実に重要なことでした。そのためには先に使者という存在が遣わされ、その到来に備える、ということが必要だったのです。そして、その使者こそがヨハネだった、とイエス様は述べるのです。


毎週土曜日には、午後4時から、御影ルーテル教会の祈祷会が行われております。現在は旧約聖書から1章ずつ読んで、お祈りしておりますが、昨日は旧約聖書ネヘミヤ記の6章を皆さんで開きました。その中に、興味深いことに、ちょうど「使者」という言葉が使われていたのです。時は紀元前5世紀ごろ、ネヘミヤという人物が、バビロン捕囚から民が帰ってきた後、神殿の再建は実現したけれども、エルサレムの城壁がまだ再建されていなかった、という苦境を知り、城壁再建に奮闘する、という出来事を記しています。その時、周囲の民から妨害を受けたこともはっきりと記されていて、そのような中で、敵からの呼び出しを何度も受けたことが報告されています。その呼び出しに対し、ネヘミヤは使者を送って「わたしは大きな工事をしているので、行けません」と言わせるのですが、ここに、使者とは何かが示されています。使者とは単なるお使いではなく、ネヘミヤの全権を託された存在であって、彼が語るのは、ネヘミヤが語るのとまったく同じ重みを持っていた、ということです。


そのことからすると、洗礼者ヨハネが使者である、ということは、遣わした方の全権を担っており、その方の言葉を携えて、それをそのまま語る、ということを意味しています。それだけ、使者の存在は重みがあるのです。そして、その重要な役割を、ヨハネが担った、ということです。ヨハネは主なる神様によって遣わされました。その方の全権を委託されて、そして、主の言葉を語る。それが、ヨハネだったのです。


イエス様が加えて、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(11節)とおっしゃるのは、彼への最大の賛辞かと思いますが、それだけでなく、使者の存在の大きさ、ヨハネが担った役割の重要さを示しているのでしょう。それだけ、キリストのための道備えは重要な役割だったのです。せっかくメシアであるキリスト、すなわち救い主が到来するのだから、それを見逃すことなく、多くの人が大事なこととして受け止めることができるように、ということで、その準備はとても大切なことでした。


そのように、洗礼者ヨハネが高く評価される一方で、もうひとつの真理が明らかにされます。それは、キリストによって天の御国の門が開かれた今となっては、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(同節)と言われていることです。いかにヨハネが偉大な存在であろうとも、天の御国に迎え入れられる恵みにまさることはない、ということなのでしょう。それは私たちにとって励みとなります。キリストのための使者としての存在であるヨハネに、何もまさるところのない私たちかもしれませんが、では価値がない存在なのかと言うと、決してそんなことはないのです。聖書にその名を記されるような、名高い存在ではないかもしれないけれども、尊いのは私たちが何をなしたか、ということよりも、私たちがメシアであるキリストに出会って救われて、天の御国に迎え入れられる、ということなのです。私たちには、その約束があります。そして、確かに、私たちと共に信仰生活を歩み、私たちより先に天に召されていった兄弟姉妹方は、すでに御国で安らぎ、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」という神様からの大きな賛辞の言葉をいただいています。それは、まさに地上の労苦を解かれて休みに入った、としか表現しようのない、大きな恵みです。私たちも、このいろいろなことの起こる地上の旅路を忍耐して進んでいく時に、やがて天に召し上げられ、同じように「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とおほめいただいて、忍耐して生きてきてよかった、と、本当に報われる時を経験します。その日まで、一緒に信仰の道を、一歩一歩地道に歩んでまいりましょう。


お祈りします。

天の父なる神様。あなたの御名を賛美します。御言葉から語りかけてくださり、使者としての洗礼者ヨハネの存在を私たちに示してくださり、感謝します。使者であるヨハネが先立っていき、準備をする必要があるほど、イエス様の到来は重要な出来事でした。その到来、アドベントを私たちの救いのために御用意くださり、感謝します。ヨハネは偉大な人物でしたが、私たちがいよいよ天の御国に招き入れられるとき、彼より偉大である、と私たちに声をかけてくださるのは私たちにとって大きな慰めの時となるでしょう。どうかその日まで、それに憧れて、天の御国目指して歩み続けることができるように、私たちの弱い足を強めてください。尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


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来週は午前は御影、午後は園田でクリスマス礼拝です。森由貴姉の特別賛美があります。皆さんお越しください。12月24日はクリスマスイブ燭火礼拝、夜7時からです。

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