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執筆者の写真明裕 橘内

青年たちの聖書研究~第二回『出エジプト記』編~

今回は、「第2回 聖書研究会」の内容をご紹介します。テーマは「出エジプト記」


【出エジプト記について】

*概要

出エジプト記の主人公であるモーセは十戒を授けられた、旧約聖書の代表者である。

新約聖書にもモーセの名が出てくる。(マタイ17章など)

今回、出エジプト記を読んでの総括は、

「疑問の多い世界を、複雑な自らが、神様からの使命を頂いて生きてく」


*解説

1:8〜10 ファラオがイスラエル人に対し、国を取られるかもしれないという恐怖を覚える。

この時代(紀元前13世紀頃)、エジプトは文化の中心地(都会)であった。

イスラエルの民の数が増えるという神の約束が現実になりつつあった。

2:1 モーセの父と母がレビ家出身である。(祭司の家系)

2:7〜10 モーセは大きくなるまで実母に育てられ、それ以降は王女の子として教育を受けた。

モーセは籠に入った状態でナイル河畔の葦の茂みの間に置かれるが、ここに出てくる「籠」はヘブライ語で「箱舟」と同じ言葉。

王女はヘブライ人の子供だと分かっていながら育てた。(その時ヘブライ人の男の子は生かしてはいけなかった。)これも神様の計画の一部である。

2:12 モーセが殺人を犯す。このことを知ったファラオから逃れるためにミディアン地方に着いた。(ミディアン人は、アブラハムとケトラの子供の子孫)

ヤコブもエサウから逃げており、似た状況。

2:21 祭司エトロが娘ツィポラとモーセを結婚させた。

3:1〜5 神の山ホレブ(シナイ山の別名)で燃える柴の間から声を掛けられる。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」「わたしはある」という神様

「主」は、神の固有名詞ヤハウェをみだりに口にしないように代わりに用いた尊称

「わたしはある」は、英語では”I am who I am” と書かれている。am(be動詞)が神様の変わらない性質や絶対性を表している。

3:7〜10 「イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」と主がモーセに言われる。

神様がイスラエル人の苦しみを見て理解してくださった。

10の災い・エジプトからの脱出

17:3〜16 アマレク人との戦いに勝利

17:12 モーセの手が重くなったので、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。

リーダーを支える姿が描かれている。

20章 十戒

モーセがシナイ山で授けられる。

20:2 十戒の前文 

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

十戒そのものも重要だが、この前文もそれと同じくらい重要。

12節に目的「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」

十戒は英語で「You shall not 〜」と書かれる。shall notはmust not よりも弱く感じるが、法律用語として「〜してはいけない」と言うときにはshall notを使うことからこの表現で問題ないと言える。

*You shall not  戒めとして絶対否定ではなく 「~しないでしょう」

shallの用法の根底には「義務・当然」の意味があるが、「義務・当然」の意がはっきり出るのはshallの過去形shouldにおいて。shallを使うことで未来を表すことができる。


32章 金の若い雄牛を鋳造し、それを礼拝する。

40章 主の栄光が現れる。

昼は主の雲、夜は雲の中に火が現れた。


*質疑応答

①6章12節の「唇に割礼」とはどういう意味か?信仰告白をしたということなのか?

→大枠で「口下手」でいいと思いますが、割礼にはヘブル語で「契約」という意味がありますので、「口に神様からの契約の印がない」という意味で、権威がない、というニュアンスもあるかもしれません。だから、ファラオは聞かない、ということになるわけです。権威ある口から語られる言葉なら、聞くかもしれない、ということです。


②17章で「手を上げる」という表現があるが、これは祈りの姿勢であると書いてある解説を読んだ。今のキリスト教では手を組んで祈るのが一般的かと思うが、どのように変わっていったのか?

→旧約聖書に何度か、手をあげて祈る、という記述があります。新約でも、「男性は手をあげて祈る」という記述があります。

「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででも清い手を上げて祈るようにしなさい。」(第一テモテ 2:8)

ここで、「男」というのがヒントだと思います。女性はそれでなくても控えめにしていなければなりませんでした。その女性が、手をあげて祈ったとは考えにくいところです。のちに、男性もそれに合わせて、次第に手を上げてではなく、手を組むような形で祈るようになったのではないでしょうか。ちなみに、現代日本のカトリック教会は、手を組むのではなく、手を合わせて、まるで合掌しているかのように祈る司祭が多いです。


③21章に出てくる水溜めとは何?(何のためのもの?)

→乾燥していて水の少ない(雨が少ない)地方ですから、このような水溜めは重要でした。

ちなみに、イスラエルでは冬が雨の季節です。


④災いを受けてもファラオが逆に負けじと心を頑なにするというのは理解できるが、神様がファラオの心を頑なにするという表現もあり、なぜわざわざそのようなことをするのか。(そのままにしておいたら10の災いの途中でファラオはイスラエル人をエジプトから出したのでは?)

→ファラオが自分で回心して民を去らせるのでは、神様の栄光が現れません。神様の栄光が現れるために、ファラオの心が頑なにされたのです。

ファラオが頑なになる・・・7:13、7:22、8:15、9:7、9:35、14:22

神が頑なにする・・・9:12、10:11、11:10、14:8、


*感想

・立派な人物だと思っていたモーセが殺人を犯していたことを初めて知り、驚いた。

・教会学校では神様の優しい面を多く学ぶが、過激な面が多く現れている書だと思った。

・十戒が英語ではshall not 〜 という表現をしていることを初めて知った。

・父母を敬えという部分は、本来強制されて敬うものではないのではないかと少し違和感があると感じた。

・「雲の柱、火の柱」で導いた表現があったが、人間は何度も間違いを犯すのに、そんな罪深い私たちも神様は守って導いてくださることを認識できた。



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