神学校での学び 10 『聖書神学(1)』 2022年12月
神学校では、聖書の言葉すなわちギリシャ語とヘブル語を学ぶことになっています。ただし現在は、多くの神学校や大学の神学部でも、その学びはかなり初歩的なものに止まり、ある学校や学部では選択科目になっていたり、ほんの入門的な内容をさらっと学ぶところが増えてきているようです。
しかし、神戸ルーテル神学校では、例えば、ギリシャ語を通常は一年かけて、みっちりと学ぶことになっており、伺い聞くところによると、日本国内でも屈指の厳しいコースとなっているようです。では、なぜギリシャ語やヘブル語を学ぶのでしょうか。その目的は、聖書を日本語や英語といった翻訳された言葉で読むのではなく、オリジナルの言葉、言い換えれば聖書の原典から辞書だけを頼りに、自力で読めるようになることを目指しているわけです。その実際は甘いものではなく、英語に"It’s all Greek to me"という表現があり(直訳すれば「それは私にとってまったくギリシャ語だ!」ですが)、その意味は「ちんぷんかんぷんだ!」と言い表されるように難解な言語の習得となるのです。皆さんの中には、英語を主に中学と高校の6年間学ばれた方が多いと思いますが、文法的な難しさに加えて、そうした6年の過程をほぼ1年で終えてしまうというハードな過程にもなります。神戸ルーテル神学校の先輩たちのなかには、ここは神学校ではなく、語学学校だと形容した人もおられるくらいです。でも、上にも書きましたように、そのような学びを経て、ようやく聖書を原語で読み込める、いわゆる釈義のプロセスに達することができるわけです。極論をすれば、その段階に至らなければ、他の人が翻訳し、解釈や説明をした二次資料を使って聖書に接していることになるので、説教を取り次ぐ教会の教職者には、可能な限り原典から語ることが出来ることを神学校では課していることになります。
では、聖書を原語で読めれば、翻訳(私たちの場合は日本語)とどう異なるのでしょうか。枚挙に暇もないほどの事例から、ここではひとつだけをご紹介したいと思います。それは「主の祈り」についてです。私たちは礼拝やさまざまな機会に「主の祈り」を、一人で、或いは多くの方々と唱和します。中には、暗記されている方々も多いと思います。その「主の祈り」には「われらに罪を犯す者をわれらが許すごとく、われらの罪をもゆるし給え」という箇所があります。日本語では、まず「われらが---〇〇ごとく」と条件のような文言が述べられ、それに続いて「われらの罪をも許してください」という順になっています。しかし、もともとのギリシャ語はまったく逆なのです。この箇所で大切な点は「私たちの罪を赦してください」という祈りです。それは、他の人の罪を赦したからという条件つきのものでなく、日本語の前半の文言は、あくまで「〇〇のように---」という付加されたものに原語のギリシャ語ではなっているのです。「われらの罪をゆるしたまえ」がポイントなのです。
こうしたことを聞くと、「主の祈り」が、ぐっと強いメッセージとなって心に迫ってくるように、皆さんはお感じにはならないでしょうか。聖書を原語で読むと、このような、目からうろこのようにはっとさせられる事柄にいくつも出会います。
新年には、聖書神学の他の面について触れたいと思います。
素晴らしいクリスマスと平和で希望のある新年が迎えられますことをお祈りいたします。
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