今回は、「第4回 聖書研究会」の内容をご紹介します。
テーマは「民数記」
第4回 聖書研究会 「民数記」
【民数記について】
英語では「Numbers」→「数」を全面に出している。
【注目点】
6章1節~ ナジル人の誓願 (サムソン)
ナジル人とは、日本人やイタリア人のような地域で呼ばれる名前ではない。
祭司とは違う。修行に入る人のようなイメージ。
6章22節~ 祭司による祝福 (24節〜26節は礼拝の祝祷で使われている。)
10章33節~ 契約の箱 時代によって扱い方に差がある。
21章4節~ 青銅の蛇は十字架のイエス様に結びつけられた。
モーセが蛇を上げる→仰ぐ→命を得る
神様がイエス様を天に上げる→仰ぐ→永遠の命を得る。
(ヨハネ3章14節)
WHOのマークにヘビが入っている。(癒しの意味)
35章9節~12節 逃れの町(わざとではなく殺人を犯してしまった際にこの町で保護される。)逃げなければ、報復される危険があるため。
難民法の起源にもなっている。 現代で言うと、修道院やお寺(駆け込み寺)が近い。
教会もそういう場所でありたい。神様の赦しを得て再出発していく場所。日曜日の礼拝を終え、主の民として世に派遣される。
【質疑応答】
1. 20:9-11ではアロンはモーセに追従していただけで特に何もしていなかったように読める。にもかかわらず、なぜ20:24でアロンだけがメリバの水の責任を負って死ぬことになったのか?
アロンはモーセの兄だったと言われます。モーセより年長で、それだけ死期は近づいていたとも考えられます。20章の記述では、メリバの水の事件の直後に、そのことが直接の誘因となって、アロンが亡くなったように書かれていますが、別の角度から考えると、主なる神様はアロンの死の理由(「メリバの水のことでわたしに逆らった」20:24)を述べられますので、あたかもそれが死の原因であったかのようにも聞こえますが、ほかの理由もあった、ということです。モーセも、メリバの水のことでは責任を負っています。いくら願っても、モーセもまた、アロン同様に約束の地に入ることはできませんでした。申命記の32章48節以降、小見出しが「ネボ山に登れ」となっているところをご参照ください。
ただ、アロンの場合、少し考えておかなければならないことがあります。それは、モーセと違って、アロンには「偶像礼拝」の罪がある、ということです。モーセが律法を受け取りに山に行っている間に、不安になった民はアロンに願って、金の子牛の像を作ってもらっていました(出エジプト32章)。この辺りは、アロンの評価を落とすことにつながっていると思われます。しかし、神様はアロンをすぐに罰することはなさいませんでした。モーセを助けるという大きな使命があったからかもしれません。
2. 22:5から出て来るバラムはイスラエル人ではない登場人物の中で唯一神の言葉を聞くことができた。25章でも示されているように当時の中東地域ではバアル信仰なども存在していた中、なぜ遠く離れたユーフラテス川流域地方出身のバラムは神の言葉を正しく理解することができたのか?
結論から言うと、このバラムもまた、ひとりの「占い師」に過ぎませんでした(ヨシュア記 13章 22節)。普段からオカルトまがいのことをしていたバラムでしたから、霊的なことには敏感に反応し、ある程度は主のみこころを知ることはできたのではないでしょうか。しかし、正しく理解していたかどうかは怪しいですし、やはりその末路といいますか、最期の様子からすると、祝福された人生であったかどうかは疑わしいと言わざるを得ません。
彼と、南王国ユダを滅ぼしたバビロンをちょっと並べて考えてみると、見えてくるものがあります。バビロンは、滅びの器として、南王国ユダを攻略、壊滅させます。では、神様に喜ばれたかというと、「神のものに手を下すとは」ということで、裁きの対象となっているのです。バラムも同じなのではないでしょうか。何らかの目的でイスラエルを祝福する側に回り、その時は主のみ声も不思議にわかって、神様の御心通りに活動するのだけれども、元来、主への恐れがある訳でもなく、好きなように生きて、最期は無残にも命を奪われる。民数記はこのような人物をも聖書に登場させ、大事な役割を割り当てますが、御心の範囲を越えると、裁きの対象とするのです(不思議にも、バラムの死は民数記31章にも記録されています。同姓同名?)。
3. 氏族ごとに人口調査をする場面が出てくるが、今のユダヤ人は、誰の氏族という意識はあるのか?言い伝えのレベルになっているのかもしれないが。
北王国イスラエルが紀元前721年(諸説あり)にアッシリアによって滅ぼされた時、イスラエルを構成していた10部族も失われました。というのがイスラエルの考え方かもしれません。南王国ユダは、国名にもなっているユダ部族とベニヤミン族だけで構成されていましたが。南王国ユダも数回にわたるバビロン捕囚において、やがて部族としてのアイデンティーは失っていったと思われます。後にバビロン捕囚にあった人の一部はエルサレムに帰ってきますが、一部は、自分の血筋がイスラエルにあるのかどうか、はっきりしませんでした(ネヘミヤ7章61節参照)。
歴史的には、1948年に「イスラエル独立宣言」、世界各国から人々が移住していきました。現代においては、世界各国からの帰還民との共存により、かつての12部族や、そこから複雑に分かれ出た氏族よりは、「イスラエルであること」という一点で何とか国としてまとまって行こう、としているような気がします。各地に散らされた離散の民だった人々が、エルサレムに一気に帰還してくることによって、言語も文化も多岐にわたることになったイスラエル。その地では、テレビ番組で、「討論番組」が多いと聞いています。お互いを分かり合うために、徹底的に話し合う、ということのようです。その姿からしても、かつてのように12部族の氏族ごとで団結しているようには思えません。それよりもどこの国から(アメリカからやロシアからなど)移住して来たかによって、言語や文化などの違いから、その共同体ごとの団結があるのではないでしょうか。
イスラエルの公用語はヘブル語。難しいが、子供に教育し、「ヘブル語を話せるイスラエル人」というアイデンティティを持つ。
4.1章53節 「怒り」とは、誰の怒りなのか?
レビ人以外の人が幕屋に侵入すると、神様の怒りが生じると考えられていました。
5.19章6節、18節 「ヒソプ」とは何か?
ヒソプの柔毛状の茎と葉には液体が付着しやすいので、宗教儀式の際に水や血を振りかける道具として使われることが多かったそうです。
感想
・荒野を彷徨うという以外にも様々なトピックスがあって面白く、また読み直してみたいと思った。
・逃れの街のような人道的な制度もこの時代から既に造られるようになっていたことに驚いた。
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