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2025年11月23日 聖霊降臨後最終主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2 日前
  • 読了時間: 13分

聖書交読 エレミヤ23章1~6節(旧約p1218)

司)23:1 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。

会)23:2 それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。

司)23:3 「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。

会)23:4 彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

司)23:5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。

全)23:6 彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。


聖書朗読 ルカ21章5~19節(新約p151)

21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。

21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

21:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」

21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。

21:9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

21:10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。

21:11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。

21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。

21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。

21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。

21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。

21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。

21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


説教 「聖霊降臨後最終主日に際して」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日は聖霊降臨後最終主日です。今年2025年も、いろいろなことがあったかと思いますが、無事ここまで来ました。「最終主日」というのは、三位一体主日の後の、聖霊降臨後の季節が最終の日曜日を迎えた、というだけでなく、教会の暦の一年の終わりをも意味しています。ですから、今日は教会の暦の上では一番最後の日曜日、もう大晦日も近い、といったイメージです。しかも、「最終」という言葉からもイメージされるように、終末のこと、世の終わりのことも考えさせられる時です。この説教の後は、世の終わりのことについて歌う讃美歌497番を皆さんで賛美することになっています。


本日の福音書の箇所は、新共同訳の小見出しで言うと「神殿の崩壊を予告する」と「終末の徴」という部分で構成されています。両方で、イエス様の終末についての教えとなります。


イエス様の十字架へと向かう旅は終わり、エルサレムにおいて、十字架も間近、という時のことです。エルサレム神殿の壮麗さ、その立派さをほめそやしている人々がいました。それを聞いて、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(6節)と、イエス様は神殿の崩壊を予告なさいます。「見とれている」というのは、じっくり見る、よく観察する、という意味で、その人たちが神殿をちらっと見て神殿をほめたたえたわけではない、ということがわかります。本当は、すぐそばに本当の神の神殿である御子イエス様がおられたわけですから、イエス様をじっと見るべきだったのですけれども、共におられる方がどんなに偉大で貴重な存在か、その時はわからなかったのでしょう。


このあと、7節から終末の時の徴についてお話しされますが、この場合、神殿の崩壊を終末の出来事と見立てて、その徴についてお話しなさっているのです。やはり終わりの時のこと、と言われて関心を持たない人はいません。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」(7節)と、かなり前のめりになって、イエス様に尋ねています。恐らく私たちも、同じような状況に置かれたら、同じように尋ねたのではないでしょうか。


ここではまず、その質問に対して、イエス様が最初に何をお話しになられたのか、ということが重要です。それは「惑わされないように気をつけなさい」(8節)という警告でした。終末について考えるとき、まず重要なのは、惑わされないことなのです。それだけ、「終末が近い」と言って人を煽り、過った行動へと駆り立てる偽りの教えが多い、ということなのです。イエス様はここで、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」と続けておられます。私こそイエスである、終わりの時が近づいた、と触れまわる者が、何と大勢現れる、というのが、イエス様の警告でした。今の時代なら、「たとえ私がイエスだ、などと言ったとしても、すぐに顔が違う、ということでばれてしまうのでは」と思ってしまいます。しかし、この当時は写真もありませんしテレビのニュースもありませんから、イエス様がどんな顔をしているか、知っているのは実際に会った人だけ、という状態でした。全くの別人が、「私こそイエスだ」などと偽ることも、今より難しくはなかったのです。


そのような偽り、惑わしが横行するからこそ、「惑わされないように気をつけなさい」とイエス様は開口一番語られたのです。何を最初に言うか、これは大事なことです。最初に伝えることが、いちばん大事な情報である、というケースもあるのです。終末に関する偽りの教えに惑わされてはならない、まずこのことをいちばんに伝えたかったので、まずイエス様はこのように言われたのです。


そして、次に聞くべきは、「世の終わりはすぐには来ないからである」(9節)というイエス様のことばです。「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」とイエス様はおっしゃいました。戦争や暴動が今この時代にもある、ということは、私たちは日頃の報道などで痛いほどわかっています。また、続く10節以降の「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」と聞くと、イエス様、今の時代のことですか、と言いたくなるぐらい、今現在起こっていることを言い当てているようにも思えてきます。現在の日本と隣国の関係。方々で起こる地震。警報級のインフルエンザの蔓延。太陽の活動が活発で、普段は見られないとされる地域で見られるオーロラ。兵庫でも、昨年5月に観測されたと聞きます。これらのことを見聞きしては、「もう世の終わりも近いのではないか」とそわそわと浮足立つ、ということも、ないとは言えません。


また、世界が混乱してくると、「こんな世界は早く終わったらいい」と、一度クリアしたくなる気持ちも起きるかもしれませんが、そう簡単に世の終わりは来ないのです。「世の終わりはすぐには来ないからである」とイエス様が念を押しておられるとおりです。私たちが週末のことを思うと浮足立つことを良く知っておられて、イエス様はあえてこのように言っておられるのです。そしてまた、終わりがすぐには来ない、ということは、まだ私たちには時間がある、ということを意味しています。そして、その時間に、まだまだ教会にも、私たちにも、この世においてすべきことがあるのです。


そのひとつは、「証し」です。「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(13節)とイエス様が言われている通りです。しかも、その証しのことばも、イエス様は与えてくださるのです(15節)。ここで言われている「証し」は、どちらかというと「弁明」といったニュアンスがあります。14節で「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」と言われてることからも、それはわかります。イエス様の当時の状況においては、まさにそのとおりでした。むしろ、ここで描かれているのは、迫害の状況です。イエス様を信じているがゆえに、人々から憎まれる、とまで言われています。若い頃、教会に通い始めたばかりの頃にこのような箇所を読んで、果たしてやっていけるのかと、焦ったり、不安になったりしたものでした。皆さんはこの箇所を読まれていかがでしょうか。ただ、やはり聖書の言葉には、書かれた当時の人々の具体的状況に向けて書かれた時の意味と、そののちの時代に生きる私たちがまったく違った文脈と時代に置かれて読むときの意味と、二重性がある場合もあります。必ずしも今この現代の日本で、イエス様を信じているがゆえにここまでの迫害にあうとは限りません。かつて日本でもいろいろとクリスチャンになるうえで苦労する時代はありました。ただ、現代は若干それとは違います。そのような時代においては、ここではむしろ、教会と私たちが、イエス様の素晴らしい救いの恵みの証しをしていく、という意味でこの「証し」という言葉を捉えることも可能だと思います。終わりの時まで、教会と私たちはその意味で、世に証しをしていくのです。


それにしても、世の終わりに向けて、ますます苦しい時代になり、私たちが人から憎まれる、と書いてあるのもまた確かですから、私たちがこれからますます教会が広まり、多くの人が喜んで教会に来るようになる、と夢見ることと矛盾します。私たちは、神様の絶大なる恵みと私たちの証しによって、多くの人々が教会に訪れることを願っています。そのために、どうしたら教会の敷居が低くなるのか、教会に人が来やすくなるか、日夜祈り、考えているのです。しかし、これから私たちが向かって行く時代というのは、むしろ教会と私たちを人々が憎む時代である。こう書かれているのはなぜなのでしょうか。私の知り合いは、地の塩である私たちクリスチャンは、そのゆえに少ないのだ、むしろ小さな群れであるべきだ、というようなことを言いました。クリスチャンは多い方がいい、教会は大きくならなければならない、というのは、大きいこと、そして多いことを良しとする思想の影響かもしれません。神様が考えておられることは、それとは異なるかもしれないのです。


しかし、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)という言葉を通して、「何も心配はいらない」と慰め励ましてくださるのが、私たちのイエス様です。聖霊降臨後最終主日に際して、世の終わりのことを思うとともに、不安なくそこに向かって行けるよう、イエス様がご配慮くださっていることにも、感謝したいと思います。


まとめとして、聖霊降臨後最終主日に際して聞くべきイエス様のことば3つと、ひとつの励ましについて、改めて触れていきたいと思います。


聖霊降臨後最終主日に際して聞くべきイエス様のことば、まずそれは、「惑わされないように気をつけなさい」です。終わりの時に向かって、様々なことを言い出す人があっても、私たちは惑わされずに、イエス様だけを見つめていくのです。


第二に、「世の終わりはすぐには来ないからである」ということばに、しっかりと耳を傾けたいと思います。すでにお話ししたとおり、世の終わりと聞くと、どうしても浮足立つところがあるのが人間です。だからこそ、私たちが地に足をつけてしっかりと、丁寧にこの人生を送っていくことができるために、イエス様はこの言葉を与えてくださいました。いずれ世の終わりは来るのです。しかし、すぐには来ない。この緊張関係の中に私たちは生きていくのです。


第三に、私たちにはイエス様の「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」という慰めと励ましの言葉があります。「何も心配はいらない」という言葉です。これからどんなに困難な時になろうと、私たちには何も心配いらないよ、と優しく声をかけてくださるイエス様がおられるのです。どんなに心強いことでしょうか。


最後に、イエス様のひとつの励まし、それは証しへの励ましです。このイエス様の言葉を改めて聞きましょう。「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」。終わりの時に、困難なことがあったとしても、それは証しの機会となる、ということでしたが、終わりの時代に生きる私たちは、どんな状況においても、教会において、また教会を通して、世に証しをしていくのです。


では具体的に、証しの場を考えていきましょう。証しの場、あるいは機会として考えられるのは、礼拝です。今年も、礼拝の中で証しの機会がありました。また、家庭集会も、それ自体、良い証しの機会です。創立70周年に向けて、家庭集会が増えていくことを願っています。また、現在鋭意創立70周年記念誌のための原稿を募集していますが、それもまた、良い証しの機会です。


とは言え、証し、証しと言われても、何を言ったらいいかわからない、とおっしゃるかもしれません。しかし、心配する必要はないのです。イエス様はおっしゃいました。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(15節)。どんなに聖書とキリスト教に反対の人でも、「なるほど」と唸ってしまうような証しの言葉を、イエス様は私たちに与えてくださるのです。なぜですか。それは、イエス様がそれほどまでに、私たちを愛していてくださるからです。私たちの身代わりになってご自身の命を十字架でお与えになられたイエス様は、それに加えてすべてを、私たちにお与えくださるのです。証しのことばは与えられる。これが私たちの信仰です。


どう与えられるか、というのは、神様の神秘に属する、と言ってしまえばそうなのですが、ひとつお勧めしたいのは、「聞いてみる」ということです。皆さん、日頃から神様の声を聞こうとしておられますでしょうか。聖書を読むとき、そこから神様の声を聞き取ることができるように、祈っておられますでしょうか。祈るとき、細き御声によって答えてくださる神様の声を期待しておられるでしょうか。往々にして、時短、時短と忙しい私たちは、何でもさっさと済ませようと、座って祈り出しても、矢継ぎ早に「これをしてください、あれをしてください」と願いごとを言うばかりで、それを言い終えるとそそくさと立ち上がり、ああ忙しい、忙しいと、どこかに行ってしまうことが多いのではないでしょうか。案外私たちの方が話しっぱなし、ということです。これでは、対話になりません。祈りは神様との対話、と言われるのに、神様が何か話し始められる前に、私たちは「祈りは以上です、アーメン」と言って立ち去ってしまう、ということはないでしょうか。まずは座り直して、「神様、語ってください」と、静まって耳を澄ますのです。そうすれば、肉声で何か聞こえる、ということではないにしても、不思議にも、何か神様が語ってくださった、という経験をするものです。


そうやって、神様に尋ねながら、地道に証しをしていく者に、イエス様は激励の言葉をお与えになります。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」。皆さんで一緒に、この永遠の命の世界に入っていきましょう。


お祈りします。

天の父なる神様。あなたの恵みと憐れみに感謝します。聖霊降臨後最終主日に際して世の終わりについてのイエス様の言葉を聞きましたが、惑わされないように気をつけなさい、世の終わりはすぐには来ない、そしてあなたがたは何も心配しなくてよいと、声をかけてくださり感謝します。また、証しへの励ましをありがとうございます。私たちの証しの歩みを祝福してください。尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


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・本日午後は三浦綾子読書会です。来週は昼食会とフェローシップMLCがあります。

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