「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマの信徒への手紙6章4節)
11月第1週目の日曜日は、全聖徒主日と呼ばれて、御影ルーテル教会においても、例年、墓前礼拝が行われます。
全聖徒とは、天に帰られた兄弟姉妹をも含めて全ての信徒ということを示しています。
ルーテル教会において、またカトリック教会や日本キリスト教団など多くの教会においても、天に帰られた兄弟姉妹を覚える礼拝が行われます。
さて、日本では長らく「死」という言葉は受け入れ難い出来事を表していて、時として避けて考えられてきました。しかし、聖書では「死」という言葉が遠慮なく、多く目にする箇所があります。それは、「死んだら終わり」というような死生観ではなく、イエス・キリストが十字架で死なれましたが、神様によって復活させられたという事実に基づいて、わたしたちも肉体の死で終わってしまうのではなく、天国で新しい命に生きることができるからなのです。
わたしたちは洗礼によって、キリストと共に死んで葬られたのです。そして、キリストの死、そして復活にあずかる者として頂きました。「死」だけ見つめるのではなく、その先の天国や復活を視野に入れていく時に、肉体の「死」も受け入れて、わたしたちも新しい命に生きる希望が湧き上がります。
また、上記の聖書の箇所は、「洗礼」によってキリストと共に自分自身は死に葬られ、そのことを通してキリストの死と復活にあずかり、新しい命に生きることができる者とされていることへの認識が深まりました。数十年前となりますが、私は洗礼式の日に黒を基調とした服装で教会に向かったことを覚い出しました。洗礼準備の聖書の学びを通して、洗礼は自らに死ぬことであると意識していたからです。
洗礼によって、新しい命に生きる者として頂いたわたしたち。そのわたしたちを神様が用いて下さって、新しい命に生きる方々が増し加えられますようにお祈りしています。
(きつない・れいこ)
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