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2025年11月2日 全聖徒主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 17 時間前
  • 読了時間: 12分

召天者記念礼拝

聖書交読 詩編149編(旧約p989)

司)149:1 ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。

会)149:2 イスラエルはその造り主によって喜び祝い/シオンの子らはその王によって喜び躍れ。

司)149:3 踊りをささげて御名を賛美し/太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。

会)149:4 主は御自分の民を喜び/貧しい人を救いの輝きで装われる。

司)149:5 主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み/伏していても喜びの声をあげる。

会)149:6 口には神をあがめる歌があり/手には両刃の剣を持つ。

司)149:7 国々に報復し/諸国の民を懲らしめ

会)149:8 王たちを鎖につなぎ/君侯に鉄の枷をはめ

全)149:9 定められた裁きをする。これは、主の慈しみに生きる人の光栄。ハレルヤ。


聖書朗読 ルカ6章20~26節 (新約p112)

6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。

6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。

6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。

6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。

6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。

6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


説教 「報われた人生だったと思える恵み」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


一年に一度の召天者記念礼拝の時を迎えております。午後には墓前礼拝があります。召天者の方々に思いをはせ、偲ぶ時です。本日は、召天者のご家族、ご関係の方々が多くお越しくださっています。感謝いたします。


礼拝の中では、いつも聖書のことばからお話しさせていただいております。本日は、ルカによる福音書6章20~26節をもとに、「報われた人生だったと思える恵み」というテーマで、お話しさせていただきます。


本日の聖書のことばには、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」、また「天には大きな報いがある」とありました。まさに天国を思わせることばです。また、「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」というキリストのことばには、慰めの響きがあります。召天者の方々を思い起こし、悲しみを新たにしている方々には、このキリストの慰めが届きますよう、心からお祈りいたします。


イエス・キリストは、時々逆説的なことをお話しになります。「貧しい人々は、幸いである」。どれだけの人が、このことばに同意するでしょうか。貧しい人々のどこが幸いなのか。何か、状況をよくわかっていない、気楽なことばにも聞こえてまいります。ですからこそ、ここでの「貧しい人々」ということばの意味を、よく理解する必要があります。これとよく似た言葉を、マタイによる福音書の方では、「心の貧しい人々は、幸いである」と記録しました。総合的に考えるならば、ここでは、単に物質的に乏しい人々のことだけではなく、心の面で貧しい、乏しい人々のことを指している、ということがわかります。心の貧しい人々、と言っても、まだ何となく聞こえは良くないのですが、これはこの地上で誰にも頼ることができない、神様以外に頼る存在がない人々のことを指す、と考えることもできます。日頃の生活の中で、何かと欠乏を感じる中で、もはや神様以外に期待することができない、そういった人々のことです。そう考えれば、そのような人々が幸いである、と言われるのも、わかるような気がします。聖書の当時、世の中の豊かな人々は、別に神様に期待を寄せる必要もありませんでした。有り余るような身の回りの物質が、そのような人々の心を、神様に向けることを阻んだのです。


「神の国はあなたがたのものである」とは、神の国は貧しい人々のためのものだ、ということを表しています。多くの人々が、葬儀に参列することで、また火葬の様子を目の当たりにして、来世への旅立ちに、何も持っていくことはできない、ということを薄々感じています。多大な功績を残しても、相当な財産を残しても、それを持って旅立つことはできません。そうすると、現世における富、物、あるいは物質とは何なのか。


「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。」(ヨブ記1章21節)


という旧約聖書のことばが胸に突き刺さります。


しかし、私たちが次の世に何も持っていくことが「できない」、と私たちが否定的に感じることを、むしろ「それが幸いだ」と逆転の価値観を示しているのが、キリストのことばです。確かにヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う」と述べたのちに、「主の御名はほめたたえられよ」と神様を賛美する言葉を口にしていたのです。


もちろん、神様は私たちに、人生を楽しむために、様々な物を与えてくださいました。それが適度であれば、問題ないのです。しかし、それを必要以上に追い求め、それに終始し、神様を忘れる、見失う、というところに至ってしまうのが、問題なのです。神様に信頼し、神様に期待する心を持ちながらこの世の生涯を終えた人々は、たとえこの地上において様々な欠乏を感じたとしても、その神様の待っておられる神の国へと招かれていくのです。


では、「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」というキリストのことばの方も、確認してまいりましょう。今たとえ悲しみのゆえに涙を流すことがあろうと、いずれ笑うようになるときが来る。それは、慰めを受けるからであって、そのことを考えれば、幸いと言えないだろうか、という提言のようにも聞こえてきます。


ですが、本当に、今泣いている人々は、幸いなのでしょうか。悲しみに暮れているのに、あるいは悲しい出来事を思い起こし、切ない思いになっているのに、それに対して「幸い」と言い切れるものなのでしょうか。


ですから、これは「誰がこのことを言っているのか」ということにも関わって来るかと思います。もともとこのキリストの「幸いだ」ということばは、キリストの弟子たちに向けて語られたことばです。十分に信頼関係も出来上がっており、先生の言葉として、身を低くして、謙虚にそれを受け止める土台がある程度できあがっていました。もちろん、のちにキリストが十字架にかかられるそのとき、弟子たちは散り散りになってしまった、ということはありましたから、彼らが完ぺきだった、などと言うつもりはありません。ですが、平時は、おおむね弟子たちはキリストを敬愛し、信頼して共に過ごしていたのです。


その弟子たちが、先生であるキリストから、「今泣いている人々は、幸いである」と聞く。その時の反応は、まさか「そんなことはありえない」というものではなかったことでしょう。先生の語られることばとして重く受け止め、完全に理解できないとしても、何か深い意味があるのであろう、と思ったのではないでしょうか。ですから、今このキリストのことばを聞く私たちにも、何がしかの信仰が求められる、と言っても構わないでしょう。私たちの尺度で、「そんなことは」と反発するのではなく、まずキリストの大事なことばとして、キリストが幸いだと言われるのであれば、きっと幸いなのであろう、と受け止めてみる。まずここから、始まっていくのではないでしょうか。


ことに召天者のご家族の方々にとっては、大事な存在を天にお送りした後、どの時期に涙から笑いへと回復していくのか、いやされていくのか、というのはケースバイケースでしょうし、人によっても異なることでしょう。大事な方が何歳で天に召されたか、ということでも異なるでしょうし、関係の深さによっても変わってくるでしょう。場合によっては、このような悲しいことになって、私の家族には、笑うときなど戻ってくるのだろうか、などと思ってしまうほどつらいときを過ごされたこともあろうかと思います。それは時が癒すのみである、と言うだけでなく、ぜひ、涙のときから笑顔の時へと変えてくださるキリストの慰め、「今泣いている人々は、幸いである」とやさしくおっしゃるキリストのことばの温かさを感じていただければ幸いです。


さて、「天には大きな報いがある」とは、ある特定の「時」に向けて言われた慰め、励ましでした。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」という状況を受けてのことばだったのです。これは、どのような状況だったのでしょうか。先ほど、このことばはキリストの弟子たちに向けて語られた、とお話ししました。ここで「人の子」と言われているのが、キリストです。単に人に憎まれるだけでなく、キリストのゆえに人からのけ者にされる、という状況のようです。信仰の違いによるすれ違いも意味していたのでしょうか。「その日には、喜び踊りなさい」とは勧められるものの、とてもではありませんが、そのような気分になどなれない、と思ってしまいます。


キリストの弟子、というわけでもなく、キリストのゆえに何か人との関係に困難を感じる、ということでなかったとしても、普段このように人間関係が悪くなることを経験をするとき、喜ぶなど、とてもできません。良かれと思って何かをして、それが理解されず、却って疎ましく思われる、などということがあったとしたら、私たちは「報われない人生だ」と嘆くのみです。しかし、地上の人生でたとえ報われることがないとしても、天においては報われる。これが、キリストの教えです。報われない人生だと思ったのが、実は天において報われるという逆転現象は、私たちに希望を与えます。最終的には、「報われた人生だった」と思える恵みを、神様は私たちに用意していてくださるのです。


あの、いまだに建設の続いているガウディのサグラダファミリア教会。行ってみたいところのひとつですが、73歳で路面電車にひかれて死を迎えた時、あまりにも貧しい身なりのゆえに、ガウディと気づかれなかった、ということがあったと聞きます。そのような急な最期を迎えたガウディ。もともと彼の生涯のうちにサグラダファミリア教会が完成することはなかったにしても、本人にしては、やり残したことの多い、後悔の残る人生だったかもしれません。その後、彼自身が手掛けた貴重な箇所がスペイン内戦で破壊されたらしく、ガウディが真に理解されていたら、そのような悲惨なことは起こらなかったかもしれません。人はそのようなことを見て、彼の人生は報われなかった、と結論付けるかもしれませんが、今も彼の名は残り、その建築も現代に受け継がれて、大事に続けられている。恵みの逆転現象と言いましょうか、十分報われた人生だったと言えるのではないでしょうか。そしてまた、彼が迎えられた天において、彼への報いは大きかったはずです。


このように本日は、召天者記念礼拝ということで、先に天へと旅立っていかれ、そこで大きな報いをいただいている召天者の方々のことを偲び、過ごしてきております。かつてこの教会において、礼拝に集い、礼拝において、神様から恵みをいただき、慰めをいただいてこられた方々です。この方々はまた、礼拝において、一緒に礼拝する礼拝者とともに、使徒信条による信仰告白を続けて来られました。今日皆さんも、この説教の前に、時を共有して告白した、あの使徒信条です。その最後には、次のような文言がありました。


「限りなき生命を信ず」。


「とこしえの命を信ず」と訳されることもあります。私は永遠の命を信じている、ということです。この永遠の命は、父なる神様と御子であるキリストから発せられる聖霊に起因するものと考えられています。どうでしょうか皆さん、やはり私たちは、日々触れているものに影響を受ける、ということがあると思います。美しいものにこだわり、美を追求して生きていく時に、その人生もまた、その美学に基づいて、美しいものに整えられていく、ということがありましょう。また、11月に入り、また値上げしたものが多くあるようですが、そのような現実にばかり目を奪われ、希望のない言葉を口に出して嘆いてばかりいるとしたら、希望のない人生になる、と考えたら短絡的でしょうか。そのようなことがある一方で、毎週のように礼拝に集い、その中において、「限りなき生命を信ず」と口にして生きる。おのずとその生き方は、限りなき生命、すなわち永遠の命を意識し、それに憧れるものとなっていく、と言っても、それは言い過ぎではないと思うのです。今日お集いの召天者のご家族の皆様に、ぜひこのような機会だけでなく、たびたび礼拝にお越しいただきたい、と今日はお勧めしたく思っているのですが、それはこのような理由からなのです。毎週のように永遠の命、と口にする人生。この地上では報われないことが多く、よりによって主食のコメの値段がなかなか下がらず、この日本において食が脅かされ、気候の変動や、それに伴って世間を騒がせている熊の問題で住環境が脅かされ、私の人生は何なのだろう、あるいは何だったのだろう、と思ってしまってもおかしくない今、天においては大いなる報いがある。それをはるかに臨み見て、何かそれを先取りするかのように、「天においていずれ報われるのであれば、十分報われた人生だった」と思えるような恵みを、ぜひ体験していただきたいと強く願っております。


人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。


お祈りします。

天の父なる神様。この召天者記念礼拝の朝、命の主であるあなたをあがめます。あなたは私たちが偲ぶ召天者の方々に、神の国を与えてくださいました。そして、天に招き入れ、大いなる報いをもって臨んでくださり、感謝申し上げます。貧しい者は幸い、また、今泣く者は幸いと言われたあなたの慰めを、今私たちの心に送ってください。目の涙をぬぐい去ってくださいますように。召天者の方々が歩まれた、神様によって報われた人生を思い、私たちもまた、その道を歩むことができますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日は召天者記念礼拝でした。午後は昼食の後、午後1時15分から住吉霊園教団納骨堂において、墓前礼拝が行われます。

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