今回はエゼキエル書の24章までの学びの紹介です。
【エゼキエル書について】
・「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」は三大預言書と言われる。
「イザヤ書」~「ダニエル書」は大預言書、
「ホセア書」~「マラキ書」は小預言書と言われる。
・BC597年バビロニア帝国はユダ王国に侵略し、エルサレムを陥落させる。ヨヤキン王とエゼキエルを含むユダの指導者の多くは捕囚となった。その10年後、ユダが反逆するとバビロンの王ネブカドネツァルはエルサレムと神殿を破壊して多くの人々を捕囚とした。神はエゼキエルを通して、困難な状況の中でエルサレムの民が偶像礼拝をし、外国の力に頼ったので、裁きを行われると警告をした。
・「エゼキエル」は、神が強くされるという意味で、祭司の家系に生まれた。
BC593年(捕囚となった5年目)に預言者としての召命を受けた(1:3~)。
BC589年に妻を亡くしている(24:18)。
神からの召命に対する反応など、個人的な事柄はほとんど読み取れない。
・エゼキエル書は一人称「わたし」で書かれており、幻、預言、象徴的行動がエゼキエルの視点から書かれている。
・エゼキエル書は明確な日付で始まっていることが多い
(1、8、20、24、26、29、31、32、40章)
・象徴的行動、たとえ、ことわざが多用されている。
・「そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる」という表現が、48章中で27の章に、また、70回以上に及ぶ。この表現の前に大切なことが記されている。
【エゼキエル書の内容】
1章~24章 エルサレム滅亡の預言が中心的なメッセージ
1章
BC593年、ケバル川の湖畔で、神の顕現に接し、主の言葉が祭司の子のエゼキエルに臨んだ(1~3)。ケルビム(4~21、参照10:20、22)の上の大空の上に、主の栄光の姿があった(26~28)。
2~3章
主はエゼキエルに「反逆の民に遣わす」(2:3)と言われて、嘆きの言葉(3:10)が書かれた巻物(3:2)を食べさせた。それは蜜のように甘かった(3:3)。
*食べることで食べた物と同化すると考えられる。
エゼキエルはぼう然と七日間、捕囚民の間にとどまっていた(3:15)。
七日の後、主の言葉がエゼキエルに臨んだ。「正しい人に過ちを犯させないように警告し、受け入れれば、あなたも自分の命を救う」(16~21)
閉じこもりなさい(24)。ものが言えないようにする(26)。
4章~5章 象徴的行動
エルサレムが包囲される(3)ことをれんがで示すように命じられた。
飢餓に苦しむことも(17)、主は言われた。
髭をそり、それを燃やすことなどで(5:1~4)、民が疫病や飢えや剣で倒れることを示された(12)。
6章~7章 主の言葉がエゼキエルに臨んだ
偶像にかかわった人々が殺される(6:6)。
【そのとき、わたしが主であることを知るようになる】(6:7,13,14、7:4,9,27)
捕囚の民は、主が理由もなく災いをくだすと告げたのではなかったことを知るようになる(6:8~10)。
終わりが来る(7:2)。祭司や王、君侯(7:26、27)も裁かれる。
8章~10章
BC592年、霊はエゼキエルをエルサレムへと連れて行き(8:3)、イスラエルの長老七十人が自分の偶像の部屋で行っていることを見せた(12)。主は憐れみをかけない(18)と、言われた。亜麻布をまとい(祭司)、腰に書記の筆入れを着けた者に、主は言われた。「忌まわしいことに悲しんでいる者の額に印を付けよ。」それ以外の人々を滅ぼすように命じられた。(9:3~11)
神殿の庭(4)で、ケルビムの間にある火を受け取って、出て行った(7)。主の栄光はケルビムの上にとどまった(18)。ケルビムは主の神殿の東の門の入り口で止まった(19)。ケルビムはケバルの湖畔(1章)で見た生き物である(20,22)。
11章
霊はエゼキエルを神殿の東の門へ運んで行った(11:1)
「民の指導者(1)が異国人に撃たれて倒れる(10)。」と、主は言われた。
また、「人々に新しい霊を授ける」(19)と、主は言われた。
神の霊はエゼキエルを捕囚の民のもとに連れて帰り、エゼキエルは主が示されたすべてのことを捕囚の民に語り聞かせた。(24~25)
12章
主はエゼキエルに言われた。「イスラエルの人々(10)に、捕囚の地への行くことを示し
なさい」(1~14)。町は荒れ果てることをしめしなさい(17~20)。しかし、少数の人々を残し、剣と飢えと疫病から守る。行く先々の国で、自分たちが行った忌まわしいことを語り聞かせるためである。(16)それは、もはや引き延ばされず、実現される(25、28)
13章
主はエゼキエルに言われた。「偽りの預言者は滅びる」(1~14)。「女占い師は占いができなくなる」(20~23)。「主がそのような人々から民を救い出す」(23)
14章
イスラエルの長老数名『8:1ユダの長老と同じように捕囚の民』がエゼキエルのもとに来た(1)。「偶像から離れなさい。偶像を心に抱きながら、主に尋ねようと来る者(7)は、絶ち滅ぼす(9)。」と主は言われた。「たとえ、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても(14、15、17、19)、不信を重ねる人々は絶ち滅ぼす(12~14)。
そこに、わずかの者が残され(22)、彼らによって、理由なく厳しい裁きが行われたのでないと知るようになる(21~23)」と主は言われた。
15章
主は言われた。「役に立たないぶどうの木のように(1~5)、エルサレムの住人を火に投げ入れる(6)。不信を重ねたから(8)。」
16章
主は言われた。「主に拾われ、育てられ、妻とした(20)女性にたとえて、エルサレムが諸外国に仕え(34)、忌まわしいことを行った(51)。主が契約を立て赦す時に主を知るようになる(62~63)」
17章
主は言われた。「イスラエルの家にたとえを語りなさい。」
大鷲(3)はバビロンの王ネブカドネツァル、もう一羽の大鷲(7)はエジプトの王、ぶどうの木(7~9)はイスラエルにたとえられている。バビロンの王がエルサレムに来て、王とその家来をバビロンへ連れて行った(12)。エジプトに使者を送ったが(15)、ファラオ(エジプトの王)は軍勢を送ってくれなった(17)。回復されたイスラエルが大いに繫栄するという希望を見ることができる(22~23)。「主であるわたしがこれを語り、実行する」(24)という言葉で終わっている。
18章
主は言われた。「先祖の罪で子孫が苦しむということわざがあるが、罪を犯した者が死ぬ(1~4)。主の掟に従う者は生きる(5~9)。イスラエルの家は『主は正しくない』というが(25、29)、悔い改めて、背きの罪から立ち帰って、生きよ。(30~32)。」
19章 イスラエルの君侯のための悲しみの歌
「子獅子」はユダのヨアハズ王(ヨシヤ王の子)を示し、エジプトへ連れて行かれた(1~4)。「別の子獅子」はヨヤキン王を示し、バビロンに連れて行かれた(5~9)。「強い枝」はゼデキヤ王(ユダ王国の最後の王)を示し、バビロンに反旗を翻したが(列王記下24:20)、エルサレムは陥落した。
20章
BC591年、イスラエルの長老数人が主の御心を問うためにエゼキエルの前に座った(1)。
主は言われた。「イスラエルの民をエジプトから連れ出し(10)、掟を与えたが(11)、掟に歩まなかった(13)。それでも、荒野で民を滅ぼし尽くすことはしなかった(17)。わたしが与えると誓った地に導き入れた時も(28)、偶像礼拝を行ってきた(30)。わたしが働きかける時、イスラエルの民はわたしが主であることを知るようになる(44)。」
21章
主は言われた。「エルサレムに剣が向けられ、殺戮(さつりく)が起こる。悪に汚れた君主の時代は終わり、刑罰の時がやって来る(30)。アンモン人(イスラエルの古くからの敵)にも、刑罰の時がやって来る(33~37)」
22章
主は言われた。「イスラエルの民は、諸国民の前で自分の罪によって汚される(16)。イスラエルの民はわたしが怒りを注いだことを知るようになる(22)。わたしは怒りの火よってイスラエルの民を滅ぼす(31)。
23章
主は言われた。「姉オホラはサマリア、妹オホリバはエルサレムを示している(2~4)。お前たちは偶像による過ちの責任を負わなければならない(49)。」
24章
BC589年、主は言われた。「この日バビロンの王がエルサレムに攻め寄せた。反逆の家にたとえを語りなさい」(1~3)3節の鍋(イスラエル)に4節の肉(イスラエルの民)を入れて煮えるようにせよ、と流血となることを示された。錆びついた鍋(6)の錆がなくなるように焼けと言われた。主の憤りを晴らすまでは、清くなることは決してない(13)とのこと。
主は言われた。「喜びを取り去るが嘆いてはならない」エゼキエルの妻は死んだが、主の命じられたとおりに、葬儀もしないので、民は問いかけに答えた(15)。バビロンの軍勢が神殿を破壊し、エルサレムの民の命を取られることになるが、主の裁きであるので、嘆き悲しむことのないようにとの警告をされた(20~24)。
「エゼキエルは民にとってしるしとなる(24)」は、象徴的行動を示している。
エルサレムの崩壊の知らせを伝えにバビロンから使者がやって来る。彼らに語りなさいと、
主はエゼキエルに言われた(25~27)。
【注目点】
〇エゼキエル書において、「ケルビム」は最も詳しく記されている
・創世記 3章 24節
こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
*創世記から「ケルビム」が記されている
・出エジプト記 25章 22節
わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。
・出エジプト記 26章 1節
次に、幕屋を覆う十枚の幕を織りなさい。亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を使って意匠家の描いたケルビムの模様を織り上げなさい。
*主はモーセに幕屋とそのすべての祭具の作り方に、「ケルビム」が記されている
・民数記 7章 89節
モーセは神と語るために臨在の幕屋に入った。掟の箱の上の贖いの座を覆う一対のケルビムの間から、神が語りかけられる声を聞いた。神はモーセに語りかけられた。
*ケルビムの間から神がモーセに語りかけられたことを、エゼキエルは知っていたと考えられる。
・詩編 80編 2節
イスラエルを養う方/ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ/御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください。
*新改訳聖書では「ケルビムの上の御座に着いておられる方よ。」と訳されている。
◎主はケルビムの上におられる方と認識されていたので、祭司の子として、聖書を知るエ
ゼキエルは、主の語りかけに現実感があったと考えられる。
【質疑応答】
①3章16節以降、預言者の務めが書かれているが、預言者とは、単に神様からの言葉を伝えるだけではなく、正しい人が間違った道に進んでしまった場合は共に責任を問われると書かれており、預言者というポジションは、非常に責任の重い役割だったということか?
はい、預言者は責任の重い役割でした。
②4章に書かれている390日や40日という日数にはどのような意味がある?
390日(5)は390年、40日(6)は40年と考えるが、歴史的にいつの時点から起算するのかは不明です。390年間と40年間を合算して430年間と考えると、
「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は430年であった」(出エジプト12:40)と、エジプトでの苦難の期間と重複させた象徴的意味かもしれません。
③3章でエゼキエルは口を閉じられているが、その後口が開かれるまで、聖書に書かれている預言はどのように語られたのか?
26節でものが言えなくされてから、27節ですぐに「しかし、わたしが語りかけるとき、あなたの口を開く」と語られているので、口が閉ざされていたのはごく短い期間だったかもしれないと考えられます。このことを通して、語るべき時には主が口を開いてくださるとともに、御言葉を語るにはふさわしい時があり、それに従わなければならないことが示されている、たとえそれが反逆の家と言われる人々に対してであっても、タイミングは主が決められると考えられます。
【感想】
・エゼキエル書は、今まで読んだ書とはまた異なるカラーで、ファンタジーを読んでいるような感じだった。
・18章の「お前たちは立ち帰って、生きよ。」という言葉はとても力強く、印象に残った。
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