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執筆者の写真明裕 橘内

とってもやさしいルターの小教理問答書講座(仮題)第7回目

【第五の戒め】

殺してはいけません。


問い これはどういう意味ですか。


答え

 私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。 ですから、私たちは隣人の体に害を与えたり、傷つけたりしてはいけません。 そうではなくて、病気のときに隣人を助け、看病してあげるのです。

(マルチン・ルター著 結城浩訳 『マルチン・ルターの小信仰問答書』より

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今月からしばらく、「殺すことなかれ」「盗むことなかれ」といったような、私たちが「当然守っています」と思わず答えてしまうような戒めが続きます。このような戒め、どのように読めばいいのでしょうか。


今回は「殺すことなかれ」(今回ご紹介している訳では「殺してはいけません」)についてです。どんなに心探られようと、私たちには人を殺した覚えはありません。勿論、私たちは生きるためには食べないといけないわけで、その意味で言うと、私たちの食物となるものの命を奪って、それで生きていると言わざるを得ません。また、人類がここまで生き延びてくるためには、どこかで誰かがその敵となるものの命を奪ってきたことも確かです。永遠の神の言葉である「殺してはいけません」は、これらの面にも適用されます。私たちは、どこかで間接的に、何かの命を奪っているのです。


それでもここまで生かされているということは、どこかで「赦し」の恩恵を受けているからです。私たちを幸せの中に生かしていこうという神様のご意向があるので、殺していないから当然のこととして生きている、というのではなく、何らかの意味で命を奪っている側面を抱えてはいるのだけれども、不思議にも生きることを赦されて今がある、ということです。


更に言うと、「こんな腹立たしい人、いなければいいのに!」と心の中で呪うことも、実際に殺すという行為にまでは至っていないものの、それと変わらないような心の動きを持っているものだ、と言われることがあります。神経質に聞こえるかもしれませんが、そこまで突き詰めて自分を見詰めるということも、時には必要かもしれません。


ただ、それでも、この戒めが本来求めていたことを忘れてはなりません。ルターはそれを、

「病気のときに隣人を助け、看病してあげるのです」という一文に表現しています。「殺してはいけない、と言われているぐらいだから、とにかく周りの人を害してはいけない」と手足を引っ込めてしまって閉鎖的になるのではなく、むしろ心は他者に対していつも開いていて、積極的に隣人愛に向かっていく。どのぐらい実践できるかはわからないけれども、とにかくそちらの方向に心を向けてみる。これが重要なのかもしれませんね。


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