【そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。 マラキ書 3:16】
今、今月の聖書研究会のために、マラキ書を読んでいます。上の御言葉の「そのとき」というのは、神様に対して人々がひどい言葉を語っているときでした。神に仕えることはむなしい、何の益があろうかと言っていた人々の言葉を、主を畏れ敬う者たちが聞き、何と答えればいいのかと語り合っていたのでしょう。主なる神様はそれに耳を傾けて聞いておられました。主は私たちの語りかけに耳を傾けてくださるお方です。
このような「マラキ書」の特徴である応答形式が随所に見られます。
たとえば、3章7節【あなたたちは先祖の時代から/わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると/万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように立ち帰ればよいのか、と】。
「神に立ち帰りなさい」と言われて、はいそうします、ではなく、どのようにすればいいのですか、と問い返します。それはどのような方法を取ればいいのか教えてください、というよりも、開き直りや服従の先延ばしと考えられます。
では、神に仕えることはむなしく、何の益もなく、すぐに忘れ去られるのでしょうか。いいえ、神様を畏れ敬い、神様を深く思う人のことを記録の書に書き記されたと、書かれています。書き残して覚えていてくださるのです。
青年会主催の聖書研究会として、3,4年前から、旧約聖書を毎月一書ずつ読み進めきましたが、今月の「マラキ書」で最後となります。旧約聖書のうしろの三分の一はイザヤ書から最後のマラキ書まで、預言書が続きます。預言書の趣旨は「神に立ち帰りなさい」なのですが、神様の愛の具体的なお姿をたびたび見せてもらいました。上記の箇所においても耳を傾けてくださる、覚えていてくださる神様に気づかせてもらいました。
最後の「マラキ書」では、冒頭から、神様はあなたたちを愛してきたと言われています。他の預言書には見られないところです。それに対して人々は、うれしい、感謝などではなく、「どのように愛を示してくださいましたか」との反応でした。イスラエルの繁栄などという具体的な変化が見えなかった時代でしたので、神様の語りかけに疑問を持つ人々も多かったので、このような応答の形式が随所に見られることとなったのでしょう。
不平不満や疑問に対しても、神様は耳を傾けてくださるのです。そして、神様を深く思う人のことを覚えてくださいます。その結実として、この400年程後に、時が満ちて、イエス様の誕生となります。
救い主イエス様の誕生は待ち望まれていましたが、そればかりか、人間の思考を越え、十字架のあがない、復活、昇天へと展開していきます。聖書の神様は、旧約聖書のイスラエルの民の神様から、このイエス様によって、あらゆる人々の神様へと範囲が広がっていきます。イエス様は、旧約聖書の律法の規定に従うことのできない、預言者に従うこともできない人々への救い主となられました。旧約聖書を通して、神様の愛、あがないの必要性、イエス様への待望を深く学ぶことができ、たいへん感謝しています。
(きつない・れいこ)
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