青年たちの聖書研究~第37回『ハバクク書』
- 明裕 橘内
- 2 日前
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【ハバクク書について】
・1~2章はハバククと神との問答、そして3章にはハバククの賛美が記されている。
・預言者は神からの託宣(語りかけ)を受けて民に語るが、ハバククの場合は民に代わって神に問いかける点に特色がある。
・「預言者ハバクク」(1:1)と記されているが、ハバククはエルサレム神殿の祭司であったと考えられる。そして、「シグヨノトの調べに合わせて」(3:1)や「指揮者によって、伴奏付き」(3:19)から、神殿の聖歌隊に関係する人物であると考えられる。
・「ハバクク」は「抱きしめる」という意味であるが、確かではない。
・ハバククは神の民の中で行われていた暴虐(乱暴なむごい仕打ち)、不法を嘆き、助けを求めていた(1:2~4)。「カルデア人を起こす」(6)という御言葉から、ハバクク書はバビロニアが古代中近東で最強の国となった紀元前600年前後に、記されたと考えられる。
・ハバクク書は、ヨシヤ王の治世の終わりの頃またエホヤキム王の治世の始めの南王国ユダに対する預言が記されている。
・ハバクク書は紀元前586年にエルサレムが滅亡する以前に、エルサレムの神殿での礼拝に使われていたと考えられている。ユダヤの伝統においてハバクク書3章は、シナイ山での律法を受け取ったことを記念する祭りでもある春の収穫祭の第2日の朗読箇所の一部とのことである。
【ハバクク書の内容】
*1:1~4 預言者ハバククの嘆き
暴虐や争いが起こり、律法は無力となっているのに、主はいつまで助けてくださらないのかと、ハバククは嘆く。
*1:5~11 主の答え
カルデア人(バビロニア人を指す)は冷酷で(6)、素早く攻撃してきた(8)。しかし、自分の力を神としたので、罪に定められる(11)。
*1:12~17 預言者ハバククの嘆き
バビロニア軍は絶えず容赦なく諸国民を殺すために剣を抜いていいのでしょうか(17)。
*2:1~20 主の答え
高慢な者(バビロニア人)は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる(4)。バビロニアは多くの民の滅びを招き、自らをも傷つけた(10)。偶像に依り頼んでも役に立たない(18)。しかし、主は聖なる神殿におられる。全地よ、主の御前に沈黙せよ(20)。
*3:1~19 主への賛美の歌(指揮者によって、伴奏付き)
主は御自分の民を救い、油注がれた者を救うために出て行かれた。神に逆らう者を打ち砕かれた(13)。主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。主なる神はわが力、聖なる高台を歩ませられる(18~19)。
【注目点】
◎ハバクク2章4節の後半「神に従う人は信仰によって生きる」は、以下に引用されている。
*ローマの信徒への手紙 1章 17節
福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
*ガラテヤの信徒への手紙 3章 11節
律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
*ヘブライ人への手紙 10章 38節
わたしの正しい者は信仰によって生きる。
(新改訳聖書では、わたしの義人は信仰によって生きる)
◎ルターの宗教改革の中心的教理は信仰義認
信仰義認、聖書のみ、万人祭司は、プロテスタント信仰の根幹であり、宗教改革の三大原理である「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」は、ルター神学の中心である。
ルターは16世紀初頭当時のカトリック教会の腐敗を、行為義認(善行によって神は人を義とする)説に由来するものと考え、これに対して、ローマ信徒への手紙1章17節から、人は善行ではなく、信仰によってのみ義とされると記されていることに注目をした。
【質疑応答】
➀ハバクク書 2:3 「定められた時」「終わりの時」とあるが、これはそれぞれどのような時を指しているのか。
「定められた時」「終わりの時」も、同じ時を表している。神が定められた終わりの時、
神が定められた裁きの時と考えられます。
この文脈においては、終末(世の終わり)を示すと考えるのは難しいと言えます。
【感想】
・ハバクク書が、民に代わって神に問いかける点が特徴的だという解説を聞き、確かに今までの預言者は神からの言葉を伝える方向だったことに気づき、意外な発見があった。
・今まで通して読んだことがなかったハバクク書が意外と新約聖書に引用されていて、特に私たちの教会の源流であるルターの考えの根本にもつながっていることも初めて知り、驚いた。
(担当・橘内玲子)
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