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執筆者の写真明裕 橘内

神学生日記 11月 by H.M

神学校での学び 9 『組織神学(3)』


前回は、ルターの神学について、組織神学の視点から、その「礼拝論」を中心にご紹介しました。組織神学では、その他にも、「教会論」、「終末論」、「啓示論」など多様な領域があり、そのひとつひとつが、大切で深い学びとなっており、とても数年では学びきることができないような内容となっています。改めて考えたいのは、それらについては、過去2000年以上もの歴史の中で、多くのキリスト者が、日夜、ときには自らの命をかけて取り組んできた事柄の集約とも言え、それが組織神学だとも考えられることです。


今回は、そのなかで、やはりルーテル教会につながる者としては欠かせない、「救いとはなにか」、特にそのなかの「義認」、そして「律法と福音」について簡潔に触れたいと思います。


ルターまでのローマ教会の教えでは、人は「救われる」ためには、「功績」を積まなければならいとされてきました。ですから、多くの人が、罪の赦しのために修行を積んだり、献げものを自らの限界を超えて献げたりして、努力を重ねていたのです。そうした努力そのものを、一方的に間違いということはできません。しかしルターは、そこに大きな問題を感じたのです。私たちは、いくら自らの努力で、律法を守ろうと努めても、神様の視点からすると、それは決して十分なものになり得ないのではないか。さらに、もし私たちが自分の努力次第で、自らを少しでも「救い」に近づけることができるのなら、イエス様が私たちの罪のゆえに十字架で身代わりになってくださった意味は失せてしまうのではないか。それら根本的な問いが、自らも厳しい修行を続けるなかで、ルターをある結論に辿りつかせました。


彼は、人間の方からの努力ではなく、神様からのキリストにある赦し(それが「恵み」です)、言い換えれば、自らは罪人であると認めて、その「恵み」を全面的に受け入れる、それこそが信仰であり、その信仰を神様が認めてくださったときに、私たちは「救われる」と考えたのです。それが信仰義認です。また、そうしたメッセージこそが、律法ではなく福音であると説いたのです。 


いかがでしょうか。「神様は私たちに愛をもって近づいてくださるけれど、私たちも努力をしないと救われない」という考え方は、ある意味では分かりやすく、多くの人たちも「救い」をそのように捉えています。しかし、ルターは、「罪を認め信じる人たちには、『無償で(ただで)』、救いはもたらされる」と主張したのです。これが、ルター神学の中心にある「律法と福音」に関する理解なのです。


次回からは、いよいよ聖書の神学、「聖書神学」についてご紹介していきたいと考えています。

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