第六部:聖餐式について
父親が家族に聖餐式を簡潔に示すには(4)
[問い] それでは誰がこのような聖餐にあずかることができるのでしょうか。
[答え] もちろん、断食やそのほかの物理的な準備というのは、 体にとってすばらしい訓練となるでしょう。しかし、 「あなたたちのために与えられる」および「あなたたちの罪を赦すために流される」 という言葉を信じる人なら誰でも、 聖餐にあずかる十分な資格があり、準備ができているのです。 しかしながら、これらの言葉を疑ったり信じなかったりする人は聖餐にあずかる資格がないのであり、 準備ができていないのです。 なぜなら「あなたたちのために」という言葉は、 完全に信ずる心を求めるからです。(結城浩訳 『ルターの小教理問答書』より)
ここでもルターが大事にしているのは、信じる心、すなわち「信仰」です。聖餐式は、言ってみれば目に見えて、口で味わうことのできる礼典ですから、わかりやすく、とらえやすいものではあります。しかし、しかし、それが私たちに求めるのは、見えないものを信じる「信仰」なのです。矛盾しているようではありますが、ここに真理があります。
そこにパンとぶどう酒があり、それを手で取って、口で味わうことができるからこそ、それに惑わされ、かえって大事なことが見えなくなってしまうことがあります。信じる仲間と共に聖餐にあずかることによって、それを「共同の食卓」としか受け止めることができなくなることがあるかもしれない。時には、聖餐式が単なるイエス様の記念会、十字架のメモリアルのように思えてくることもないとは言えません。しかし、その奥には、私たちの罪を赦し、命と救いを与えるという、聖餐式の本質が隠されています。その見えない本質を見通すのが、信仰の力なのです。
聖餐式の項の解説を終えるにあたり、改めて、聖餐式の持つ豊かさを覚えます。それは遥かに、共同の食卓や、メモリアルを超えています。聖餐式にあずかり続けることによって、それの与える現実(リアル)、すなわち、罪の赦しを豊かに頂いてまいりましょう。
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