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執筆者の写真明裕 橘内

とってもやさしいルターの小教理問答書講座 第31回

教育を受けていない人に罪の告白を教えるには(2)

[問い] どのような罪を懺悔しなければならないのでしょうか。

[答え] 神様に話すときは、たとえ自分が知らない罪であっても、 私たちはすべての罪を、負っていることを認めなくてはなりません。 それはちょうど「私たちの父」に対してするのと同じです。 でも、懺悔師(confessor)に対して話すときは、私たちが知っている罪、 心に覚え、感じている罪だけを告白するのです。


[問い] それはどのような罪ですか。

[答え] ここで、十戒に照らして自分の生活の中での立場を考えてみましょう。 あなたは父ですか。母ですか。息子ですか。娘ですか。 夫ですか。妻ですか。召使ですか。あなたは不従順、不信仰、不熱心だったりしませんか。 言葉や行動で人を傷つけたことはありませんか。 盗んだり、義務を怠ったり、物事をほったらかしにしたり、誰かを傷つけたりしたことはありませんか。(結城浩訳 『ルターの小教理問答書』より)


前回の記事を読み返して、ルターの小教理のこの部分のタイトルが「教育を受けていない人に罪の告白を教えるには」となっていることに今更ながら気づき、ドキッとしました。もちろん翻訳の言葉をそのまま引用しただけなのですが、コンプライアンスに厳しい昨今においては、問題とされるかもしれません。ルターは、「誰にでも、この罪の告白という大事な事柄が伝わるように」との思いでこのように書いたのではないでしょうか。翻訳によっては、このことばは省略されているようです。


この部分で大事なことは、実際に誰かに罪の告白をする場合に、「私たちが知っている罪、 心に覚え、感じている罪だけを告白する」と言われていることです。罪の告白は、強いられて、脅かされて無理になされるものではないのです。


また、何を罪とするか、ということに関しては、鋭敏な宗教感覚であるとか、深い内省によるものではなく、確かな神の御言葉による、ということです。「十戒に照らして」と言われている通りです。私たちは、自分の感覚ではなく、十戒など、あくまで神の御言葉によって、何が罪であるかを知るのです。


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