姦淫をしてはいけません。
問い これはどういう意味ですか。
答え 私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。 ですから、私たちは言葉においても行いにおいても、 きよくあり、つつましやかでなければなりません。 そして自分の配偶者を愛し敬うべきです。(結城浩訳 ルターの少教理問答書より)
今回からタイトルより(仮題)を取りました。このままこのタイトルで書いていきたいと思います。
とは言え、今回のテーマは決して書きやすいものではありません。青少年が学ぶことも多いこの小教理で、「姦淫」という言葉をどう伝えるか。今回使っている訳文に出てくる「配偶者」も含め、「将来」直面する事柄について、あらかじめ知っておくことは重要だから、というスタンスで教えるのでしょうか。
報道に関して、例えば何か凶悪な事件があったとして、それを克明に伝えるという姿勢と、かえって報道によってその出来事をある意味で広めているかのようになるから、あえて控えめに報じる、という姿勢と、両方があるようです。その意味では、いずれ直面しなければならないこととは言え、「姦淫」という言葉を青少年の目にさらす必要があるのか、かえって関心を呼び覚ますようになってしまうのではないか、という意見も出てくることでしょう。
いずれにしても、どう薄めようとどう隠そうと、いつかは青少年もこの言葉に出会うのであり、そもそも、この言葉に違和感を持つ人々のグループはほかにもあるのであり(例えば女性)、全年代の人が小教理と向き合っていくことを考えると、むしろ健全にこのことばと向き合うことを考えたほうがふさわしいのかもしれません。
その中で、「神様と人間の間でも、ほかの神々に心を寄せる(それは神以外の物に頼ってしまうことも含め)なら、姦淫になるのですよ」と矛先を変えるのではなく、信じている者の世界にはそのようなことはありえない、と目を背けるのでもなく、いつそのような言葉で表現され得るドロドロとした世界に迷い込んでしまう、あるいは落ち込んでしまうかはわからない、そのような緊張感の中に生きている、ということをしっかり受け止めておくことが大事なのかもしれません。もちろん、可能性は低いかもしれない。でも、可能性は低いかもしれないけれども起こらないとは言い切れない自然災害(南海トラフ巨大地震であるとか)に私たちは備えているのですから、同じように、たとえ可能性は低いとしても、神の言葉が警告を発している以上、私たちも警戒を怠らないようにしておきたいものです。
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