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青年たちの聖書研究~第41回『マラキ書』

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 8月28日
  • 読了時間: 8分

いよいよマラキ書、旧約聖書の最後の書です。


【マラキ書について】

◎紀元前586年にエルサレムとその神殿はバビロニアによって破壊された。ユダの指導的な立場にあった多くの民が捕囚となった。紀元前538年にペルシアがバビロニアを滅ぼすと、捕囚となっていたイスラエルの民の一部がユダとエルサレムに帰還した。預言者ハガイとゼカリヤはエルサレムの神殿を再建するように民を励まし、民が祝福され豊かになる日が来ると預言した。しかし、紀元前515年にエルサレムに新しい神殿が完成して奉献されても、ユダはペルシアから独立することもできず、豊かにもなれていなかった。(紀元前333年頃まではペルシア、紀元前1世紀まではギリシア、それ以降はローマによる支配下にあった。)捕囚から帰ってきたユダの人々はこの時期にユダヤ人と呼ばれるようになったとのことである。


マラキ書が書かれたのはゼカリヤの最後の預言の後、紀元前470年~440年頃と推測される。


南王国ユダはペルシアの支配下にあり、高い税に苦しみ(1:7)、いなごの大群による被害で飢餓(3:11)に襲われていたかと読み取れる。民の生活は苦しく、宗教指導者である祭司も、主なる神は本当に民を愛しているのだろうかと疑問を抱き始めた。民は形式的には宗教儀式に参加してはいたが、内心では万軍の主に対して疑問を持っていて、律法は形ばかりとなっていた。民には神との関係が新しくされ、神からの希望が必要であった。「マラキ書」はこのような民に神の愛を思い起こせ、喜んで神に従うようにと励ましている。そして、神への信頼を呼びさまし、神との契約を待ち望むようにと語るのである。


◎「マラキ書」の特徴はイスラエルへの神の愛(神からの契約)で始まっているところにあると考えられる。そして、主の裁きの日が来るまでに、契約の義務を実行するようにとの招きで終わっている。


◎マラキは「わたしの使者」を意味する。祭司は民を教え導き、万軍の主の使者(2:7)であるべきとされ、「主の使者を送る(3:1)」では、ヘブライ語では「マラキ」という言葉が用いられている。【見よ、わたしは使者を送る。】(3:1)と、民を忘れていないことを伝えたかったと考えられる。


◎「マラキ書」では、神への問いかけが繰り返され、万軍の主は耳を傾けて聞いておられ(3:16)、答えてくださる。託宣(神からの語りかけ)でありながら、一方通行ではなく、応答の形式となっている。


◎「マラキ書」は旧約聖書の最後の書にふさわしく、【モーセの教えを思い起こせ】(3:22)【預言者エリヤをあなたたちに遣わす】(3:23)と、旧約聖書の中心とされる律法(モーセ)と預言(エリヤ)を思い起こせと語られている。最後は、主の裁きによって破滅とならないようにとの警告で終わっている。


【マラキ書の内容】

1章

1:1 表題

*1:2~5 イスラエルへの神の愛

エサウとヤコブはアブラハムの孫で、双子の兄弟。主なる神は長男エサウではなく次男のヤコブを選んで、アブラハムに約束をした祝福を受け継ぐ者とされた。エサウの子孫はエドム人となった。ヤコブは主なる神と格闘したのでイスラエルという名が与えられた(創世記32:29)。イスラエルとは「神と戦う」という意味がある。

「オバデヤ書」ではエドムの高慢と滅亡について語られている。10節には兄弟ヤコブ(イスラエルの民)に不法を行ったので、とこしえに滅ぼされると預言された。

*1:6~14  正しい礼拝

総督に献上できないような清くない動物を献げることを認めていた祭司たちは御名を冒涜していると、万軍の主は言われた。総督は当時のイスラエルの統治者で、ペルシア帝国は各州に総督を派遣していた。当時のイスラエルにおいて、総督は最高権力者であったと言える。


2章 

*2:1~9  祭司への警告

レビ族から祭司が選ばれるという契約があり、祭司は人々を教え導く職務があり、「万軍の主の使者(マラキ)」であるはずだったが、その道は守られていなかった。

*2:10~16  妻に対する背信

異教の神を信じる娘をめとって、若い時からの妻を裏切ってはならない。

*2:17  審判の日の到来

裁きの神はどこにおられるのか、などと言って、主を疲れさせている。


3章

*3:1【見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。】

使者はバプテスマのヨハネを示し、待望している主、契約の使者はイエス・キリストを示す。

*3:2~5

待望している主が来られると、祭司たちのけがれを取り除かれる。

*3:6~12  十分の一の献げ物の幸いと喜び

【十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。】(3:10)

本来、主を試すことは不誠実なことだが、このことに関しては試してみてよい、そこまで言って、実行を勧めている。

【諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと/万軍の主は言われる。】(3:12)

十分の一の献げ物によって、幸せな者、喜びの国なると、万軍の主は言われている。

*3:13~18  記録の書に記される

神に仕えることはむなしいと言っていることを主なる神は聞かれた。そして、主を畏れる者のために記録の書を書き記された。神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろうと、語られた。

3:19~24   (新改訳聖書では、ここからは4章となっている。)

主の名を畏れ敬う者には義の太陽が昇り、その翼にはいやす力がある。神に逆らう者は踏みつけられると、万軍の主は言われた。

23節のエリヤは紀元前9世紀の預言者。ちなみにマラキは紀元前5世紀の預言者。

そして、マラキより数世紀後のイスラエルの民は、エリヤが再臨して(つまり、エリヤのような預言者が現れて)、メシヤ到来の準備をすると考えられるようになっていた。(マタイ17:10~13)

マタイ17章においてイエス様の姿が変わった時に、ペトロは「モーセとエリヤとイエス様のために仮小屋を建てましょう」と言っている。モーセは律法を象徴し、エリヤは預言者を象徴しているので、旧約聖書を代表する二人の人物の名前をあげていると考えられる。

マラキ書の最後の部分3:22~24において、ホレブ(シナイ山)で命じられた十戒の教えを思い起こして忠実に従うように、また、神への悔い改めに導く預言者を遣わすので、神に立ち帰り、裁かれて破滅とならないように、との警告で終わっている。



【注目点】 

◎マラキ書では、神への問いかけが繰り返され、万軍の主は耳を傾けて聞いておられ(3:16)、答えてくださる。託宣(神の語りかけ)でありながら、一方通行ではなく、応答の形式となっているので、民の本音に主は耳を傾けて、的確に応答しながら、マラキ書は進展していっている。このような神への問いかけは、現代人にも共通する疑問とも思えるので、列挙してみる。


*マラキ書 1章2~3節

わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と。エサウはヤコブの兄ではないかと/主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。わたしは彼の山を荒廃させ/彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした。

☆ちなみに、新約聖書では、神の愛はイエス様によって示され、実現した!

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙 5章 8節)


*マラキ書 1章 6節

子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら/わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら/わたしに対する畏れはどこにあるのかと/万軍の主はあなたたちに言われる。わたしの名を軽んずる祭司たちよ/あなたたちは言う/我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。


*マラキ書 2章 17節

あなたたちは、自分の語る言葉によって/主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う/どのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが/悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか/主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと/言うことによってである。


*マラキ書 3章 7節

あなたたちは先祖の時代から/わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると/万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように立ち帰ればよいのか、と。


*マラキ書 3章 13節

あなたたちは、わたしに/ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う/どんなことをあなたに言いましたか、と。


【質疑応答】 


①2:9 「人を偏り見つつ教えた」とはどういうことか。


当時の祭司の中には、わいろを持って来た人には耳ざわりのよい言い方で律法の解き明かしをしたと考えられます。


②3:23 エリヤはマラキよりも前の時代の預言者ではないのか。この箇所はエリヤが再臨することを示しているのか?


エリヤは死んだのではなく、嵐の中を天に上って行ったと記されています(列王記下2:11)。そこで、エリヤはいつか再臨するであろうと信じられていました。具体的にはエリヤのように権力者と対決し、罪を示す人物が現れることを示しています。

エリヤは紀元前9世紀の預言者ですが、イエス様の時代では、洗礼者ヨハネをエリヤだと信じていた人もいました。またイエス様のことをエリヤではないかと考える人もいました。マルコ9:12~13において、イエス様はこのように言われました。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」最後のところは、ヘロデ王の命令によってバプテスマのヨハネが殺されたことに言及しています(マルコ6:14~29)。


【感想】 

・長かったが、旧約聖書をここまで通して読むことができてよかった。

・荒野での誘惑の際に、イエス様が神様を試してはならないとサタンに言っていたが、マラキ書の中では、実行すべきことについては私を試してみよと書かれている。それだけ良い行いを人間がするようになってほしいという神様の切実な思いが現れているのではと思った。

・マラキ書の中でもヨハネやイエス様のことが預言されているのは初めて知った。


◆今まで一緒に学んできてくださり、ありがとうございます。担当の玲子牧師のご労に感謝します。


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