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2025年10月19日 聖霊降臨後第19主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 6 時間前
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2025年10月19日 聖霊降臨後第19主日 

聖書交読 詩編121編(旧約p968)

司)121:1 【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。

会)121:2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

司)121:3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。

会)121:4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。

司)121:5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

会)121:6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。

司)121:7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。

全)121:8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。


聖書朗読 ルカ18章1~8節 (新約p143)

18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。

18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。

18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


説教 「ひたすら祈る」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


祈り、と言うと、どんなイメージがあるでしょうか。例えば、「祈る」と言い換えたとして、この言葉にどんな言葉を添えるでしょうか。「熱心に」祈る、でしょうか、それとも、「一生懸命」祈る、でしょうか。


本日の福音書の箇所は、たとえを話された意図が明確に書かれているのが特徴です。それは、1節に「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と表現されています。どうも、祈りは簡単に聞かれない、というイメージがイエス様の時代にも多かったようです。祈りのイメージ、それは、「なかなか聞かれない」、ということだったのでしょう。そうなると、失望して祈りをやめてしまいやすい、という状況があったようです。だから、落胆せずにいつも祈るよう励ますために、イエス様はこのたとえを話されたのです。では、この祈りへの励ましのたとえを、改めて一緒に読んでまいりましょう。


1節は、先ほどもご紹介した、このたとえの目的を明確に記した箇所です。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」とあります。少し詳しく見てみたいと思います。「気を落とさずに」というところですが、「失望してはいけない」「落胆してはならない」などと訳されています。「気を落とす」と訳されている言葉は、原文において「勇気を失う、疲れてしまう、がっかりする、やる気をなくす」といった意味のある単語です。冒頭で触れましたように、祈りは簡単に聞かれない、祈りが答えられるのには時間がかかる、といったイメージからすると、人は簡単に、祈るための勇気を失い、祈りに疲れ、がっかりし、祈ろうとする気をなくす、といったことが考えられます。そのような現状を憂い、イエス様は祈ろうとする人々を励まそうと、このたとえを話されたのでした。


また、ここでは、「絶えず祈らなければならない」と言われています。これは、「いつでも祈るべき」とも訳されるフレーズです。イエス様は、私たちがいつでも、気を落とさずに祈り続けるよう、励ましてくださるのです。


このたとえの中には、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が登場します。よりによってなぜこのような人物が、と思いますが、皆さんお読みいただいたように、その理由はあとでわかります。この裁判官は、「神を畏れない」と説明されています。だから、あとで、6節では「不正な」裁判官、と呼ばれてしまうのです。これは、道徳的な意味での不正ではなく、終わりの時を前にしたこの世の乱れを反映し、「この世的な」、という意味である、と言われます。彼は実にこの世的な裁判官なのです。その視野に、世界をつかさどる神様は入っていません。「人を人とも思わない」とはどのような書き方になっているか、気になって調べてみますと、「人を尊重することのない」という意味のようです。神を畏れない、すなわち敬わないだけでなく、人のことも大事にしない。神様に対する態度は人間に対する態度にもつながっています。神様を大事にすることのない人に、人間を大事にすることはできません。神様を否定した時点で、彼には人間に対する温かい情のようなものもなくなっていたのです。


よりによってそんな彼の所に、一人のやもめが来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と何度も訴えます。当時のユダヤ人の生活習慣では、夫を亡くした上に子供のいない女性には、彼女を援護したり、面倒を見たりする者がいなかったと言われます。このやもめの場合も、助けてくれる人はいなかったのかもしれません。彼女の言葉、「相手を裁いて、わたしを守ってください」ですが、この「相手」というのは、「競争相手」「敵対者」「反対者」といった意味の言葉です。何か権利が競合するか、意見の異なる相手だったのかもしれません。原文は、「私の反対者から私を守ってください」という言い方になっています。


いくらそのようにお願いしようとも、そもそもこの裁判官は、「不正な裁判官」とまで言われてしまうような人物で、神様を大事にすることも、人間を大事にすることもない人なのです。一人の女性が保護を求めてきたところで、心動かされたりするでしょうか。予想通り、最初は相手にしません。「しばらくの間は取り合おうとしなかった」というのは、彼にとってはごく当たり前の対応にすぎませんでした。


しかし、少し風向きが変わってきます。「しかし、その後に考えた」。ある宣教師が、「しかし」という小さな言葉がすべてを変える、とまで言っていました。助けなど、得られるはずがなかったのです。何しろ、この女性のことなど、この不正な裁判官の目には入っていなかったのですから。「しかし」、それなのに、何かが変わったのです。「待てよ」。この不正な、実にこの世的な裁判官はふと考えました。そして、心の中でこう言ったのです。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。何という大きな変化でしょうか。自分でもはっきり、「人を人とも思わない」と白状している、この不正な裁判官が、何と、心を変え、この女性を助ける、と決めたのです。これはたとえの中での話ではありますが、奇跡に近い出来事と言って差し支えないでしょう。とにかく彼は、「さんざんな目に」あわされるに違いない、と思いました。これは、「のちのち耐え難い迷惑をかけられるに違いない」と思った、ということです。それで、彼女のために裁判をすることにしたのです。


ここに、私たちに対する、神様のメッセージがあります。人間の、「不正な」、すなわち「この世的な」裁判官でさえ、熱心に何度もお願いされれば、願いを聞いてやるのです。ましてや、人間を愛してやまない神様が、熱心に祈る者の祈りを聞かないなどということがあり得るでしょうか。


ここでは、「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」が登場します。かつてイスラエルの民は、エジプトにおいて、苦役に苦しんでいました。その時の様子は、次のように記されています。


「その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」(出エジプト2章23節)。


かつて神様は、エジプトで苦役に服していた選びの民イスラエルの民の叫びを聞き届けてくださり、出エジプトという、前代未聞の救いの御業をなしてくださいました。そのように、神様は速やかに裁いてくださるのです。神様はなかなか答えてくださらない、と神様を侮ることはできないのです。


このたとえの中で、誰が神様のことを表しているかと言えば、不正な裁判官である、というのは間違いありません。しかし、言うまでもありませんが、神様は不正な神様ではありません。そこが、たとえの中に出てくる裁判官との違いです。同じところばかりではありません。違うところもあるのです。


では、どのようなところが、この裁判官と神様の共通点と考えられるのでしょうか。すなわち、このたとえの中の裁判官が神様と似ているところはどこか、ということです。ひとつには、規模は異なるものの、両者とも、裁きの実権を握っている、という点では共通しています。この裁判官は、その町において、法律に基づいて判決を下し、罰則を与えたり、調停したりする権威を持っていました。神様も、律法に従って裁きを下し、人を結び合わせたり、引き離したりなさるのです。


この両者はまた、人の言うことに耳を傾ける、ということでも似ています。本来は人を人とも思わないこの裁判官でしたが、この時はやもめの言葉に耳を貸しました。ましてや神様は、祈り求める私たち人間の言葉に真剣に耳を傾けてくださいます。


多くの面で、罪深い人間に過ぎない、この不正な、この世的な裁判官と私たちの造り主である神様は異なるのですが、熱心な願いに基づいて動く、という点ではよく似ています。ここに希望があります。私たちの神様は遠くにおられ、願いも届かない、というのではなく、熱心に尋ね求め、願いをなすならば、聞いてくださる、というのですから、私たちはますます祈りに対して熱心になりましょう。創立70周年を目前に控え、私たちはもっともっと多くの祝福を、神様が私たちのこの御影ルーテル教会に注いでくださるよう、昼夜問わず、熱心に願い求めましょう。


神様が裁きをなしてくださる、と言うときに、厳しい、というイメージばかり持つ必要はありません。裁きの中には先ほども申し上げましたように、「調停」といったようなものもあるわけですから、誰かと誰かの仲立ちをしてくださり、つなげてくださる、ということもあるのです。そもそも、この神様は私たちが人生の途上で救い主イエス様とお出会いすることができるように、この方とつながることができるように、私たちを選び、導いてこられたのです。それは確かに恵みの御業です。


終わりの見えないエジプトでの強制労働の中で、イスラエルの民が叫んだ時、神様は速やかに裁きをなしてくださり、出エジプトという偉大なる脱出劇が行われました。普段私たちは、祈りには時間がかかる、と思い込んでいます。そして、他人にも、そのように伝えているかもしれません。「祈りが聞かれるまでには、ずいぶん時間がかかるものですよ」と。しかし、そのような不信仰を、今日は神様の前で悔い改めましょう。神様は、昼も夜も叫び求めている人々を放っておかれるような方ではありません。私たちが誤解することのないよう、イエス様は「言っておくが」と念を押して、「神は速やかに裁いてくださる」とおっしゃいました。それはある意味で、速やかに答えを見せてくださる、という意味でもあります。それは私たちの耳に新鮮なメッセージです。そしてまた、私たちのうちに、信仰を駆り立てる言葉です。私たちは、神様が速やかに応答してくださる方だ、という認識を新たにするべきです。そのような方として、私たちは神様を信じるのです。


ここまでのメッセージは、どちらかと言うと、私たちの心を指す、律法のメッセージに近いものです。私たちの心に、信仰を要求します。しかし、それがこの聖書箇所からの最終的な神様のメッセージなのでしょうか。今日私たちが耳にする福音の言葉はないのでしょうか。


そんな時に、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」という御言葉が気にかかります。いくら神様が速やかに答えてくださったとしても、それを信じる信仰がなければ意味がない、と理解されてきた御言葉です。これもまた、私たちに何かを要求する、律法に属するメッセージなのでしょうか。


この御言葉は、終末の時代に、失望し信仰を失う者が多く出ることへの警告だとされてきました。1節の「気を落とす」との関連も感じられます。祈りにおいて、手応えなく、祈ることに疲れてしまった気落ちした人々と、終末の時代に悪がはびこるのを見て、失望して信仰を失う人々との間には共通点があると言えるでしょう。ますます終末の時代とは、何か暗黒の時代のように思えてきます。


しかし、考えてみましょう。「人の子が来るとき」。これはいつのことでしょうか。「人の子」というのは、ご存じのように主イエス様のことですから、イエス様が来るとき、というのは、主イエス様の再臨の時のことを指すのです。それまでは、イエス様と顔と顔を合わせてお会いしているわけではないので、私たちは信仰をもって、信仰の目で、イエス様を見るかのように信じるわけです。ですから、当然信仰が求められます。しかし、イエス様が再臨さなるとき、私たちは、信仰によらず、この目で、再臨のイエス様を拝することができるのです。もうその時、信仰は必要ありません。否定的な意味で捉えられやすい「地上に信仰を見いだすだろうか」というフレーズですが、これは「探したときに、見つかるだろうか」ということです。探すも何も、イエス様をこの目で見ることができて、ある意味で信仰は必要なくなるわけですから、見つかる、見つからない以前の問題、ということになります。私たちは、私たちを十字架で救ってくださったイエス様と顔と顔とを合わせてお会いすることができる再臨の時を前に生きています。私たちは、このイエス様にお出会いする希望があります。これが、今日の御言葉から聞こえてくる良い知らせ、福音なのではないでしょうか。


その喜びがあるから、それに押し出されて、私たちは喜んで、祈ります。それがなければいやいや祈る、というところに陥ってしまうかもしれませんが、私たちには福音によって、イエス様とお会いする希望が与えられているので、その日まで、私たちは喜んで祈ります。冒頭で祈りのイメージについてお尋ねしました。祈りは喜ばしいものです。希望を持って祈るのです。「祈る」という言葉にどんな言葉を添えるか、ともお尋ねしましたが、私たちはいつも、落胆することなく祈ります。今日は敢えて、「ひたすら」という言葉を添えて、「ひたすら祈る」と提示いたしました。そのように歩む皆さんに祝福がありますように。


お祈りします。

天の父なる神様。この礼拝の時をありがとうございます。私たちの祈りをいつも耳を傾けて聞いてくださることに感謝します。どうか私たちがこれからも、いつでも、気落ちしないで祈ることができるように、励ましてください。どんなことがあっても、どんな状況でもひたすら祈る私たちへと変えてくださいますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


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・本日は午後に新約の学びがあります。マタイによる福音書の6章を学びます。ご参加ください。

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