今回は「哀歌」についての学びのご紹介です。
【哀歌について】
・旧約聖書のギリシア語訳である七十訳聖書(1世紀頃に読まれていた)の「哀歌」の序文には、「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが荒廃して後、エレミヤは座して泣き、エルサレムのために哀歌を歌って言った」と書かれているので、「エレミヤの哀歌」と言われる。
・紀元前587年、バビロニア軍はユダに侵攻し、エルサレム周辺の都市を落とし、エルサレムを1年半にわたって兵糧攻めにした。紀元前586年にエルサレム城壁が破られ、神殿の財宝は略奪され、エレミヤの預言の通りに、エルサレムは滅亡した。滅亡直後に「哀歌」は執筆されたと考えられている。
・聖なる都エルサレムは滅びることはないと信じられていたので、エルサレム滅亡は、神様が民を見捨てたと感じられたので、悲しみ嘆きがたいへん深かった。
・南ユダ王国の最後の王であるゼデキヤはユダの指導者、祭司、有能な人々と共にバビロニアに捕囚として連行され、貧しい人々と小作人たちだけが後に残された。
・哀歌はエレミヤ書の続編と考えられ、神様への不従順の罪の結果を嘆き、神様に立ち返り、神様に新しくしていただく祈りへと導かれている。
・アルファベットによる詩
原文のヘブル語では、1章と2章は、3行で1つの連が構成され、各連の最初の行の初めの文字がヘブル語のアルファベット22文字の順になっている。3章は各連が3行とも同じヘブル語アルファベット文字で始まる。4章は1連が3行ではなく2行となっており、その1行目の頭文字がアルファベット順に並べられている。5章にはこのような技巧は見られないが、全部で22節から成り、アルファベットの数22が意識されている。このような技巧は哀しみの深さを文学的に表現するため、また記憶のためかと考えられている。
・並行法、対句法が、随所に見られる
【哀歌の内容】
1章 1節
なにゆえ、独りで座っているのか/人に溢れていたこの都が。やもめとなってしまったのか/多くの民の女王であったこの都が。奴隷となってしまったのか/国々の姫君であったこの都が。
※「この都」とは、エルサレム、擬人法が用いられている
※冒頭の「なにゆえ」は、新改訳聖書や口語訳聖書では「ああ」という嘆きの感嘆詞で始まっている
・1章は滅亡したエルサレムとエレミヤ自身が一体化している(18,19節)
・2章はエルサレムを「あなた」と呼びかけている(13、14節)
2章 17節
主は計画したことを実現し/約束したことを果たされる方。昔、命じておかれたところのゆえに/あなたを破壊し、容赦されなかった。敵はそのあなたを見て喜び/あなたを苦しめる者らは角を上げる。
※「角を上げる」とは、戦いに勝利をする力を与えるということ。
・3章19節~33節に、中心テーマがある
3章 31~33節
主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。
・4章は、エルサレムの裁きを示している
4章 22節
おとめシオンよ、悪事の赦される時が来る。再び捕囚となることはない。
娘エドムよ、罪の罰せられる時が来る。お前の罪はことごとくあばかれる。
・5章は、神様のあわれみを求める祈り
5章 21節
主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。
※「昔」は、ダビデやソロモンの時代
・哀歌の最後の言葉は、期待と不安が入り混じった言葉で閉じられている。
5章 22節
あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。
新改訳聖書では、
「それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。」
そんなはずはないですね、という意味が含まれている。
【注目点】
・3章は「なにゆえ」という言葉で始まっていない。
3章が特別な扱いをされていて、重視されていたと考えられる。古代において3が完全を意味していたことから、3章は神の変わらない愛と神の民を敵から救おうとする神の思いを表現していると考えられる。(3章19節~33節)
・「神様に立ち返る」ことが重要視されているが、人間の努力だけではなしえないので、
イエス・キリストをこの世に送ってくださった。
【質疑応答】
①3:13 箙(えびら)とは何か?
矢を入れて、右腰に付ける武具
②4:5 紫の衣に包まれて育った者とはどのような人のことを指しているのか?
身分の高い家に育った者
【感想】
・3章26節以降の部分は、読んでいる時のリズムが新約聖書の山上の説教に似ていると思った。
・頭文字をアルファベットの順に並べているのはすごいと思った。日本語ではなく、原文のヘブル語が読めたら、よりその凄さや美しさを実感できるのだろうと感じた。
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