2025年10月5日 聖霊降臨後第17主日
- 明裕 橘内
- 10月5日
- 読了時間: 12分
聖書交読 詩編37編1~9節(旧約p868)
司)1節【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
会)2節 彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。
司)3節 主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
会)4節 主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
司)5節 あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい
会)6節 あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。
司)7節 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。
会)8節 怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
全)9節 悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。
聖書朗読 エフェソ2章1~10節(新約p353)
1:さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
3:わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
4:しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
5:罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
6:キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
7:こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
8:事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
9:行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
10:なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
説教 「恵みによって救われた」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日は午後に予算総会があり、教会について考える良い機会ですので、今年のみことばを含む一連の箇所を読んでいきたいと思います。
実は2月の決算総会の前にも、今年のみことばを説教において取り上げていました。その時の復習をしておきましょう。
今年の2月2日、決算総会前の説教は、「恵みにより、信仰によって」という題で、エフェソ書2章7~9節を開きました。特に今年のみことばである8節に絞って振り返りますと、
「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とありますが、
1)直訳しますと、「恵みのために、あなたがたは信仰を通して救われた」とすることもできます、とお伝えしました。さらに、
恵みが理由となって、私たちは救われた、ということである。
信仰を仲立ちとして、あるいは信仰がひとつの手段となって、救われる、ということである。
とお話ししました。
2)ここで使われている「信仰」という言葉に関して、「管」をイメージすれば、わかりやすいかもしれない、とお話ししました。「恵み」は限定されているので、キリストの十字架による恵みです。それを理由として、またその救いの恵みが私たちの方に流れてくるために、信仰が管となって、信仰を通して、私たちに救いが届く、というイメージです、とご説明いたしました。
本日は、もう少し範囲を広げて、1節から10節までを読んでいきましょう。この箇所には、私たちが何から救われ、また、何のために救われたかが記されています。そして、その救いの恵みについて、またそれがもたらすものについても述べています。
聖書は、私たちがたとえどんなに充実した人生を送っていたとしても、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」(1節)と断言します。ここで使われている「過ちと罪」という2つの語の組み合わせですが、新改訳2017では、「背きと罪」と訳されていて、より人間側の責任に焦点が当てられています。
では、この「過ちと罪」とはどんなことを指して言っているのか。「過ち」は「真理や正しいことからの逸脱」、と説明できます。また、「罪」は、よくご存じのように、「的外れ」というのが元の意味です。これはまた、「理解の誤り」、あるいは「悪い行い」を指すようです。総合すると、人間の考え方は偏っていたり、誤解していたり、そういったことから、具体的な悪い行いが結果として出てくる、というイメージです。新改訳のように、あえて「背き」という言葉まで使う必要はないように思われます。
そのようなものの中で、私たちは「死んでいた」。いやいや、洗礼を受ける前だって、私たちは生きていて、それなりに喜んでいたり、充実していた、という感覚の場合は、この「死んでいた」というのは受け取りにくい表現でしょう。また、洗礼を受けるまで、本当に砂をかむような、何の味気もしない人生を送って来た、という体験のある人には、よくわかる、という御言葉だと思います。
罪は人を神様から離れさせ、やがて死に至らせる、と言われます。人はその罪を赦されることで罪を取り除かれ、神様に立ち帰り、再び神様に受け入れられる者となる、ということです。
1節にあります、この「過ちと罪」の指摘は、私たちの責任、ということについて述べています。しかし、そのような私たちの責任範囲においてだけでなく、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」(2節)とあるように、罪が神様に反対する諸力の悪影響によるものでもあると述べられています。
ここで見られる「世」という言葉は、「コスモス」という言葉の翻訳です。これは神様に反するすべての力を指す、と言われます。「この世を支配する者」は「アイオーン」と呼ばれており、グノーシス神話の中では悪しき霊的存在とされていました。この「グノーシス」は、先週開いたテモテへの手紙一の6章に出てきた、「不当にも知識と呼ばれている反対論」にも関係します。
「かの空中に勢力を持つ者」は時にサタンとも呼ばれ、この世の諸力の指導者でもある、とされてきました。なお、「かの空中」というのは、当時の世界観において天の最下層、すなわち地上にいちばん近い所となります。ここに、グノーシス神話においては諸霊の勢力を持つ者、すなわち「アルコーン」が住むとされていました。先ほどから出てきている「グノーシス神話」というのは、パウロの当時の幅広い宗教と哲学の融合から生じるもので、聖書の世界と接触することもあった、と言われています。
ここで言われているのは、私たちがその方の影響から、罪を犯す、ということです。1節で暗示されていたことは、自らの責任における過ちと罪、ということだったのですけれども、ここにきて、いやいや、罪にはほかにも原因がある。それが、この世のもろもろの力なのだ、とパウロは説明するのです。
皆さんも、罪ということに関して、こんな風に悩んだことはないでしょうか。「罪を犯すのは私なのか、それとも私に働くサタンなのか」、と。私もこれには悩みまして、その頃洗礼を受けたばかりで、東京の小竹向原キリスト教会に通っていましたが、ある日上田先生に、「罪を犯すのは私が悪いのか、それとも、サタンのせいなのか」と2者択一的な考えで質問したことを今でもよく覚えています。そして、その答えも忘れられないのですが、「それは両方だ」ということでした。なるほど、と思いましたが、確かにここでは、罪を犯す人間と、その人間に働いて罪を犯させる悪しき存在、サタンの存在が両方示されています。どちらか、という二者択一ではないのですね。罪を犯すのはもっぱらサタンによることで、人間に責任はない、とは言えない。人間に、いろいろな真理の誤解であるとか真理からの逸脱、というものがあるのは確かなのです。しかし、その人間を束縛して、がんじがらめにして、罪へと導く力がこの世に存在することもまた、確かなのです。
それがあって、肉や心の欲するままに生きる人生が、実りある最期を迎えるとは考えにくい。パウロは、その生き着く先は「神の怒り」である、と率直に述べています。
ところが、内から湧いてくる欲と、外側からの絶え間ない霊的な攻撃のはざまで、その葛藤に苦しむ私たちを、決して神様は見放しませんでした。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださ」った、と聖書は述べています。ここに私たちが耳を澄まして聞くべき福音の御言葉があります。この世において、戦火も絶えず、値上げも繰り返され、10月に入ってさらに値上げされ、私たちの耳から入ってくる知らせは、心に重くのしかかり、心痛めるものばかり、とまで思ってしまうほどの毎日です。しかし、そのような知らせを差し置いてでも、私たちは、この世界に実は憐れみ豊かな神様が確かに存在し、そればかりか、私たちのような小さな存在をもこよなく愛してくださる、という福音に、耳を傾けていくのです。
この実に憐れみ深い神様が、その大きな愛によって、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」てくださった、と高らかに宣言するのが、5節です。私たちは、自らの罪と、悪の諸力から救われた、ということが、ここで明確に述べられています。新共同訳も新しい聖書協会共同訳も、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」という大事なフレーズを、挿入句のように訳していますが、新改訳2017は、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」と、余分な棒線なしに、すっきりと訳しています。いずれにしても、今日私たちが心を開いて受け取るメッセージは、この「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」という、貴重な、まったく神様由来の救いの宣言です。これは、この世でどこを探しても、聞くことはできません。100の言葉でこの現代社会を分析し、人間の心情を分析しても、これほどの救いの宣言にまさるものはありません。そのようなものは普段から私たちは耳にしていて、言われなくてもわかっています。だからこそ、普段なかなか聞けない言葉、聖書から出ないと聞こえてこない静かな御言葉を、私たちは集中して聞くのです。
ここで言われている「救い」とは、罪や悪の諸力から人間を解放するために神様が働かれたこと、そして今も働いておられることを指す、と言われます。ここで、救いとは「解放」である、ということが確かに示されます。自らの責任において、また悪の諸力の圧迫により、罪を犯さずにはいられない私たち、そのゆえに、のちには神の怒りに定められていた私たちが、罪からの解放、まさに罪の抑圧からの解放を経験する。そのような救いについて、ここでは述べられていたのです。
6節において、救いという解放をいただいた私たちが、洗礼によって新しい命をいただく、ということを「復活」という言葉を用いて示したのち、7節では、私たちが救われた目的について触れています。この救いには目的があって、それは、神様が、「キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされた」(7節)ことだったのです。神様は御自分の恵みを、広く世界に知らせようとなさったのです。しかも、それは後の時代まで、ずっと続くように、ということを願ってのことだったのです。
そして、2月にも見た、8節に至ります。8節は独立して存在するわけではありません。7節からの流れの中にあります。7節で言われている、神様の「限りなく豊かな恵み」。それを指して、「恵み」により、また信仰によって、私たちは救われました、と述べるのです。私たちがこの恵みに感謝し、証しをすることで、今も、そしてこれからも代々に渡って、神様の偉大さはこの世に明らかに示されていきます。この憐れみ豊かな神様が、その限りない恵みによって私たちを救ってくださった、ということが、代々に語り継がれていくのです。私たちは、この恵みによって救われたのです。
そしてすぐに、「行いによるのではありません」と釘を刺すのが、9節です。恵みにより、信仰によって救われる、ということとはまったく逆のことがここで否定されているのです。その理由も明確です。「それは、だれも誇ることがないためなのです」。人間は弱い者ですから、ちょっとのことで誇るのです。時には、行った悪の数のことさえ、誇ってしまうほどです。それだったら、もしなにがしかの行いによって救われるのだ、ということになったら、どれほど人はその行いを誇ることでしょう。そのように誇って、ふんぞり返るようなところに、救いはないのです。
最後の10節で、この救いによってもたらされるものについて述べられています。この救いは、私たちを通して、善い業をもたらします。人は良い業によって救われることはありませんが、救いは、この善い業を必ずもたらすのです。そして、その善い業によって、ますます神様のすばらしさが現わされていくのです。私たちを、「善い業をしなければならない」と追い込むための善い業ではありません。それでお互い幸せになるのだし、神様の素晴らしさが広がっていくのですから、まわりまわって私たちのためにもなるのです。ですから、私たちのためを思って、神様は私たちにこの善い業を備えてくださった、とも考えることができます。しかも、自分の力、がんばりで歯を食いしばって行う善い業ではありません。すでに神様が私たちのために前もって御用意くださっている善い業を受け取って、それを行っていくだけなのです。
では、今日の御言葉をまとめていきましょう。そして、今日の福音は何か、もう一度確認していきたいと思います。
まず第一に、「私たちは過ちと罪によって死んでいたのだが、それは自らの責任という面だけでなく、この世の悪の力に影響されてのものでもあった」とお話ししました。
第二に、「その罪は私たちを最終的に神のみ怒りに定めるものであったが、憐れみ豊かな神様が、私たちを愛して、そこから救い出してくださった。救いとは解放である」とお伝えしました。
第三に、「この救いには目的があり、それは、神様の恵みが代々に伝えられるためであった」とご説明しました。
第四に、「私たちはこの恵みによって救われた」とお伝えしました。
そして最後、「この救いは、良い業をもたらす」、とお話ししました。
今日私たちが耳にする福音、すなわち良い知らせとは、「救いは様々な束縛、しがらみからの解放である」ということでした。今週も、そして新しく与えられたこの10月という期間も、私たちが神様からこの素晴らしい解放をいただいていることを喜び、そのことを思い出しながら、歩んでいきたいものです。
お祈りします。
天の父なる神様。あなたの御名を賛美します。罪の中に死んでいた私たちを救い出し、罪の縄目から解放してくださって感謝します。あなたは私たちに、洗礼によって新しい命を与えてくださいました。私たちが恵みによって、信仰によって救われたことを改めて思い、感謝します。あなたが私たちのために御用意くださっている善い業に進みながら、あなたの与えてくださる幸せの中に生きていくことができますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日は昼食後、予算総会があります。ご出席ください。ご欠席の際には、委任状の提出をお願いしております。

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