【ホセア書について】
・ホセア書は十二の小預言書(ホセア書~マラキ書)の最初の書で、分量的に少ないので小預言書と言われる。年代順には並んでいない。
ちなみに、大預言書は、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書。
・ホセアはヘブライ語で「救い」という意味で、ヨシュア「主(ヤハウェ)は救い」の短縮形。ヘブライ語の「主(ヤハウェ)は救い」をギリシア語にした名前が「イエス」。
「以上は、モーセがその土地の偵察に遣わした人々の名である。モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ」(民数記13:16)
ホセアとホシェアは意味が同じ。
ちなみに、北イスラエルの最後の王はホシェア。(新改訳聖書ではホセア)
・ホセアは北イスラエル王国についての預言をした(南ユダ王国についての預言も多少ある)。
・同時代には、アモスは北イスラエル王国に対して(ホセアよりも前の時期と考えられる)、また、イザヤとミカは南ユダ王国に対して預言をしたと考えられる。
ちなみに、北イスラエルの王国はルベン族、シメオン族、イサカル族、ゼブルン族、ベニヤミン族、マナセ族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族の十部族で、
南ユダ王国はユダ族、ベニヤミン族の二部族で構成された。
・神はイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、土地を与えるという約束をされた。約束の地カナンで裕福になってくると、イスラエルの神(ヤハウェ)から離れていってしまった。先住民のカナン人を追い出さず、カナンの神バアル(豊作を与えるとされていた)の儀式に参加する人々が増えていった。また、この時期(紀元前8世紀)、イスラエルはアッシリア帝国の脅威にさらされ、イスラエルの王たちはアッシリアの王に貢物を納めて侵略されるのを回避してきた。また、エジプトに援助を求めて、アッシリアに対抗しようとしたこともあった。しかし、そのような外交政策は逆効果となり、アッシリアはBC722年に北イスラエル王国を滅ぼし、多くの民を捕囚として連れ去った。
ちなみに、BC586年、南ユダ王国の首都エルサレムはバビロニアによって滅ぼされ、多くの民は捕囚として連れ去られた。【「バビロン捕囚」と呼ばれる】
・ホセアは、カナンの神バアル(私の主人という意味)に仕えていたゴメルと結婚し、長女に「憐れまれぬ者」、次男に「わが民でない者」と名付けるようにと、神に語られた。将来、イスラエルの人々は「わが民でない者」と言われるかわりに、「生ける神の子ら」と言われるようになると、主は語られた。この箇所をパウロは福音が異邦人に宣べ伝えられることを意味するものとして引用している。以下はローマ信徒への手紙 9:24~26。
【神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」】
【ホセア書の内容】
1章~3章 ホセアの家族と不忠実なイスラエル
1章
BC750年頃、ホセアに以下のような主の言葉が語られた。「淫行の女をめとり、その子どもたちを受け入れなさい。」(2)とは、神が霊的姦淫(偶像礼拝、カナンの神バアルに信頼すること)を犯したイスラエルの民と関係を回復されることの実物教育とも言える。
ホセアは、カナンの神バアル(私の主人という意味)に仕えていたゴメルと結婚し、長男にイズレエル(神が種を蒔く、という意味)、長女にロ・ルハマ(憐れまれない者、という意味)、次男にロ・アンミ(わが民でない者、という意味)と名付けるようにと、神に語られた(2~3)。
2章
将来、イスラエルの人々は「わが民でない者」と言われるかわりに、「生ける神の子ら」と言われるようになる(1)。また、23~25節では、イズレエル(神が種を蒔く)の時代には、(憐れまれない者)を憐れみ、(わが民でない者)に向かって(わが民)と言う。彼は、「わが民よ」と答えると、主は語られた。
3章
1~3節において、主は再びホセアに言われた。「夫に愛されていながら姦淫する女ゴメルを愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、主がイスラエルの人々を愛されるように。」ホセアは主に命じられた通り、ゴメルを奴隷一人の代金を支払って買い戻した。「その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。」(5)と、将来、ダビデ王の時代(BC1010~970年)に匹敵するような繁栄した王国に回復されると神は語られた。
4~14章 イスラエルとユダの民に対しての悔い改めへの招き
4章
祭司も預言者も勢いが増すにつれて、神に罪を犯した(7)。イスラエルの民は新しい酒に心を奪われていた(11)。
ギルガル、アド・アベンへ行かないように命じられているのは、聖所であったがカナンの神の礼拝の場となってしまっているから(15)。
ギルガルは神がヨルダン川の流れを止め、イスラエルの人々を渡たらせた所。
ベド・アベンは罪の家という意味で、べテル(神の家)の蔑称。
18~19節では、欲望の霊にまきこまれ、恥知らずなふるまい(偶像礼拝)に身をゆだねていると、イスラエルの民が描かれている。
5章
エフライム(北イスラエル王国の中心部族で、北王国全体を示す)はアッシリアの王に貢物を送り、ユダ王国はエジプトの王に援助を求めたが、解決には至らなかった。
6章
神が喜ばれるのは愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない(6)。マタイによる福音書9:13において、イエス様の発言として引用されている。以下はマタイによる福音書9:11~13。
【ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」】
7章
神がどんなにイスラエルの民を救おうとしても、エフライムの不義、サマリアの悪が現れる(1)。エフライムは、北イスラエルの中心部族。北王国全体を示すことが多い。
サマリアは北イスラエルの首都。エフライムとサマリアは同義語として用いられている。
8章
4節の「王たち」は、ソロモン王の死後、北イスラエル十部族はレハブアム王に対抗して、ヤロブアムを王としたので、それ以降の北イスラエルの王たちを示す。
5節の「サマリアよ、お前の子牛を捨てよ。」とは、北イスラエルのヤロブアム王がべテルとダンに建てた金の子牛を指す(列王記上12:26~30)。金の子牛のような偶像について「それは職人が作ったもので、神ではない。」(6)と、他の章においても幾度となく語られている。
9章
2節では、バアルへの礼拝の結果として穀物などの収穫が与えられると考えていたイスラエルの民は裏切られることが示されている。
9節の「ギブア」はエルサレム北5kmの丘の上。サウル王の故郷。士師記19章には、旅人に対するギブアの暴力事件が描かれている。側女の死体を十二に切り離し、イスラエル全土に送りつけた(士師19:19)。
10章
「恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように。
ところがお前たちは悪を耕し/不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ。」(12~13)
「ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに/同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる。」(15)
イスラエルの王たちはアッシリアに貢物を納めて侵略されるのを回避してきた。エジプトに援助を求めてアッシリアに対抗しようとしたこともあった。しかし、そのような外交政策は逆効果となり、アッシリアはBC722年に北イスラエル王国を滅ぼし、多くの民を捕囚として連れ去った。
11章
エジプトからイスラエルの民を救い出した主なる神(ヤハウェ)のエフライムへの深い愛が、以下のように、示されている。
「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。」(8)
「お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」(9)
8節の「アドマ」、「ツェボイム」は死海の南端にあった町で、ソドムやゴモラのように滅ぼされた。
「わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると/主は言われる。」(11)は、捕囚の民として、外国に寄留する生活との対比と考えられる。
12章
祖先ヤコブの歩みを語り、「主こそ万軍の神」「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」(6~7)と主は命じられた。
「主が預言者たちに言葉を伝え/多くの幻を示し/預言者たちによってたとえを示した(11)。」とは、ホセアの場合、結婚そして妻の買い戻し、また子どもの命名において、主の命令に従ったことなどを通して、主なる神様のイスラエルの民への深い愛を体現したことを指す。
13章
主は言われた。「わたしこそあなたの神、主。/エジプトの地からあなたを導き上った。/わたしのほかに、神を認めてはならない。/わたしのほかに、救いうる者はいない。」(4)。9節では神に背いたイスラエルの滅亡を、主は語られた。
14章
「わたしは背く彼らをいやし/ 喜んで彼らを愛する。/まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」(5)「ああエフライム、あなたはわたしによって実を結ぶ。」(9)と主は語られ、最後に「知恵のある者はこれらのことをわきまえよ。主の道は正しい。神に背く者はその道につまずく。」との言葉で、「ホセア書」は終わっている。
【注目点】
*ホセアは妻ゴメルを救って、連れ帰るために、彼女を奴隷の状態から代価を支払って買い戻した。このことは、主なる神様が私たちのためにしてくださったことを思い起こさせる。主なる神様は私たちを買い戻してくださったが、そのために支払われた代価は、イエス様ご自身の命だった。このように「救い」のためには大きな犠牲が必要であることに注目したい。
旧約聖書において、多くの預言者たちが主なる神様に立ち帰るようにと語ってきたが、これに従えなかった民のために、最終的には神様のたった一人の子どもであるイエス様をこの世に送られた。イエス様は十字架において私たちの罪の身代わりに罰を受けてくださった。イエス様の十字架の死と復活、昇天によって、一民族であるイスラエルの民の救いから全人類の救いへと大きく広がり、歴史的大転換を見ることができたことを覚えておきたい。(紀元前から紀元後へ)
【質疑応答】
①2:2 「一人の頭を立てて」とあるのは、メシア預言なのか?
メシア、すなわち救い主に関する預言と考えられます。
2:1「わが民でない者が生ける神の子らと言われるようになる」と考えると、イエス・キリストによって、イスラエルの民でない人々(異邦人)にも救いが与えられて、神の子とされるということの預言と考えられます。
②ホセアはホセア書で初めて登場したが、どのような身分や立場の人だったのか。
父はベエリ(1:1)、妻はゴメル(1:3)でした。また、三人の子供の名前は書かれていますが、身分や立場に関しては聖書には書かれてはいません。
③同じ時代に活躍した預言者は他にもいると思うが、この当時は預言者間での関わりはなかったのか?
同時代の預言者として、アモスは北イスラエル王国への預言者、また、イザヤとミカは南ユダ王国に対しての預言者ですが、預言者間の関わりについては、聖書には書かれていません。
【感想】
・ホセア書を通して読んだのは初めてだったが、今までの聖書研究会で出てきた時代とかなり重なっていてそれほど抵抗なく読めたので、知識がついてきたことを実感できた。
・ゴメルを買い戻したことが、イエス様が私たちを買い戻してくださったことを暗示しているというのは自分で読んだだけではわからなかったので、今回学べてよかった。
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