2026年1月4日 顕現主日
- 明裕 橘内
- 1 日前
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聖書交読 イザヤ60章1~6節(旧約p1159)
司)60:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。
会)60:2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
司)60:3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
会)60:4 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。
司)60:5 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。
全)60:6 らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
聖書朗読 マタイ2章1~12節(新約p2)
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
説教 「救い主、世に現る」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
改めて、主の新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。1月1日は、午後1時半から元旦礼拝がありました。教会創立70周年の記念の年を礼拝をもって始めることができ、感謝です。
さて、今日は教会創立70周年の記念の年の最初の主日礼拝の日ですが、教会暦では、顕現主日とされています。これは、1月6日の主の顕現日に最も近いからです。この顕現日とは、救い主イエス・キリストがご自身の姿を異邦人に現わされたことを記念する日です。そのことを「顕現」と呼んでいるのです。私たちも、ユダヤ人ではない、という意味では異邦人ですから、その私たちにとっても、たいへん重要な日であることになります。私たち異邦人のために、救い主イエス様は姿を現わしてくださったのです。
本日の福音書の箇所は、いわゆる「東方の博士たち」がイエス様を礼拝した次第について記しています。これが、むしろイエス様の方が異邦人にお姿を現した出来事であったと理解されているのです。と言いますのも、この東方の博士たちが、異邦人だったからです。1987年、私たちが使っています新共同訳が出されましたが、その時、この東方の「博士たち」が「占星術の学者たち」と訳されていて、大きな違和感を生じさせました。「占星術の学者たち」と訳された言葉は、「賢者」とも訳されます。また、「教師」「祭司」「医者」「占星術者」「先見者」(予知能力者)、「夢を解き明かす者」「占い師」「魔術師」と言ったような多様な意味があります。博士と訳すことも、占星術の学者と訳すことも、もちろん可能なのですが、2018年の聖書協会共同訳では、また従来の「博士たち」という訳に戻っています。かと言って、彼らが宗教的に中立的だったとか、もともとユダヤの宗教の方に関心があったとか、そのようには言い切れません。彼らが何らかの、ユダヤの宗教とは相容れない宗教であったり、あるいはややオカルト的な背景を持っていた可能性はあります。
そのような、まさにこれぞ「異邦人」といった人々が、ユダヤにやって来ました。ですから、そこには何らかの宗教的、あるいは信仰的摩擦はあったと思うのです。しかし、占星術の学者たち、あるいは博士たちは、自分たちの持つ信仰的背景のゆえに、ユダヤの地には足を踏み入れられない、とは思いませんでした。彼らは、ある意味で境界線を破って、新たな地へ入ってきたのです。私たちも、今年、自分で勝手に定めてしまった自分の境界線、あるいは限界の線を越えて、新しい世界に足を踏み入れたいものです。
さて、彼らの携えてきた贈り物である「黄金、乳香、没薬」(11節)ですが、なぜこれらだったのかと疑問に思われたことはないでしょうか。黄金は説明するまでもないでしょう。乳香は、アラビア原産の樹木から出るネバネバした白い樹液だそうで、それから造られる粉は甘い香りがして大事にされ、祭儀に用いられたと言われています。没薬は、強い香りを持ち、苦みのある深紅の樹脂で、アラビアやアフリカの低木林地で採取されたそうです。粉末状に砕かれて、高価な香料や軟膏の原料になったと言われています。なぜこれらの贈り物だったのか、ということですが、実は、今朝ご一緒に交読しましたイザヤ書の御言葉に、ヒントがあるのです。イザヤ書60章6節にある「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」(イザヤ書60章6節)という預言の言葉の影響とも考えられるのです。東方から博士たちがやってくる700年ほど前に書かれたイザヤ書。その影響はバビロン捕囚などを通じて広く古代中近東世界に広まったと考えられます。星の動きで、メシアの誕生を察知するぐらいですから、彼らがその預言を知っていたとしても、何の不思議もありません。それに加えられたのが没薬で、埋葬の準備のためのものだったのは暗示的です。すでに、罪の贖いのための死を予期させるようなメシアだった、ということでしょうか。
彼らが星に導かれ、ひれ伏して幼子を拝んだ時、それが救い主の異邦人への顕現であるようには見えませんでした。そこは王宮でも神殿でもなく、召し使いも祭司もいませんでした。彼らの礼拝に先立ち、華々しくファンファーレが奏でられたわけでもなく、もちろん、イエス様はまだ幼子でしたから、彼らに「大義であった」というようなねぎらいの言葉をかけるようなこともなかったのです。ただただ、旅に疲れた大人たちが幼子の前にひれ伏すだけで、見る人によれば、滑稽な光景でしかなかったかもしれません。
しかし、このように、世の中には、目に見えなくても重要なことがあるのです。今年一年、私たちは、主の恵みが現れる歴史的瞬間に居合わせたとしても、そうとは感じないでやり過ごしてしまうこともあるかもしれません。「あれがそんなに大事なことだとは、気づかなかった、わからなかった」、というようなことです。人が洗礼を受ける時、私たちの肉体の目では、厳粛にひざまずく人の方に目が行っているかもしれませんが、ひとりの罪人が悔い改めたということで、天においては大きな喜びが生じている、ということを、私たちは目にしていません。私たちの目には、隠されていることも多いのです。しかし、私たちは、あの博士たちの礼拝の時、そのようには見えなかったけれども、その出来事が救い主の顕現であったと信じる流れの中に生きています。
この、目には見えない、ということについては、一言付け加えておきたいと思います。昨日、一昨日と、全部ではありませんが、毎年恒例の箱根駅伝を見ていました。箱根駅伝は、東京と箱根の間を二日かけて往復します。最初の頃は走者たちが割と固まっていますが、次第次第に間が離れてきて、走者によっては、前の走者が見えない、孤独な戦いを強いられるようになります。ところが、区間が変わって、次の走者になって、彼が早かったりしてもう見えなくなっていた前の走者が見えるようになってきたりすると、解説者が、「やはり前の走者が見えるようになってくると、力が湧いてきますね」といったような内容のことを言ったりするものです。これは私たちも同じです。相手が見えなければ、なかなか戦いになりません。聖書が告げる、神様と私たちの間を引き裂こうとする悪魔の存在。この創立70周年の記念の年でも、手を緩めることなく、むしろそのような大事な年だからこそ、私たちを追い落とそうと躍起になってかかってくる、ということもあり得ます。しかし、私たちには見えないことがほとんどなので、私たちは「見えない=いない」と錯覚して油断して、敵の意のままにされてしまう危険性もあるのです。そのようなときは、聖書のことばが頼りになります。聖書のことばを丹念に読んで、たとえば今日の箇所に登場するヘロデに象徴されるような、私たちを罪の世界へと引きずり戻そうとする悪魔の働きに目が開かれていく時、私たちは戦う相手が周りの人間なのではなく、悪魔であることがはっきりわかるようになり、人と争っている時ではないことを深く悟り、それを一切放棄して神様の側に付き、悪魔に対して徹底抗戦する方へと向き直ることが出来ます。
このような否定的な側面ばかりではありません。私たちは、一人で戦っているように時に思うかもしれませんが、そのような孤独感から解放されるのも、御言葉からの導きによるのです。私たちが、いかに聖書のことばが私たちに、神様が共におられること、すなわちインマヌエルの恵みの状況が実現していることを伝えているかをはっきりつかみ取るなら、「私は孤独だ」とか、誰も私のことを構ってくれない、わかってくれないなどということばは口からは出ないようになります。そんなことを嘆くよりも、たとえ目には見えなくとも、イエス様が救い主としてお姿を顕現されたその時から、異邦人に対するインマヌエルの真理は変わらずこの世界に実現したままであり、私は孤独感など感じる必要はなく、ただ心の目を開いて、「イエス様、あなたが共にいてくださって、まさにインマヌエル、神われらとともに、という素晴らしい恵みの光景が私の前に広がっていることに感謝します!」と言うだけでいいことを悟るのです。
ところで、元旦礼拝では、今年創立70周年の標語である「感謝の祈りを胸に、新たな一歩を」をもとに、新しい世界に私たちが入っていくことを語り、その際に、私たちがその新しい世界で新しいことを行うことの象徴として、「プラスワン」ということを紹介いたしました。今までより一回多く礼拝に出席する。毎週、礼拝だけでなく、もう一回、祈祷会の時などに、教会に足を運ぶ。おささげものに関しては、感謝献金の機会をもう一回増やすなど、具体的にご提案いたしました。その関連で言うと、この「聖書のことばを読む」ということにも、「プラスワン」は応用可能かと思います。今まで、毎日1章聖書を読んでいたとしたら、それにプラスワン、あと1章加えて、2章読むようにする。朝は何とか御言葉を開いているが、夜はもう眠くなって寝るだけ、こんな場合は、それにプラスワン、もう一回機会を加えて、夕方にも聖書を開く。そのような、派手ではないし、地味で、なおかつ忍耐のいることではあるかもしれませんが、このように地道に御言葉を読む機会を増やし、神様のみ声をそれを通して聞くようにしていくならば、きっとこの創立70周年の記念の年、本当の意味で私たちは、新しい世界に入っていくことができるのではないでしょうか。
それだけでなく、東方の博士たちが星の導きによってイエス様のもとへとたどり着いたように、私たちをガイドするのが、聖書の御言葉です。私たちには、実際の天体の星が現れて、私たちを先導するようなことはなかったとしても、聖書の御言葉こそが、暗闇の世界に明るく輝く星となって、私たちを救い主のおられるところに導くのです。
イエス様は御自分の姿を世に顕現された救い主です。まさに、「救い主、世に現る」と私たちは確信を持つことができるのです。聖書の御言葉という星の導きによって、私たちはこのお方にお出会いすることができるのです。聖餐式は、そのことを実感できる場です。キリストのまことの体であるパンと、私たちの罪の赦しのために流されたその尊い血であるぶどう酒をこの口で味わい、それがまさに私たちの血肉となっていくことで、私たちは大胆にキリストに近づくことができるのです。この新しい年、世に現れた救い主であるこのイエス様のすぐそばで、インマヌエルの恵みを味わいながら、新しい歩みをしてまいりましょう。
お祈りします。
天の父なる神様。
あなたの御名を賛美します。あなたが私たちに新しいこの年、そしてこの朝を与えてくださいました。新しい一年に、勇気をもって足を踏み出すことが出来ますように。救い主が私たちに現れてくださったことを覚え、神様が私たちと共におられるインマヌエルの恵みの中に、留まることが出来ますように。また、今年は教会創立70周年の大事な年です。あなたがこの御影ルーテル教会を豊かに祝福してくださいますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日は礼拝後昼食会があり、フェローシップMLCの交わりがあります。そのあと役員会となります。





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