今回は、「第3回 聖書研究会」の内容をご紹介します。
テーマは「レビ記」
第3回 聖書研究会
レビ記の解説
・レビ記は祭司のルールブックなので、現代の私たちにとっては難しい。
祭司にとってはありがたいもの。(具体的に方法を示されており、書いてある通りにすれば良いので。)
・大きく2部構成になっている。
1章〜16章 5種類の捧げ物、祭司の務め、穢れについて など
祭司は行事執行者でもありつつ、現代の医者や保健師のような役割もあった。
17章〜27章 祝祭日について など
例:23章 除酵祭
25章 安息の年、 ヨベルの年
質疑応答
⓵13〜14章でツァラアトのことをかなり恐れているように感じた。なぜそこまで恐れられるのか?
感染症を恐れるということは、一昨年からのコロナ蔓延の状況から理解できると思います。まして、医学が発達していない、検査もなく治療法もない状況ではただただ恐れてしまう、不安になることは推察できると思います。
☆もともと「らい病」と訳されてきた語である。患者団体からの抗議により、らい病という訳語が使えなくなり、まず1987年の新共同訳が、「重い皮膚病」という訳を打ち出した。新改訳第3版から、ヘブライ語の音をそのままカタカナで表記した「ツァラアト」が用いられるようになった。しかし、これでは、旧約はいいが新約はどうするか(新改訳は第三版以降新約もこのツァラアトを使っており、ギリシア語で書かれた聖書なのに、矛盾している)という問題もあり、これでは翻訳の放棄となってしまう。いずれにしても皮膚病と捉え、らい病とさえ言わなければいいかと言うと、この症状は家の壁にも生じるとされていて、いまだに実際にどのようなものを指すのかは不明である。
1)当時、どのようなもので、どういった原因のものかがわからなかったから。どの程度、伝染するかもわからない。
2)当時の社会は地域共同体が中心であった。その共同体が、原因不明の伝染病に襲われて壊滅されるわけにはいかない。共同体の他の成員を守る配慮として、厳格な隔離などに必然性があったと思われる。用心に用心を重ねるには意味があった。
②18:22で同性愛を禁じている。多様性が認められる現代ではこの箇所とどう「折り合い」をつけていけばいいか?
18:24 “身を汚してはならない。”
※ちなみに、同性愛は新約聖書でも禁じられている。聖書は一貫した態度をとっている。
◎現在、私たちはある意味で(執行)猶予の中で生きている。神様は、決定的で最終的なさばきを、いわゆる「最後の審判」の時まで引き延ばしておられる。
今、ひとりでも多くの人が悔い改めることを求め、罪がある状態を忍耐しておられる。
たとえ同性愛はしていなくても、知らないうちに何らかのささやかな罪を犯しているとしても、即座に神様の裁きが来て雷鳴がとどろき、私たちが雷に打たれるわけでもない(大げさに言えば)。そのように、罪を犯しているという点で脛に傷のある者同士がつながりを保ちながら生きていくのが社会であって、そこではぎりぎりの線まで、赦し・許し・妥協が必要になってくるのである。もちろんこれは、刑法に触れるような「犯罪」は除外しての話である。
◇まとめ:同性愛は罪であり、神様の喜ばれないものである。これは不変である。しかし、最後の裁きの時まで、執行猶予となっている。私たち人間同士のことで言えば、裁くのは私たちのすべきことではないので、それが罪になることや、危害を加えられることでなければ、共同体のメンバー同士として平和を保ち、挨拶や会話など、相手の尊厳を傷つけないように、丁寧に接していく。また、その当時は、同性愛を宗教の中で行う異教も存在したため、主なる神様につながっていられるように、危険な宗教との関わりを禁止したという可能性もある。
③「祭司」という言葉と「アロンの子」という表現が出てくるが、この2つは同じものと考えていいのか?
同じです。
④7章の「和解の捧げ物」の「和解」とは、どういうこと?(神様と人間が和解するということ?贖罪とはどう違う?)
その通りです。神と人間との和解です。関係概念です。壊れた関係が修復されることを意味します。贖罪は罪を償うことで、法的な関係とも考えられます。何か違反、違法とされることが起こり、刑罰が与えられたので、それに服し、償いをする、ということが基本です。
イエス様が生まれる前までは、動物や穀物を捧げることで罪を贖うことが必要とされたが、イエス様が人類の罪を全て背負って贖ってくださった。このことによって、現代のわたしたちはイエス様を信じることで罪を赦された者となり、レビ記に書かれているような捧げ物を用いる必要がなくなった。
「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」 ( ヘブライ人への手紙 9章 12節 )
⑤「私は主である」という言葉が何回も出てくる。理由やそれによって何が読み取れるか。
「私が言うのだから、聞きなさい」という意味もありますが、それだけではなく、
「私は主である」と言われて初めて、主を認識する←「認識の定型句」の一種
当時の人々はレビ記を「朗読している」のを「聞く」ことが中心だったので、適宜、同じフレーズが出てくると、「あ、同じフレーズだ、聞いたことがある」と安心し、聞きやすくなった。
「私は主である」ということは、神様が権威を振りかざして、「しもべとなれ」と言っておられるのではなく、「私が主であるから安心して、任せなさい、絶対大丈夫だから。悪いようにはしないから」と言う意味合いではないでしょうか。
感想
・他の宗教で行っているから同性愛が禁止されていると聞くと納得できた。
新約の時代で捧げ物が必要なくなったことを理解できた。
人間の良くない面も描かれている。これだけは守りなさいという最低ラインをレビ記では示していると認識した。
・血を振りかけたものが清いというのは、自分の感覚では理解しにくい。
→血がついていることを清いとする当時の習慣。真っ白の服というような目に見える清さもあるが、神様に対する清さという意味では血を使うことで清さを示すことができた。
19章18節に隣人愛について書かれている。隣人愛というのは新約聖書の時代になって生まれた教えだと思っていたが、もっと昔のレビ記の時代から神様は教えていたことを知り、驚いた。
・同級生に同性愛者がいた。それ以降も出会う場面がある。聖書には禁止すると書かれており、しかし、現実には周りにそのような特徴をもった人がいることで、その人とどのように関わるべきか分からなかった。しかし今日の話を聞いて、自分で対処しようとする必要はなく、神様が裁いてくださるから神様に任せるというのは自分に欠けていた視点だった。他の人と変わらず接していけばいいんだと理解できた。
聖書を読む時間がとれなくても、アプリで聞くことですんなり入ってきたので、今後も活用していきたい。
・レビ記は、自分や他人を守るものとして書かれていると認識した。
法律を守ることはもちろん大事だが、それだけに縛られるのではなくて、人を愛することも書かれており、そういったことも学んで生きていく必要があると感じた。
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