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2025年10月12日 聖霊降臨後第18主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 3 時間前
  • 読了時間: 10分

聖書交読 ルカ17章11~19節(新約p142)

司)17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。

会)17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、

司)17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。

会)17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

司)17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。

会)17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

司)17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。

会)17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

全)17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


聖書朗読 詩編111編(旧約p953)

111:1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。

111:2 主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。

111:3 主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。

111:4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み

111:5 主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め

111:6 御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。

111:7 御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実

111:8 世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。

111:9 主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。

111:10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。


説教 「永遠に続くもの」


本日は、聖書日課の詩編の箇所を開いています。この詩編111編は、冒頭の「ハレルヤ」を除く22の行が、22あるヘブル語のアルファベットで始まっているという、たいへん技巧的な詩です。主なる神様の御業について語っています。少しずつ、一緒に読んでまいりましょう。


1)1節

では、1節を改めて読んでみましょう。「ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で」。ご存知のように、「ハレルヤ」は「主を賛美せよ」という意味です。ある意味で賛美への呼びかけでもあり、この部分は、アルファベット時始まる部分には含まれておりません。


「主に感謝をささげる」は、新改訳2017では「主に感謝をささげよう」と訳されています。話している者の意志や願望を表す書き方になっているので、そのような訳も可能となっています。「私としては、主に感謝をささげたいものだ」ということです。


また、「主に感謝をささげる」とは、「主を賛美する」、ということでもあります。確かに、私たちの心に主なる神様への感謝が満ちあふれると、それは賛美となって現れるものです。また、「主を賛美したい」という時に、具体的に口から出てくる言葉の中には、「主よ、あなたに感謝します」という言葉が含まれるものです。この部分を「主を賛美する」と受け取れば、「主を賛美せよ」と呼びかける「ハレルヤ」という言葉とも揃ってきます。


そのように、主に感謝し、主を賛美することを、「心を尽くして」するように、と言われています。新改訳2017も聖書協会共同訳も、この部分は「心を尽くして」と訳されています。もとをたどれば、「すべての心において」「すべての心によって」という意味です。「すべての心」というのは、つまり「心全体だ」、ということで、英訳などを見ると、そのように訳されています。日本語には、「心を尽くして」という、日本人にぴったりの言葉があって、そのように訳されていますが、普段の日本語からすると、「心から」という感じでしょうか。「心から主に感謝をささげ、賛美をしたいのだ」ということです。


どこで主に感謝をささげ、賛美するのか、ということについても、1節に書かれています。「正しい人々の集い」はすぐさま、「会衆」と言い換えられています。「会衆」は「集会」とも訳され、定例の集会を表すとされています。私たちはどこで主に感謝をもって賛美をささげるのか。それは、私たちが集う定例の集会、礼拝においてなのです。共に集い、心から主を賛美することをこれからも続けてまいりましょう。


2)主の御業

私たちはなぜ主を賛美するのでしょうか。それは、その御業が大きく、偉大だからです。2節にそのように歌われています。「それを愛する人」というのは、主の偉大な御業を愛する人、ということになるのですが、もとの言葉からすると、主の御業を「喜ぶ」といったニュアンスのようです。私たちは、主の御業を喜んでいるでしょうか。主のなさることを受け止め、それを喜んでいるか、ということです。私たちに都合のいいこと、うれしいことは受け入れて、それを喜ぶことができますが、病気になった、けがをした、災害を経験した、といったようなことは、主の御業と受け止めるのは難しく、ましてや、それを喜ぶことなど難しいと感じます。プラスのことでもマイナスのことでも、私の身の回りに起こることを主の御業によるものと受け止め、それを喜ぶことは、信仰生活において大事なことです。ぜひこの御言葉に学び、主の御業を喜ぶ信仰生活へと神様に導いていただきたいものです。詩編作者は、「皆、それを尋ね求める」とまで言いました。主の御業を尋ね求める、ということです。共に、主の御業を尋ね求めてまいりましょう。


その御業は、この詩編の中で、「主の成し遂げられること」、「恵みの御業」(3節)、「驚くべき御業」(4節)、「御業の力」(6節)、「御手の業」(7節)と次々と言い換えられています。まさに、この詩編におけるテーマのひとつであり、重要視されています。


「主の成し遂げられること」とは、まさに主の御業そのものです。主が私たちのために、すべてのことを成し遂げてくださる、というのも、詩編の信仰です。詩編138編8節では、「主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます」と言われています。私たちの信仰の確認をいたしましょう。私たちは、私に関して、すべてのことを主が成し遂げてくださる、それこそが主の御業だ、と信じているでしょうか。それとも、半分ぐらいは自分の努力によるものだ、あるいは、そのぐらいは好きにさせてほしい、と思っているでしょうか。また、現在の暮らしに関して、また将来に対して、「見通しは暗い」と思い込んでしまっているでしょうか。すべてを主にゆだねましょう。主は、私に関して、すべてのことを成し遂げてくださるのですから。


3節の「恵みの御業」とは、私たちをその恵みによって救うという尊い御業です。それは私たちの想像をはるかに超えています。何かと要求の多いこの世の中、その要求に沿って生きていけるなら私たちは満足ですが、そうでないとき、要求にこたえられないときには、私たちは途端に不安に陥ります。健康でないといけない。良い家庭人、よい社会人でなければならない。人に迷惑をかけてはならない。このような周りからの圧力はまさに私たちへの要求であり、その中でだんだんと息苦しくなってくる。誰も、人にまったく迷惑をかけずに生きることなどできません。その要求にこたえられなければ、こんな私がこのままで生きていいのか、と悩んだりするものです。そのような私たちを、「安心して生きていてよい」と肯定してくださるのが、神様の恵みの御業です。それはまさに、4節で言い換えられているように、「驚くべき御業」です。


もともと、この4節の「驚くべき御業」とは、出エジプトの奇跡を指しているようです。エジプトでの抑圧を経験したイスラエルの民が、海が分かれてエジプトを脱出し、解放される。まさにこの驚くべき御業の背後には、この救いと解放の出来事があるのです。ちなみに、5節にある「主を畏れる人に糧を与え」るとは、出エジプトの救済の出来事の後、荒れ野で不思議な食べ物であるマナが降り、イスラエルの民が養われたことを指すと言われています。


この出エジプトの救済と解放の出来事は、まさに主なる神様の「御業の力」によるものでした。6節にある通りです。そして、出エジプトの後に、荒れ野での40年の放浪を経て、イスラエルの民は神様の約束の地、カナンに入っていくわけですが、それはまさに、主の「御手の業」によったのです。7節は、そのことを示しています。


このように、この詩編において、この主の御業について様々に言い換えられて繰り返し語られていることから、主の御業が重要なテーマである、ということは、すでにお話しした通りです。私たちも、この偉大なる主の御業に目を留めたいものです。


3)永遠に

もうひとつ、この詩編では繰り返されている言葉があります。それは、3節と10節にある「永遠に」、また5節、9節に見られる「とこしえに」ということばです。新共同訳だと、9節では「とこしえのもの」と訳されています。「永遠に」の方は「ラアド」という言葉が用いられ、「とこしえに」の方は「レオーラム」という言葉が用いられています。両方とも、いつまでもずっと続くことを意味しています。


3節の「永遠に」は、「恵みの御業」と一緒に使われていました。主の恵みの御業はいつまでも続く、ということです。さきほどこの恵みの御業には救いが関係していることをお話ししましたが、ということは、救いが変わらずにずっといつまでもある、ということを意味することにもなります。もし救いが、昔はあったけれども、今はその効力を失い、救いとして機能していない、ということになったら、どうでしょうか。そのような救いを、私たちは信頼することができません。しかし、この救いはいつまでも続き、その効力を保ち、いつの時代でも変わらず人を救い、これからもそうであり続ける。これが恵みでなくていったい何でしょうか。私たちはそのような、ずっと変わらない、いつまでも続く救いを、恵みによっていただいているのです。


続いては、5節で主がその「契約をとこしえに御心に留め」ると歌われていました。主の契約はずっと御心に留められるので、変わることはありません。契約において大事なことは、主なる神様が、私たち人間を愛し、守る、と約束してくださるわけですけれども、その関係は対等ではない、ということです。あくまで主なる神様の方が上で、その神様が、一方的に私たち人間と結んでくださる契約であって、私たちの側でそれを破ることはできません。また、もちろん、日頃の私たちの行いがどうであっても、それによって変わってしまうこともありません。神様が真実であることが7節でも暗示されていますが、神様は御自身の真実にかけて、御自分の結ばれた契約を変えてしまうようなことはなさらないのです。


9節にも、改めて、「契約をとこしえのものと定められた」と記されています。そのように、主が結んでくださった愛と保護の契約はとこしえに変わることがないので、「主の賛美は永遠に続く」と10節で言われているのです。「主の賛美」とは、もちろん「主を賛美すること」にほかなりません。とこしえの契約を結んでくださる主を賛美する私たちの賛美はいつまでもずっと、永遠に続くのです。


これはどこか、主を賛美する私たち人間存在もまた永遠のものである、ということを予感させます。9節では、「主は御自分の民に贖いを送」ったとあります。私たちは贖われた、ということです。贖いとはまさに教会用語で、私たちが日常の会話の中で、いきなり「贖われた私は」などと言ったらびっくりされることでしょう。意味も広く、具体的に何のことを指すのかわかりにくい言葉でもあります。新約に目を転じますと、かつての古い新改訳では、この贖いに関して、「罪の赦し」と訳しておりました。エペソ書1章7節で、「御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けている」と言われているところです。そうすると、私たちのもとに贖いが送られた、とは、御子イエス様の十字架の血による罪の赦しがもたらされた、という意味にもなるわけです。それで私たちは救われ、永遠に生きるようになりました。そして、永遠に主を賛美する者とされました。そのことを喜び、礼拝において主を賛美することを続けてまいりましょう。永遠に続くもの。それは、主への賛美です。


お祈りします。

天の父なる神様。尊いあなたの御名を心を尽くして讃美します。あなたの偉大なる御業をあがめます。その御業によって、私たちは救われました。あなたに感謝をささげます。あなたが送ってくださった贖いによって、私たちは罪赦され、永遠の命を受け継ぐものとされました。そして、あなたへの私たちの賛美は、永遠に続きます。共に礼拝に集まり、あなたの御業をあがめ、賛美する時をこれからも続けて持つことができますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・先週は昼食後、予算総会がありました。そのあとには、役員会もありました。来週は午後に新約の学びがあります。マタイによる福音書の6章を学びます。ご参加ください。

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