top of page

2025年11月16日 聖霊降臨後第23主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 3 日前
  • 読了時間: 11分

聖書交読 詩編98編(旧約p935)

司)98:1 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。

会)98:2 主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し

司)98:3 イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。

会)98:4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。

司)98:5 琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。

会)98:6 ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。

司)98:7 とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。

会)98:8 潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え

全)98:9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。


聖書朗読 Ⅱテサロニケ3章6~13節 (新約p382)

3:6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。

3:7 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。

3:8 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。

3:9 援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。

3:10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。

3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。

3:12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

3:13 そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。


説教 「喜び仕える」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日は、聖書日課の使徒書の箇所を開いております。テサロニケの信徒への手紙二3章6~13節です。先週の交読文の箇所がその前の章、2章13節~17節でした。先週は玲子牧師の説教でしたが、その中で「善い働きをする者となるよう祈られている私たち」ということで触れられていました。今日開いている箇所でも、最後に「たゆまず善いことをしなさい」と勧められており、共通点があります。今日はこのところから、パウロのメッセージ、そして聖書のメッセージを受け取っていきたいと思います。最後には、この「善いこと」とは何なのか、ということにも、少し触れることができたら、と思っております。


さて、パウロは、このテサロニケの信徒たちに先にも手紙を書いています。そこで、テサロニケの信徒たちに、パウロはたいへん感謝をしていました。両者がよい関係であったことがうかがわれます。かと言って、どこにも完全な教会はありません。テサロニケの教会も問題に直面していました。それは、「キリストの再臨は、すでに起こった」とふれまわる人々の存在でした。そのことで、教会は少なからず動揺していたのです。この再臨問題に関しては、再臨がまだ起きていないとしても、再臨が近いのであれば、働かなくてもいい、と考える人々もいたようです。このような混乱を避けるために、パウロはこの手紙を書き送ったと言われています。


今日の箇所でパウロは、「怠惰な生活を送らないように」と警告を発しているようです。現に、「怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」(6節)と、テサロニケの信徒たちに呼びかけています。「怠惰な生活」とは、単に怠けているだけでなく、「無秩序な歩み」である、という意味でもあります。先ほども触れましたように、再臨が近い、という感覚が、だから働かなくてよい、という考え方につながり、それが無秩序な生き方である、ということでもあるでしょう。


むしろパウロは自分たちに倣うように、すなわち見習うように勧めますが、この際の「私たち」には、この手紙の共同差出人である、シルワノとテモテが含まれています。自分たちは怠惰な生活をしなかった、と7節で言明しますが、この「怠惰な生活」とは怠惰な歩みのことで、意味としては、「不適切なふるまいはしなかった」、ということです。そのようにパウロは自信をもって訴えますが、これには確かな理由があります。パウロは実際にテサロニケに滞在して教会の働きを始める際に、自分の生活費は自分でまかなうことができるよう、昼夜一生懸命働いた、と述べているのです。第一の手紙の2章9節に、「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした」と書かれています。これは、あとでご紹介するこの第二の手紙の3章8節にも、「だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです」と書かれていることと一致しています。このように、実際にパウロは非常に努力をして、自分の生活は自分で何とかしていたのです。だから、しっかり働いていたのだし、何も怠惰なことはしていない、と自信をもって述べるのです。


これはテサロニケの信徒たちに、キリストに従う正しい生活をしてほしい、と強く願う思いの表れでもありました。怠惰に歩むことの反対は、「喜び仕える」ことです。パウロたちは、そのことを念頭に置いていたのではないでしょうか。詩編では、「喜びをもって主に仕えよ」(詩編100編2節、新改訳)と勧められていました。


これは、先日11月3日に開催されました、フェローシップ・ディコンリー交流会の時に開いた聖書の箇所です。その時、奨励をさせていただきましたが、フェローシップ・ディコンリーの精神を表すみことばとして、これははずせない、と思いまして、ご紹介しました。フェローシップ・ディコンリーの「ディコンリー」には、「仕える」という意味が含まれています。まさに詩編の御言葉にあるように、喜び仕える私たち。もちろんみことばのとおり、まず第一には主なる神様に喜び仕えます。また、その仕える喜びは広がりを見せ、私たちが身を低くして、お互いに仕えあう姿勢にもつながっていきます。まずは神様に仕え、そして人に仕える、ということです。しかも、それを「喜んで」するのです。怠惰な生活、それは再臨がすぐにでも起こるのだから、働くことは意味がない、という考えからも来ていたようだとお話ししましたが、そのような姿勢とはまったく異なります。そして、そのように喜び仕えることこそ、実は、本日開いている箇所の最後の所で言われている、「たゆまず善いことをしなさい」という勧めの「善いこと」の内容にもつながっていくのです。


パウロは、8節で、「だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした」と述べます。パウロの良い意味でのプライドを表しているかのようです。先にも触れたように、彼らは教会のだれにも負担をかけないように、「夜昼大変苦労して、働き続けたのです」(8節)。これにはまったく頭が下がります。ここまで「自分たちは働いたのだ」という自負があるから、テサロニケの教会の中の誤った動き、働かないで怠惰にしていることが気になるのです。


別にパウロたちは、悲壮感をもって、「誰も私たちのことを面倒見てくれない」という思いで働いていたわけではありません。また、教会の働きをする者が、教会から生活費を負担してもらうということが禁じられていたわけでもありません。むしろ、福音書には「働く者が報酬を受けるのは当然だからである」とありますし(ルカ10章7節)、使徒書においても、コリント第一の9章14節において、「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」とパウロ自身が述べています。これらはみな、ルターの小教理の第三部である「家訓」に書いてあることで、私たちもすぐ参照できるようになっています。これらの御言葉があるので、パウロは「援助を受ける権利がわたしたちになかったからではな」い、と9節で述べているのです。「援助を受ける」とあるのは、新共同訳の意訳です。原文は、「権利がわたしたちになかったからではない」、とだけ記されています。「権利」は「権威」とも訳せる言葉です。そのぐらい強いものです。権利、権威がなかったからではなく、あなたがたの模範となるためにそのようにしたのだ、とパウロは説明しています。


ただ、それにしても、「働きたくない者は、食べてはならない」(10節)とは、少しまぶしすぎるメッセージであるような気もいたします。それがわかっていてもできない、ということもあるわけです。病にある時、たいへんな心身の不調にある時、働きたくてもそのようにはできない、ということは現実的にあり得ることです。そのあたり、パウロは自信と確信を持って書いていますが、彼の目にそれができない人のことはどう映っていたのでしょうか。


様々な事情によって、働きたくてもそのようにできない、という人のことについて、パウロが語っているわけではない、ということに、心を留めておきたいと思います。問題は、怠惰な者たちが「余計なことをしている」ということなのです(11節)。そのあたりは、新改訳によると「おせっかいばかり焼いている」ということなのですが、働きたくても働けない、という切実な事情の人々を責めているのではなく、本当は働けるのに、あえてそれをせずに無秩序に生きて、そればかりか他人に迷惑をかけて生きている者たちのことを責めているのです。そのようにする理由は、先ほどから触れているように、再臨の問題でした。再臨が間近に迫っていると思われる今、働くことに何の意味があるか。そのように思っている人は、やむにやまれぬ事情によって働けない人ではありません。自分の主義主張があって、それで働かない、と決めている人たちです。それで、単に働かないだけならともかく、無秩序に生きて、そればかりかおせっかいばかり焼いて、余計なことをしていることは、パウロにとって、自らが手がけて育ててきた教会にはあってほしくないことだったのです。


私たちの生き方は、そのように、余計なことをして、他人に迷惑をかけるようなものであってはなりません。むしろ、パウロは全身全霊を傾けて、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と命じ、勧めています(12節)。これは、パウロ自らの権威に基づくものではありません。ここでは、「わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として」命じ、勧める、と書かれています。これは、訳によって言葉遣いが違っているフレーズで、新改訳2017では「主イエス・キリストによって命じ、勧めます」となっていますし、新しい聖書協会共同訳では「主イエス・キリストにあって命じ、勧めます」とされています。新共同訳の「主イエス・キリストに結ばれた者として」とはイメージし易い訳ではあるのですが、残念ながら意訳です。原文からすると、「主イエス・キリストによって」か、あるいは「主イエス・キリストにあって」か、その辺りになるのでしょう。考えられるのは、主イエス・キリストの持つ権威に基づいて、それによって命じる、という意味合いです。実際そのような思いで、パウロは命じ、勧めたのだと思います。


これはまさに、「主に救われた者が、主に喜び仕えて生きる」ということにつながっていきます。13節にある「あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」という勧めにも共通するものがあります。すなわち、「たゆまず善いことをする」というのも、主に喜び仕えることと置き換えても構わない、ということなのです。ちなみに、新共同訳も新改訳も聖書協会共同訳も、すべて共通して、「たゆまず」と訳しています。もとのことばは「心を失わずに」であるとか、「落胆せずに」と訳せる言葉です。もう一つの可能性として、「怠惰にならずに」とも訳すことができます。怠惰にならずに、善いことをする、ということです。そうすると、パウロによる怠惰な生き方への批判とつながってきます。テサロニケの信徒たちに、「怠惰な生活はしないように」と勧めるパウロは、「怠惰にならずに、善いことをしよう」と呼びかけるのです。そして、その良いこととは、喜んで主に仕えることです。ここに示されているこの御心に沿って生きる者でありたいと願います。


今日この聖書の御言葉を聞いた皆さんが、主の御心に沿い、たゆまず善いことをしましょう、という主の呼びかけに答え、喜んで主に仕えることができますように。これは、自分の、肉の力ではできません。あれこれ理由をつけて、人は主に従うことを避けようとするものです。そのような古い自分は悔い改めによって滅ぼされ、日々新しい人がよみがえり、主のみこころに沿う者と変えられていきます。これが日々の洗礼と呼ばれる恵みです。私たちは新しくされて、喜んで主に仕えるのです。日々みことばを読み、祈り、みことばを伝え、神と人に仕えて奉仕の歩みをしていくのです。さあ、今週も一緒に新しい歩みを始めてまいりましょう。


お祈りします。

天の父なる神様。御前に出て、みことばを聞く一時をありがとうございます。私たちの古い自分は、主のもとに出て、主に仕えるのを拒み、身を低くできず、人に仕えることもできないものですが、あなたは私たちの心に新しい霊をお与えくださり、私たちを造り変え、あなたに従うものとしてくださいました。新しい心をもって、喜んであなたに仕え、また人に仕えることができますように。「あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」という勧めに、素直に、シンプルに従っていけますように。日々みことばを読み、祈り、みことばを伝え、神と人とに仕えて歩み続けることができますように。弱く倒れて起き上がれないような朝には、あなたが優しく手を伸べてくださり、いやし、慰めてくださいますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日は礼拝後に新約聖書の学びがあります。玲子牧師の担当です。来週の午後は三浦綾子読書会です。11月29~30日は母の家ベテルの待降節聖会があります。講師は堺育麦キリスト教会の豊島守先生です。

ree

コメント


御影ルーテル教会

658-0047 神戸市東灘区御影3-10-5

tel: 0788420446

©2022 by 御影ルーテル教会  Wix.com で作成されました。

bottom of page